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第40話 塔の上の姫君、蜘蛛の囁き(エピローグ) 

 王都ゼノリスの北端。  断崖絶壁の上に突き立つ、一本の巨大な墓標のような石造りの塔があった。


 『嘆きの塔タワー・オブ・ラメント』。


 王家の罪人を幽閉し、世間からその存在を抹消するための絶対監獄。  塔の周囲には、王宮魔導師団が総力を挙げて構築した『四属性遮断結界(エレメンタル・バリア)』が張り巡らされ、蟻一匹の侵入さえ許さない鉄壁の防御を誇っていた。


 ――はずだった。


「……もろい」


 夜風に混じって、少年の呟きが漏れる。  闇夜を疾走する影――Fランク冒険者の姿をしたシンは、塔の壁面を垂直に駆け上がっていた。


 彼の指先が結界の光膜に触れるたび、パリン、と薄氷が割れるような音がして、最強の防衛システムが機能不全に陥っていく。  破壊ではない。術式(コード)の瞬時解析と無効化。  始祖(オリジン)である彼にとって、人間が作った結界など、蜘蛛の巣ほどの強度もない。


「お邪魔するよ、お姫様」


 シンは地上五十メートルにある最上階の鉄格子を、飴細工のように無造作にねじ曲げ、音もなく独房の中へと滑り込んだ。


 ◇


 石造りの冷たい部屋には、家具の一つもなかった。  あるのは、床に敷かれた汚れたわらと、そこから漂うカビと絶望の臭いだけ。


 その暗がりで、一人の少女が膝を抱えていた。


 第三王女、セリス・ゼノリス。


 かつて「王国の一輪の白百合」とうたわれた美貌は見る影もない。  自慢の銀髪は汚れで灰色に淀み、宝石のようだった紫の瞳は光を失っている。  身に纏うのは、王族のドレスではなく、薄汚れた麻の囚人服だ。


「……殺して」


 乾いた唇から、かすれた声が漏れる。


 父王毒殺未遂という冤罪。  信じていたギルバートの嘲笑。ソフィアの冷酷な目。  そして何より、誰一人として自分を助けようとしなかった騎士や臣下たちへの絶望。


 この国は腐っている。  正しき者が泥を啜り、狡賢い者が玉座で笑う。そんな世界なら、いっそ消えてしまいたい。


「誰か……私を……殺して……」


 涙さえ枯れ果てた瞳が、虚空を見つめる。  その時。


「――殺してほしいのか? 随分と安い命だな」


 凛とした声が、死に絶えた部屋に響いた。


「ッ!?」


 セリスが弾かれたように顔を上げる。  ねじ曲げられた鉄格子の窓枠。  そこに、月を背にして一人の少年が腰掛けていた。


 黒髪に黒目。どこにでもいそうな少年。  だが、その瞳。  月光を反射して怪しく輝くその深紅の瞳だけは、人間のものではない、底知れぬ深淵の色をしていた。


「だ、誰……? ここへは、誰も入れないはず……」


「俺か? 通りすがりの商売人さ」


 少年――シンは、悪戯っぽく笑いながら床に降り立った。  彼は怯えるセリスの前に歩み寄ると、汚れた囚人服など気にする素振りも見せず、彼女の顔を覗き込んだ。


「セリス・ゼノリス。……噂通りの『悲劇のヒロイン』だな。今は随分としおれているが」


「……私を、笑いに来たの?」


「まさか。俺は、お前を『買い』に来たんだ」


 シンは、市場で家畜を値踏みするかのような目で、セリスを見下ろした。


「素材は悪くない。……王家の血筋。民衆からの人気。そして何より、その瞳の奥にある『絶望』と『憎悪』。  ……ククッ、最高だ。極上のスパイスが効いている」


 シンは愉悦に目を細めた。  今のセリスからは、かつての清廉潔白なオーラは消え失せている。  代わりに渦巻いているのは、自分を陥れた家族への殺意と、理不尽な世界への呪詛。  それは、聖女が魔女へと堕ちる直前の、最も美しく、そして危険な輝きだった。


「お前に二つの選択肢をやろう」


 シンは指を二本立てた。


「一つ。このままここで、誰にも知られずに野垂れ死ぬか。  あるいは明日、兄王子が送ってくる処刑人に首をねられるか」


 セリスの肩が震える。死の予感は、彼女自身も感じていたことだ。


「そして二つ目」


 シンは、立てた指を一本に絞り、セリスの鼻先に突きつけた。


「俺の手を取れ。  そうすれば、お前に『力』をやる。  この腐った牢獄をぶち壊し、お前を陥れた兄や姉を地獄へ叩き落とし……この国の全てを手に入れる『王の力』を」


「……王の、力……?」


「そうだ。俺はお前たちが崇める神ではない。……願いを叶える『悪魔』だ」


 ドォォォォォン……!


 シンの背後から、圧倒的な覇気(オーラ)が噴き出した。  少年の輪郭が揺らぎ、その影が天井を突き破るほど巨大な「蜘蛛」の形を成す。  世界を捕食する、絶対的な怪物。


「ひッ……!」


 セリスは腰を抜かし、後ずさる。  だが、その目から恐怖の色が消え、代わりに昏い炎が宿り始めた。


 神は助けてくれなかった。  ならば、悪魔の手を取ることに何のためらいがあろうか。


「……復讐、できるのね?」


「ああ。約束しよう。ギルバートも、ソフィアも、お前の足元に這いつくばらせてやる」


「……この国を、私のものにできるのね?」


傀儡かいらいとしてだがな。……だが、玉座からの景色は悪くないぞ?」


 シンは手を差し出した。  その手は、地獄へと続く甘美な招待状。


「代価は、お前の『全て』だ。心も、体も、魂も。  ……その覚悟があるなら、この手を取れ」


 セリスは、震える手を伸ばした。  この手を取れば、もう二度と「白百合の姫」には戻れない。手は血に塗れ、魂は闇に染まるだろう。


 それでも。  このまま惨めに死ぬよりは、悪魔に魂を売ってでも、あいつらに吠え面をかかせてやりたい。


 セリスの指先が、シンの手に触れる。


「……いいわ。くれてやる」


 少女の口元が、三日月のように歪んだ。  それは、堕ちた聖女が見せる、初めての「魔性の笑み」だった。


「私の全てを捧げます。……だから、力を!」


 シンは獰猛に笑い、その細い腕を強く引き寄せた。


商談成立ディールだ。  ……行くぞ、セリス。夜明けは近い」


 月明かりの下、魔王と姫の手が結ばれる。  それは、ゼノリス王国の滅亡と、新たな支配体制の始まりを告げる、禁断の契約だった。


 (第1章 完)

ここまでお読みいただきありがとうございます!

これにて第1章「始祖の気まぐれ」完結となります。


次回からは第2章がスタートします。

次なる標的は、北の宗主国・ゼノリス王国。

武力による制圧の次は、如何にして国を喰らい尽くすのか……。

新たな「国盗り」の物語にご期待ください!

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