第37話 蜘蛛の糸、都市を包む
鋼鉄の蹄が去った後の大地には、重苦しい沈黙だけが残されていた。
城塞都市ネメシス。 大陸最強の軍事国家、【鋼牙帝国】の使節団が、捨て台詞と共に撤退してから数刻。 都市を覆っていたのは、勝利の歓喜ではなかった。 喉元に突きつけられた刃が、一時的に引かれただけに過ぎないという、凍てつくような緊張と不安。
「……おい、聞いたか? あの将軍の言葉」 「ああ。『鉄機兵団』で踏み潰すと言っていたな……」 「帝国に喧嘩を売っちまったんだ。もう終わりだ。この街は地図から消されるぞ」
大通りに集まった市民たちは、顔面を蒼白にし、震える声で囁き合っていた。 彼らの脳裏に焼き付いているのは、帝国の圧倒的な武力の噂だ。山を削り、国を滅ぼす鋼鉄の巨人たち。 いくらレギオンの幹部が強いと言っても、個の武勇で軍隊という「暴力の津波」を止められるはずがない――それが、常識的な判断だった。
広場に澱む空気は、伝染病のように恐怖を拡散していく。 一部の商人は荷物をまとめ始め、臆病な者は我先にと街を出ようと動き出している。 このままでは、パニックが暴動へと発展しかねない。
だが。 その不穏な空気を、たった一人の男の声が切り裂いた。
「――皆様。何を怯えていらっしゃるのですか?」
朗々と響き渡る、甘く、そして力強い美声。 群衆が弾かれたように振り返る。 レギオンハウスのバルコニー。そこに立っていたのは、夕陽を背負い、黄金の如く輝く髪をなびかせた一人の青年だった。
十王第一席、【商】ジェイド・バーンズ。
かつては老獪な老人であった彼は、主の恩恵により全盛期の美貌を取り戻し、今やこの都市の経済と民心を掌握する「顔」となっていた。 彼は優雅に広げた扇子で口元を隠し、眼下の民衆を見下ろして微笑んだ。
「帝国? 鉄機兵団? ……ふふ、滑稽な話です」
ジェイドは肩をすくめ、嘲笑を含んだ声で続ける。
「彼らがなぜ、尻尾を巻いて逃げ出したとお思いですか? 我々を恐れたからです。 我らがレギオン【蜘蛛】が持つ、帝国すら凌駕する『技術』と『武力』を目の当たりにし、勝ち目がないと悟ったからこそ、遠吠えを残して去ったのですよ」
「そ、そうなのか……?」 「確かに、あのアレス様は凄かったが……」
市民たちの顔に、迷いの色が浮かぶ。 ジェイドは畳み掛けるように、両手を大きく広げた。
「安心なさい、愛すべき市民たちよ! 我々がいる限り、このネメシスに指一本触れさせはしません! その証拠に――今宵は『勝利の宴』を開催いたします! レギオン直営の全商店を開放し、酒と食料を無償で振る舞いましょう!」
ドッ!! と広場が沸いた。 無償。タダ。その言葉の魔力は凄まじい。 恐怖は一瞬で食欲と物欲に上書きされ、人々の顔に赤みが戻る。
「レギオン万歳! ジェイド様万歳!」 「食え! 飲め! 俺たちの勝利だ!」
熱狂の渦。 ジェイドはその光景を冷ややかな瞳で見下ろしながら、扇子の陰で舌を出した。
(……単純な生き物ですね。餌さえ与えれば、不安など忘れて踊り出す)
これは慈善事業ではない。 民衆の思考を停止させ、レギオンへの依存度を高めるための「餌付け」である。 彼らが満腹になり、酔っ払って眠りにつく頃には、帝国の脅威など夢幻のように薄れているだろう。
「さあ、踊りなさい。……私の掌の上で」
ジェイドが指を鳴らすと、控えていた従業員たちが山のような酒樽を転がし始めた。 宴の始まりだ。 だが、光ある場所には必ず影が落ちる。 表通りが歓喜に包まれる裏側で、もう一つの「支配」が静かに進行していた。
◇
ネメシスの裏路地。 メインストリートの喧騒が嘘のように静まり返った暗闇の中を、数名の男たちが足早に移動していた。 彼らは目深にフードを被り、懐には短剣や毒薬を忍ばせている。 混乱に乗じて商店を襲い、金品を奪って逃亡しようと企む小悪党たち、あるいは帝国の密偵として放たれた残党だ。
