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第39話 腐臭漂う王都、五つの毒

 大陸の北を吹く風は、季節外れの冷たさと、微かな鉄錆の臭いをはらんでいた。


新興都市ネメシスの支配領域を抜け、北の国境を越えた瞬間、世界の色調が一段階暗くなったように感じられた。  空は鉛色の雲に覆われ、枯れかけた木々が亡霊の手のように枝を伸ばしている。  整備されたネメシスの街道とは異なり、こちらの道は泥濘ぬかるみ、車輪のわだちが深く刻まれたまま放置されていた。


ゼノリス王国。  かつては大陸有数の栄華を誇った大国も、今やその血管には「腐敗」という名の毒が回りきり、緩やかな死を待つ巨獣と化している。


その街道を、一台の古ぼけた幌馬車が軋みながら進んでいた。


「……くせェな」


御者台の隣、護衛として座っていた赤髪の男が、顔をしかめて吐き捨てた。  粗末な革鎧に身を包み、大剣を背負った傭兵風情の男。  だが、その眼光の鋭さと、隠しきれない筋肉の躍動は、ただの傭兵ではないことを雄弁に物語っている。


レギオン・蜘蛛(アラクネ)の最高戦力、四天(テトラ・カラミティ)が一角、アレスである。  今の彼は、深紅の魔導鎧を脱ぎ捨て、主の護衛という名の「荷物持ち」に扮していた。


「我慢しろ、アレス。……これが『滅びゆく国』の臭いだ」


荷台の幌の隙間から、黒髪の少年が顔を覗かせる。  くたびれたチュニックを着た、どこにでもいそうな冒険者見習いの少年。  その瞳は大きく、怯えたように周囲を窺っている――ように見えるが、その奥底には、深淵のごとき冷徹な虚無が宿っていた。


Fランク冒険者に擬態した、始祖(オリジン)・シンである。


「物理的な悪臭だけじゃない。……人の心、土地の精気、それら全てが淀み、腐り落ちている臭いだ」


シンは鼻をひくつかせた。  ネメシスには、未来への希望と活気が満ちていた。  だが、この国にはそれがない。  あるのは、搾取される者たちの怨嗟えんさと、搾取する者たちの腐った欲望の脂臭さだけだ。


「おい、しっかり手綱を握れよ! 日が暮れる前に王都に入らなきゃ、野盗が出るぞ!」


御者の老人が、怯えたように痩せた馬に鞭を入れる。  道中、すれ違う村々はどこも廃墟のように静まり返り、畑は痩せ、人々の目は死んだ魚のように濁っていた。  重税に喘ぎ、明日の食事すらままならない民衆。  彼らを守るべき騎士団は、街道の整備すら放棄し、王都での権力争いに明け暮れているという。


「……ひどい有様ですね。ジェイドの報告以上だ」


シンの足元に伸びる影から、鈴を転がすような甘い声が囁いた。  姿は見えない。気配すらない。  だが、そこには確実に「彼女」が潜んでいる。


十王(デケム・キング)第三席・【(ドッペル)】ネモ・ローズ。  変幻自在の才能(ゼロ)完全擬態パーフェクト・ミミック】を持つ彼女は、シンたちより一足先に王都へ潜入し、既にその情報網スパイダー・ウェブを張り巡らせていた。


「ネモ。……『獲物』の顔触れはどうだ?」


シンが唇を動かさずに問うと、影の中でネモがクスクスと笑う気配がした。


「豊作ですよぉ、マイ・ロード。  この国の中枢には、国を食い荒らす極上の『五つの毒』が巣食っています。……どれもこれも、主の好物になりそうな、歪んで腐った魂ばかりです」


ネモの報告に合わせて、シンの脳裏に五人の王族の姿が鮮明に浮かび上がる。  それは、彼女が第一恩恵(1stギフト)の力で収集した、視覚情報の共有だった。



【一つ目の毒:権力欲】


王城「白亜の宮殿」。その玉座の間。  豪奢な軍服を着崩し、玉座にふんぞり返る男の姿があった。


第一王子、ギルバート・ゼノリス。  三十代半ば。顔立ちは整っているが、その目は常に血走り、神経質そうに指先で肘掛けを叩いている。


「遅いッ! 税の徴収はまだかッ!!」


ギルバートが手元のワイングラスを床に叩きつける。  破片が飛び散り、赤い液体が絨毯を汚す。  眼下に平伏する臣下たちは、恐怖に震えながら額を床に擦り付けている。


「は、はい……しかし、これ以上の増税は民の反発を……」 「黙れ無能が! 父王は病床だ。この国の王は余だぞ!?  余が命じているのだ、民草など干からびるまで絞り取ればいい! 逆らう村は焼き払え!」


