第129話 不機嫌な番犬の朝
月が分厚い雲に覆われ、世界が漆黒の帳に包まれた時刻。
大陸の経済を支配する城塞都市ネメシス。その中央に、周囲の闇を全て吸い込んだかのような威圧感を放つ巨大な屋敷が鎮座している。
公王マモンが最も恐れ、そして憎悪する場所――レギオンハウスである。
その屋根の上を、音もなく疾走する五つの影があった。
(……足音を消せ。呼吸もだ。心臓の鼓動すら、この屋敷の静寂に合わせろ)
先頭を走る男――暗殺ギルド『黒き牙』のリーダー、ガルムは、ハンドサインだけで部下たちに指示を送った。
彼らは、公王マモンが私財の半分を投げ打って雇った、大陸最強の「処刑人」たちである。
装備しているのは、一着で小さな城が買えるほどの国宝級魔導具、『認識阻害の外套』。
視覚的な透明化はもちろん、魔力探知、熱源探知、嗅覚探知さえも完全に遮断する、暗殺者のための最強の鎧だ。
さらに足元には、『静寂のブーツ』。瓦の上を走ろうとも、枯れ葉を踏もうとも、そこに物理的な音は一切発生しない。
「……警備がザルだな」
二番手の男が、微弱な念話で呟いた。
その声には、明らかな侮蔑の色が混じっている。
「魔法結界も、警報の罠もない。素人の建てた家か?」
「油断するな。だが……確かに拍子抜けだ」
ガルムもまた、眉をひそめていた。
事前の情報では、この屋敷にはSランク級の化け物が巣食っていると聞いていた。
特に警戒すべきは、三禍と呼ばれる側近たち。
だが、実際はどうだ?
屋敷の敷地に足を踏み入れてからここまで、誰一人として彼らの存在に気づく気配はない。庭の木々で眠る鳥さえも、彼らの殺気に気づかず眠りこけている。
(執事のルシリウスという男の情報もあったが……今は地下で事務処理に追われているらしいな)
窓の隙間から漏れる明かりを確認し、ガルムは冷笑した。
完璧なタイミングだ。
敵の頭脳は地下にあり、手足となる武力は国境へ出払っている。
残っているのは、無防備な王のみ。
「ターゲットは最上階、東の主寝室だ。護衛はいない。……簡単な仕事だ」
ガルムたちは、屋根からテラスへと、重力すら無視した動きで滑り降りる。
着地音はゼロ。
風が凪いだ夜において、彼らは闇そのものと同化していた。
目の前には、主寝室へと続く豪奢なガラス戸。
ガルムは懐から、特殊な魔石を取り出した。あらゆる物理錠、魔法錠を音もなく溶解させる『解錠の魔石』だ。
ジュッ……と、微かな音がして、鍵の機構が砂のように崩れ落ちる。
(開いたぞ。……行くぞ)
ガルムが音もなくガラス戸を押し開く。
ぬるりとした室内の空気が、夜風と混ざり合う。
彼らはプロフェッショナルだった。
一人、また一人と、流れる水のように寝室の闇へと浸透していく。
部屋の中は、死のような静寂に包まれていた。
月明かりさえ届かない深淵の奥。
そこに、巨大な天蓋付きベッドが鎮座している。あの中に、ターゲットである「シン」が眠っているはずだ。
(殺るぞ。一瞬で首を掻っ切る)
(痛みすら与えるな。それが我々の慈悲だ)
ガルムはナイフを逆手に持ち、姿勢を低くして床を滑るように進んだ。
勝利への道筋は完璧に見えている。
あと五歩。三歩。
無防備な寝首へと刃を突き立て、公王へ「吉報」を持ち帰るだけ。
その慢心が、彼らの「生物としての生存本能」を鈍らせていた。
彼らは気づいていなかったのだ。
この部屋の静寂が、単なる静けさではなく、捕食者が獲物を待つ時の「凪」であることに。
ガルムが一歩、ベッドの脇に敷かれた分厚い毛皮のラグへと足を踏み入れた。
その瞬間。
――グニュリ。
毛皮のラグの下から、何とも形容しがたい、生々しい弾力が足裏に伝わってきた。
ガルムの足裏に伝わったのは、毛皮のラグのフカフカとした感触ではなかった。
もっと生々しく、弾力があり、そして芯に鋼鉄のような硬度を秘めた「生物」の感触だった。
(……な、んだ?)
