第4話:廃道を行く影
メジ村を背にしてから、三度目の太陽が沈もうとしていた。
シンは今、旧世界において「高速道路」と呼ばれていた文明の残骸の上を、ひたすら西へ向かって歩き続けていた。
かつて、鉄の箱が猛スピードで行き交っていたであろうその道は、長い年月の間にアスファルトがひび割れ、隆起し、見る影もない。
中央分離帯であった場所からは、樹齢数百年はあろうかという巨木が天を突き、その根がコンクリートを無慈悲に砕いている。
頭上を覆う錆びついた防音壁には、血管のように太い蔦が絡まり、名もなき花が毒々しい色彩で咲き誇っていた。
黄昏時。
魔物たちが活性化し、弱者が狩られる時間帯。
シンは、ボロボロの麻のチュニックに、膝の抜けた茶色のズボン、背中には小さな麻袋という出で立ちで、淡々と歩を進めていた。
もし、この場所ですれ違う旅人がいれば、間違いなく「遭難者」か、あるいは「無謀な家出少年」だと思うだろう。
Fランクの気配。武器も持たず、魔力も感じられない。
格好の「獲物」だ。
だが、奇妙なことに、彼が歩くその周囲半径一キロメートル圏内は、不気味なほど静まり返っていた。
鳥の声も、虫の音すらしない。
乾いた風の音だけが、荒廃したアスファルトの上を吹き抜けていく。
それはまるで、王の行進に合わせて、臣下たちが息を潜めているかのようだった。
(……静かすぎるのも、考えものだな)
シンは深く被ったフードの下で、自嘲気味な笑みを浮かべた。
彼の足元。
長く伸びた夕日の影の中から、目に見えない無数の「糸」が、周囲一帯に張り巡らされている。
シンの固有能力——【蜘蛛操作】。
それは単に、目の前の蜘蛛を操るだけの力ではない。
彼はすでに、森で捕獲した数千匹の「斥候蜘蛛」を、自身の周囲に展開させていた。
米粒よりも小さな蜘蛛たちが、風に乗り、草葉の陰に潜み、あらゆる生体反応を感知する。
街道の岩陰に潜むゴブリンの斥候。
木の上から飛びかかろうとしていた巨大な豹。
空を旋回し、隙を伺っていた怪鳥。
それらは全て、シンの視界に入る前に、斥候蜘蛛たちの毒牙によって「処理」されていた。
断末魔を上げる暇さえ与えない。
その亡骸は、シンの影の中に作られた「亜空間」へと、音もなく引きずり込まれていく。
Fランクの魔物とはいえ、数千匹単位で捕食すれば、塵も積もれば山となる。
シンは歩きながら、自身の体内で微細な魔力調整を行っていた。
(……いたな)
ふと、シンは足を止めた。
道端の生い茂った草むら。
常人の目には、風に揺れるただの草むらにしか見えない。
だが、シンの瞳——かつて蜘蛛から捕食し、己が肉体へと組み込んだ「多眼」の権能は、そこにある違和感を見逃さなかった。
草の揺れ方が、風の向きとわずかに逆らっている。
光の屈折率に、コンマ数秒のズレがある。
周囲の風景と完全に同化しようとする、粘着質な魔力の波長。
シンは、脳内で解析を実行する。
【解析完了】
種族:ステルス・リザード
ランク:F
ゼロ:【擬態】
派生:【色彩変化】【体温遮断】
クラス:【カメレオン(擬態者)】
そこには、全長二メートルほどの巨大なトカゲが潜んでいた。
皮膚の色を背景に合わせて変化させ、体温すらも周囲の気温と同調させる。
Fランクの魔物だが、その擬態能力は極めて優秀だ。多くの新人冒険者が、気づかずに間合いに入り、その太い顎で足を食いちぎられる。通称「初心者の壁」。
(……擬態か。悪くない素材だ)
「……狩れ」
シンが短く呟く。
その言葉は、死刑宣告よりも重く、冷たい。
瞬間。
シンの足元の影が、槍のように鋭く伸びた。
そこから飛び出したのは、斥候蜘蛛ではない。戦闘に特化した「捕食蜘蛛」たちだ。
黒い弾丸と化した数百の群れが、草むらへと殺到する。
「ギ……!?」
リザードは、自分が襲われたことすら気づかなかっただろう。
認識外からの、音速の刺突。
数百の蜘蛛がリザードの体に張り付き、鋼鉄をも溶かす消化液を注入し、肉を溶かし、骨を砕く。
ジュワアアア……。
肉が焼け焦げるような異音と共に、巨大なトカゲの輪郭が崩れていく。
悲鳴を上げる喉すらも、一瞬で溶かされた。
わずか数秒。
そこには、魔素の残滓と、わずかな骨片しか残らなかった。
同時に、シンの脳裏にシステムログが流れる。
【ゼロ・プレデション(零の捕食)】——発動。
捕食対象:ステルス・リザード(ランクF)
獲得スキル:【擬態(ランクF)】
獲得派生:【光学迷彩(ランクF)】
(……Fランクか。まあ、こんなものか)
シンは小さく頷いた。
彼の【ゼロ・プレデション】は、食べた対象のランクそのままでスキルを獲得する。
Fランクの魔物を食えば、Fランクのスキルしか手に入らない。これでは、いつまで経っても最強には程遠い。
だが、シンには「時間」を操る始祖としての特性がある。
【成長促進(ランクG)】。
対象の時間を局所的に加速させ、数十年分の鍛錬を一瞬で行わせるチート特性。
シンは、手に入れたばかりの【光学迷彩】を、自身の影に潜む「裏の衣(黒いローブ)」に付与し、魔力を通した。
「……加速」
体内時計を狂わせるほどの魔力奔流。
一瞬で、経験値がカンストする。
スキル熟練度:MAX
ランクアップ >>
【光学迷彩(ランクE)】へ進化
(よし。これを繰り返せば、いずれはSランク相当の隠密スキルになる)
この時代の人間たちは、長い時間をかけてスキルの熟練度を上げ、そこから新たな【派生】を見出し、最終的に【クラス】という名の専門職へと昇華させる。
一生をかけて一つの道を極めるのが、彼らの常識だ。
だが、シンはその過程を「捕食」と「時間操作」だけで、一瞬にして完了させる。
他者の生きた証、積み上げた時間を奪い、自分の糧とする。
まさに、最強にして最悪の「寄生」能力。
(Fクラス、Dクラス……。人間たちの分類で言えば、俺は今どのあたりだ? ネメシス最強とされるBランクまではすぐだが、Lクラス(伝説級)への道はまだ遠いな)
シンは再び歩き出した。
地平線の先に、巨大な影が見え始めていた。
旧世界の超高層ビル群の残骸を、そのまま城壁として利用した、異形の摩天楼。
人類最大の再構築都市の一つ。
城塞都市ネメシス。
そこには、数え切れないほどの「能力」が、そして美味なる「餌」たちが待っている。
(待っていろ、現代の子供たち)
夕闇に溶けるように、少年の影が長く伸びた。
その影は、やがて都市全体を飲み込む巨大な「蜘蛛の巣」となることを、まだ誰も知らない。