彼の原動力は、肥大化した自尊心と、王位への渇望。  器の小ささを怒鳴り声で誤魔化し、他者を踏みつけることでしか己の価値を確認できない、哀れな暴君。


「典型的な小物だな。……操るにはうってつけだ」


シンは冷ややかに評価を下す。



【二つ目の毒:金銭欲】


王都の地下。  華やかな貴族街の地下に広がる、違法な闇市場の一室。  そこに、豚のように肥え太った貴族たちと談笑する、優男の姿があった。


第二王子、バルダス・ゼノリス。  金髪碧眼の美男子だが、その瞳は黄金の輝きだけを追い求めて濁っている。


「へへへ……殿下、今回の『商品』はいかがでしたかな?」 「悪くない。……特に、北の村からさらってきた娘たちは上玉だった」


バルダスは、奴隷商人から渡された革袋を受け取り、中身の重さを確かめてニヤリと笑った。  袋の中には、大量の宝石と、他国の通貨が詰まっている。


「国境警備隊には話を通してある。……来月は倍の数を揃えろ。隣国の公爵が、新しい玩具を欲しがっているそうだ」 「へい、心得ております。……しかし、自国の民を売るとは、殿下も悪よのう」 「勘違いするな。余は国の財政を助けているのだ。……不要なゴミを金に変えてな」


自国民を家畜のように売り払い、私腹を肥やす売国奴。  金のためなら魂さえも切り売りする、浅ましい守銭奴。


「腐りきっているな。……ジェイドの良い玩具になりそうだ」



【三つ目の毒:狂気】


王城のさらに深部。  地図にも記されていない、封印された地下実験区画。  そこには、鼻を突く薬品の臭いと、獣の唸り声、そして悲鳴が充満していた。


「――素晴らしい! 素晴らしいよ!」


狂ったように叫ぶのは、白衣を血で汚した痩せぎすの青年。  第三王子、カイン・ゼノリス。  彼の目の前には、人間と狼を無理やり縫い合わせたような、おぞましい合成獣(キメラ)が拘束されている。


「痛い? 苦しい? アハハ! それが『進化』の痛みだよ!」


カインはメスを振るい、生きたままの被験者を解体していく。  その瞳孔は開ききり、理性の光など欠片もない。  彼は純粋な知的好奇心と、生命への冒涜的な探求心のみで動く、制御不能のマッドサイエンティストだ。


「もっと素材を! 強い兵士を作るんだ! 僕だけの最強の軍団を!」


「……サフィナと同類か。だが、美学がない」


シンは不快げに眉をひそめた。  ただ切り刻むだけの解体に、技術的な価値はない。



【四つ目の毒:傲慢】


王城の練兵場。  そこでは、一方的な殺戮劇が繰り広げられていた。


「遅いわッ!!」


紅蓮の旋風が巻き起こり、数十人の近衛騎士たちが木の葉のように吹き飛ばされる。  その中心に立っていたのは、真紅の戦装束(バトルドレス)に身を包んだ美女だった。


第一王女、エレオノーラ・ゼノリス。  燃えるような赤髪をなびかせ、手には身の丈を超える巨大な炎槍を携えている。  その全身から放たれる魔力は、王子たちとは比較にならないほど強大で、鋭い。


「弱い、弱すぎる! 貴様ら、それでも近衛か!? 私の足元にも及ばないゴミ屑どもが!」


彼女は倒れ伏す騎士たちを見下ろし、侮蔑の言葉を吐き捨てる。  位階(ランク)B+(準英雄級)。  人間の限界ギリギリまで鍛え上げられたその肉体は、確かに一個師団に匹敵する武力を持つ。  だが、それゆえに彼女は勘違いしている。  「自分こそが最強である」と。世界には自分より強い存在などいないと。