ガルムは反射的に動きを止めた。
背後で続く四人の部下たちも、リーダーの異変を察知し、ピタリと静止する。
ガルムはゆっくりと、足元へ視線を落とした。
『暗視の魔眼』が、闇の中に潜むその「異物」の輪郭を鮮明に映し出す。
それは、ラグではなかった。
ベッドの足元で丸くなって眠る、一人の女だった。
漆黒の長髪が、床一面に海のように広がっている。
身に纏っているのは、金糸で刺繍された豪華絢爛な黒い着物。
だが、その着崩し方は異常だった。帯は緩み、白磁のような肩と、豊満な胸元が惜しげもなく晒されている。
まるで遊郭の花魁が、気怠げに休息を取っているかのような艶かしさだ。
(女……? シンの愛人か?)
ガルムの脳裏に疑問符が浮かぶ。
事前の調査報告書に、これほどの美女の記載はない。
だが、違和感はそれだけではなかった。
彼女は、何かを抱きしめて寝ていた。
ぬいぐるみではない。
それは、彼女の身長を優に超えるであろう、巨大で無骨な三叉矛だった。
黒い金属で鍛え上げられたその凶器は、先端が鋭利に研ぎ澄まされ、かすかな魔力の燐光を放っている。
――そして、最大の問題は、ガルムが踏んでいる「それ」だ。
着物の裾から伸びた、太く長いもの。
一見するとロープのようだが、表面には黒曜石のような鱗がびっしりと並び、微かに脈打っている。
(これは……尻尾、か?)
理解した瞬間、ガルムの全身の毛穴という毛穴から、冷たい汗が噴き出した。
獣人族の尻尾ではない。
この質感、この威圧感。
これは「竜」の尾だ。
逃げろ、と本能が叫んだ。
暗殺者として研ぎ澄まされた直感が、目の前の女を「生物として関わってはいけない上位存在」だと告げている。
ガルムは震える足を引き抜き、後退しようとした。
だが、遅かった。
ピシリ。
部屋の空気が、音を立てて凍りついた。
気温が下がったのではない。
あまりにも濃密で、あまりにも純度の高い「殺気」が、物理的な圧力となって空間を支配したのだ。
「……ん、んぅ……」
甘美な吐息と共に、女が身じろぎをする。
その拍子に、抱きしめていたトライデントの石突きが、ゴトリと床を叩いた。
たったそれだけの音で、屋敷全体が微震したかのような錯覚を覚える。
ゆっくりと、女が瞼を持ち上げた。
そこに現れたのは、人間の瞳ではなかった。
爬虫類のように縦に裂けた瞳孔。
融解した黄金のようにドロリと輝く、魔性の虹彩。
その視線が、ゴミを見るような冷徹さでガルムを射抜いた。
「……あ?」
低く、地を這うような声。
それは可憐な見た目とは裏腹に、聞く者の魂を直接鷲掴みにするようなドス黒い響きを帯びていた。
「誰でありんすか? わっちの安眠を妨げ、あまつさえ至高の尾を踏みつけた……万死に値する無礼者は」
夜霧が、不機嫌そうに上半身を起こす。
ゆらり、と立ち上る影が、巨大な龍の顎の形を模して、暗殺者たちを見下ろしていた。
夜霧が、ゆらりと立ち上がる。
はだけた着物の裾から、白磁のような太腿と、黒い龍の鱗が混じり合う艶めかしい肢体が露わになった。
だが、暗殺者たちにその美しさを愛でる余裕はない。
彼女の背後に揺らめく影が、部屋の天井を突き破らんばかりの巨大な龍の形を成し、彼らを物理的な威圧感で押し潰そうとしていたからだ。
「……夢を見ていたんじゃ」
夜霧が、夢見心地のような、それでいて絶対零度の声で呟く。
「主様と二人きり……邪魔者のいない無人島での愛の逃避行。主様がわっちに口づけをしてくれる、まさにその瞬間に……」
ギリリ、と何かが砕ける音がした。
彼女が抱きしめていた巨大な三叉矛の柄に、指が食い込んでいる音だ。
鋼鉄よりも硬いミスリルの柄が、まるで粘土細工のようにひしゃげている。
「貴様らかえ? わっちの幸せを土足で踏みにじったのは」
夜霧は、自身の身長を優に超える長大な槍を、まるで小枝かキセルのように片手で軽々と持ち上げた。
その先端が、リーダーであるガルムの鼻先へと向けられる。
「万死に値するでありんす」
その言葉は、判決だった。
「ひ、怯むなッ! やれ! 殺せぇッ!!」
ガルムが裏返った声で叫ぶ。
恐怖で停止しかけた思考を無理やり叩き起こし、部下たちに命令を下す。
彼らは超一流の暗殺者だ。反射神経だけで身体が動き、四方から一斉に夜霧へと襲いかかった。
右から短剣、左から毒針、背後から絞殺用のワイヤー。
逃げ場のない完全包囲。
だが、夜霧は動かなかった。
「……うるさいえ」
彼女は気怠げに、トライデントの石突きで、コンと床を叩いただけだった。
――ドォォォンッ!!