「へっ、馬鹿な市民どもが浮かれている隙に、いただきだ」 「今のうちに金目の物を回収して、ずらかるぞ」
男の一人が、鍵のかかった貴金属店の裏口に手をかけた。 その時。
「――通行止めだ」
重く、地響きのような声が、背後から降ってきた。
「あ?」
男たちが振り返る。 路地の入り口を塞ぐように立っていたのは、巨岩のような男だった。 身長二メートル近い巨躯。鋼鉄のような筋肉を包むのは、仕立ての良い漆黒の軍服。 その胸元には銀の鎖が輝き、眼光は夜の闇よりも深く、鋭い。
十王第二席、【軍】ヴィンセント・グレイ。
かつて将軍として名を馳せ、今は冒険者ギルド総帥としてこの街の「武」を統べる男。 彼は腕を組んだまま、ゴミを見るような目で男たちを見下ろした。
「誰の許可を得て、その扉に手をかけた?」
「だ、誰だテメェ! 邪魔すんなら……ひッ!?」
ナイフを抜こうとした男の手が、空中で止まった。 動けない。 ヴィンセントから放たれる圧倒的な覇気が、物理的な重量を持って男たちの全身を押し潰しているのだ。 呼吸ができない。心臓が早鐘を打つ。 生物としての本能が、「動けば死ぬ」と絶叫している。
「……レギオンの支配下において、略奪は重罪だ」
ヴィンセントが一歩、足を踏み出す。 ズンッ。石畳が悲鳴を上げた。
「そして、我々の『庭』を荒らす害獣には、慈悲など必要ない」
「ま、待っ……!」
言い訳をする暇もなかった。 ヴィンセントの姿が掻き消える。 次の瞬間、彼は男たちの中心に立っていた。
ドォォォォン!!
ただの裏拳。 だが、それは攻城兵器の一撃に等しい破壊力を秘めていた。 直撃を受けた男の上半身が、風船のように弾け飛び、紅い霧となって霧散する。
「ギャアアアアアッ!?」 「ば、化け物……!」
残った男たちが悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、逃げ場はない。 路地の屋根、壁、マンホールの陰から、ヴィンセント配下の「警備隊」――漆黒の装備に身を包んだ精鋭たちが、音もなく姿を現していたからだ。
「処理しろ」
ヴィンセントが短く命じる。 刹那、無数の刃が闇を切り裂いた。 断末魔すら上がらない。プロフェッショナルによる、事務的で完璧な「掃除」。 数秒後、路地裏には静寂だけが戻った。死体すら残っていない。全ては闇に処理され、痕跡すら消されたのだ。
ヴィンセントは、軍服の袖についた埃を払い、夜空を見上げた。
「……治安とは、恐怖によって維持されるものだ」
彼が構築しようとしているのは、絶対的な安全だ。 「レギオンに従えば、女子供でも夜道を一人で歩ける」。 だがその裏には、「レギオンに逆らえば、影も残さず消される」という絶対的な恐怖が張り付いている。
飴と鞭。 ジェイドが与える快楽と、ヴィンセントが与える恐怖。 この二つの車輪が噛み合うことで、ネメシスという都市は、逃げ場のない「完璧な檻」へと変貌していく。
◇
そして、夜が来た。 宴の熱気も冷めやらぬ深夜。 城壁の上では、異様な金属音と爆発的な魔力の奔流が渦巻いていた。
「おいシノ! 砲台の固定は済んだか! 魔力の供給圧が高すぎるぞ!」 「うるせーな爺! 今調整してるって! ……よし、回路接続!」
怒号を飛ばし合う二人の影。 上半身裸でハンマーを振るう筋骨隆々のドワーフ、十王第九席・【鍛】ヴォルカン。 そして、身体中に工具をぶら下げ、巨大な背嚢を背負った少年、第十席・【工】シノ。
彼らの目の前には、城壁に沿って等間隔に設置された、巨大な砲台の列が並んでいた。 ミスリルと魔鋼の合金で鋳造された無骨な砲身。その台座には、複雑怪奇な魔法陣が刻まれ、青白い燐光を放っている。
「へへっ、帝国の連中は『鉄の巨人』で踏み潰すとか言ってたけどよ……」