「私は戦乙女(ワルキューレ)。選ばれた天才種ギフテッドだ。……この国の王となるべきは、力ある私だけ!」


井の中の蛙。  空の高さも、海の深さも知らぬまま、狭い井戸の中で最強を誇る裸の女王。


「……B+か。人間の器としては上等だが、四天の前では赤子同然だな」


シンは鼻で笑った。  その程度の力で「最強」を名乗るとは、滑稽を通り越して哀れみすら感じる。



【五つ目の毒:策謀】


そして、最後の一人。  王城の離宮、「白百合の園」。  美しい花々が咲き乱れる庭園のティーテーブルで、優雅に紅茶を嗜む女性がいた。


第二王女、ソフィア・ゼノリス。  艶やかな黒髪に、喪服のような漆黒のドレス。  その美貌は人形のように整っているが、瞳の奥には冷徹な計算機の光が明滅している。


「……兄様たちは馬鹿ね。力や金で人を縛ろうなんて」


彼女は独り言ちながら、手元のチェス盤の駒を動かす。  盤上には、王城内の勢力図が再現されている。  彼女の背後には、顔を隠した黒装束の集団――直属の諜報部隊「毒蜘蛛の糸」が控えていた。


「人は『情報』と『弱み』で縛るものよ。……ねえ?」


ソフィアが微笑むと、黒装束の一人が恭しく報告書を差し出した。  そこには、有力貴族たちの醜聞や、他国のスパイの情報が詳細に記されている。


「ふふ……。これでまた一人、私の手駒が増えたわ」


彼女は自らは手を汚さない。  影から糸を引き、毒を流し、微笑みながら敵を自滅させる。  王家の中で最も知能が高く、そして最も陰湿な策士。


「……こいつが一番厄介そうだな。ネモと同類の匂いがする」


シンは警戒レベルを一段上げた。  力押しの馬鹿よりも、裏から絡め手を使ってくる相手の方が、狩り甲斐があるというものだ。



「そして……最後にもう一人」


ネモの声が、少しだけトーンを変えた。  王城の煌びやかな世界とは隔絶された、王都の外れ。  断崖の上にそびえ立つ、古びた石造りの塔。  通称「嘆きの塔」。


その最上階の牢獄に、一人の少女が幽閉されていた。


第三王女、セリス・ゼノリス。  色素の薄い銀髪に、宝石のような紫の瞳。  粗末な囚人服を着せられ、手足には魔封じの枷が嵌められている。


「彼女は……『無実の罪』を着せられた生贄です」


ネモが語る。  国王への毒殺未遂。  それは、第一王子ギルバートと第二王女ソフィアが結託して仕組んだ冤罪だった。  民衆からの人気が高く、清廉潔白なセリスを邪魔に思った兄姉たちが、彼女を陥れ、塔に幽閉したのだ。


「民衆は彼女を『悲劇の聖女』として密かに慕っています。……ですが、彼女自身は絶望し、今はただ処刑の日を待つだけの抜け殻です」


「悲劇のヒロイン、か」


シンはその言葉に、強く惹かれるものを感じた。  絶望に沈む無力な少女。  だが、そんな存在こそが、使い方次第で国をひっくり返す「最強のジョーカー」に化けることを、シンは知っている。


「……決まりだな」


シンは、遠くに見えてきた王都の城壁を見据えた。  巨大な石造りの壁の向こうに、腐臭を放つ欲望の魔窟が広がっている。


「アレス」 「はッ」 「財布の紐は緩めておけよ。……これから、盛大な買い物を始める」


馬車が、王都の巨大な正門をくぐる。  衛兵の検問を、ジェイドが用意した「最高級の通行手形」と、アレスの放つ「無言の圧力」であっさりと通過する。


石畳の感触が変わる。  王都の空気は、ネメシスよりも重く、そして甘美な腐敗の匂いがした。


「……いい匂いだ」


シンは深く息を吸い込み、肺を満たした。  欲望。絶望。怨嗟。  それらが入り混じったカオスの香り。


「熟れた果実が五つもぶら下がっている。……どれからぎ取ってやろうか」


Fランク少年の仮面の下で、魔王が舌なめずりをした。


その足が、王都の地面を踏みしめる。  その瞬間、見えない波紋が広がり、都市全体を覆う巨大な「蜘蛛の巣」が張られたことを、誰も気づかなかった。


物語は加速する。  都市制圧から、国家簒奪さんだつへ。  第2章『傀儡の王国』。  慈悲なき収穫の宴が、今ここに幕を開けた。

本日も読んでいただき、ありがとうございます!


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