シノは防護ゴーグルを額に上げ、ニカッと笑った。 その顔は煤と油で汚れているが、瞳は星のように輝いている。
「近づく前に蜂の巣にしてやるよ。……こいつがあればな」
彼が愛おしそうに撫でたのは、自らが開発した防衛兵器――『自律魔導砲』である。
「こいつの『眼』には、ダンジョンの奥で見つけた『千眼魔』の水晶体を埋め込んである。動く熱源を勝手に感知して、魔力の弾丸をぶっ放す優れモノさ!」
シノの説明通り、砲塔の付け根には、ギョロリとした巨大な眼球のような水晶が埋め込まれており、周囲を警戒するように不気味に動いている。 そして、その動力源は、都市の地下に張り巡らされた『魔導の血管』から直接供給される、無尽蔵のエネルギーだ。
「さらに、この壁自体にも仕掛けがある」
ヴォルカンが城壁をハンマーで叩く。 ゴォン、と重い音が響くと同時に、城壁の表面に幾何学的な文様が浮かび上がった。
「『対鋼鉄術式』を組み込んだ『城塞結界』だ。……鉄を近づけただけで錆びつかせ、重くする呪いを練り込んである」
ヴォルカンはニヤリと笑い、髭を撫でた。
「帝国の自慢の鉄屑どもが、この壁に触れた瞬間にボロボロの屑鉄になる様が目に浮かぶわい」
「すっげー! 性格悪いね爺ちゃん!」 「やかましい! お前の砲台こそ、エグい威力じゃねぇか!」
二人の職人は、悪戯っ子のように笑い合った。 彼らが作り上げたのは、単なる防衛設備ではない。 科学を知らぬこの世界において、「自動化された殺戮」を実現する魔導要塞。 帝国の技術を嘲笑うかのような、規格外の防衛システムだった。
シノが、試験稼働用のレバーを引く。
「――防衛網、起動ッ!!」
ブォンッ……!
重低音と共に、城壁全体が淡い光の膜に包まれた。 数十門の魔導砲が、一斉に砲口を城外の闇へと向ける。 その先端に灯る殺気立った光は、この都市に近づく者すべてを消し炭にするという、無言の警告を放っていた。
「へへ……。これで、ネメシスは難攻不落だ」
シノは満足げに工具をしまった。 この光景を見れば、市民の不安など霧散するだろう。 帝国の脅威など、この圧倒的な「力」の前では些細な問題に過ぎないのだから。
◇
レギオンハウスの最上階、尖塔の屋根。 夜風に黒いコートを靡かせ、眼下に広がる要塞都市を見つめる少年がいた。
Fランク冒険者の姿をした、始祖・シンである。
「……上出来だ」
シンは目を細め、皮肉っぽく呟いた。 彼自身の瞳は、闇を見通す魔眼を持っているため、夜襲など恐るるに足らない。 だが、人間にとっては違う。 目に見える「盾」と「矛」こそが、何よりの精神安定剤となる。
「あの防壁がある限り、彼らはもう、外敵の影に怯えることはない」
シンは手すりに腰掛け、足をぶらつかせた。 鉄壁の守り。豊かな食料。 それらを与えられ、骨抜きにされた家畜たちは、二度と野生には戻れない。 この城壁の内側だけが「安全な世界」であり、外は「死の世界」だと刷り込まれていく。 壁を作ったのは敵を防ぐためだけではない。家畜を逃がさないためでもあるのだ。
「牧場の柵は完成した」
シンは指先で、眼下の街をなぞる。 ネメシスは今、巨大な蜘蛛の巣の中に捕らえられた。 誰も逃げられない。逃げようとも思わない。 完璧な、幸福なる支配。
「さて……。足場は固まった」
シンは視線を北へと向けた。 光の海の向こう、深い闇に沈む大地。 そこには、腐敗しきった大国――「ゼノリス王国」が広がっている。
「次は、あの腐った果実を収穫しに行くとしようか」
シンが指を弾く。 パチン、という音が、魔導砲の駆動音に混じって夜空に吸い込まれていった。
それは、一都市の支配から、国家の乗っ取りへと移行する、魔王の静かなる号令だった。
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続きます。