ただの床鳴りではない。
石突きが触れた一点から、視認できるほどの衝撃波が全方位へと炸裂した。
「ぐあッ!?」
「がはッ……!?」
襲いかかった四人の暗殺者たちは、見えない巨人の拳で殴られたかのように吹き飛んだ。
一人は壁に激突して全身の骨を砕き、一人は天井に叩きつけられて落下し、動かなくなる。
魔法ですらない。
SSSランクの始祖龍が持つ、純粋な膂力と質量の暴力。
「ば、化け物……! 情報にないぞ、こんな女!」
生き残った毒使いの男が、震える手で懐から紫色の瓶を取り出した。
『腐食の紫煙』。
吸い込めば肺が瞬時に溶け落ち、皮膚に触れるだけで肉が腐り落ちる、国家禁呪レベルの猛毒ガスだ。
「死ねッ! 毒からは逃げられんぞ!」
瓶が床に叩きつけられ、部屋中に濃密な毒霧が充満する。
視界を奪う紫の煙。
通常の生物ならば、この空間にいるだけで絶命するはずだ。
だが。
「……スゥゥゥ……」
霧の中から、深呼吸をする音が聞こえた。
毒使いが目を剥く。
紫の煙が、まるで掃除機に吸われるように、一点へと収束していく。
その中心にいたのは、優雅にキセルを構えた夜霧だった。
彼女は部屋に充満していた猛毒を、全て肺に吸い込んだのだ。
「……不味い」
夜霧は顔をしかめ、プハァと紫色の煙を吐き出した。
吐き出された煙は、キセルの先で小さな髑髏の形を作って消える。
「安物の毒じゃな。香りの深みもないし、コクもない。……こんなシケた煙草で、わっちを酔わせようなどと」
彼女にとって、人間を溶かす猛毒など、少し刺激の強い煙草程度のものでしかなかった。
始祖龍の体内器官は、あらゆる有害物質を魔力へと変換する溶鉱炉だ。
「ひ、ヒィィッ!?」
毒使いが腰を抜かす。
その目の前で、夜霧が妖艶に微笑んだ。
「お返しでありんす」
彼女がキセルを一吹きすると、紫煙が毒使いの顔にまとわりついた。
ジュワッ、という音と共に、男の顔面が溶解していく。悲鳴すら上げる間もなく、彼は自身の毒で肉塊へと変わった。
「さて……」
夜霧は金色の瞳を細め、部屋の隅で凍りついている最後の生存者――リーダーのガルムへと視線を移した。
「残るは、わっちの尻尾を踏んだ一番の重罪人じゃな?」
「あ、あ、ああ……」
ガルムは後退りし、背中で窓ガラスに触れた。
逃げなければ。
任務失敗などどうでもいい。公王への報告も不要だ。ただ、この場所から、この捕食者から一秒でも早く遠ざからなければ、魂ごと喰われる。
ガルムは窓を蹴り破り、夜の闇へと飛び出した。
空中で体勢を整え、屋根伝いに逃走を図る。
成功した。距離は取れた。
そう思った瞬間。
「どこへ行くつもりでありんすか?」
耳元で、夜霧の声が囁いた。
「ひッ!?」
振り返っても誰もいない。
だが、足首に違和感があった。
見下ろすと、ガルム自身の「影」から、漆黒の腕が伸びていた。
ドロリとした闇の腕が、彼の足首を万力のように掴んでいる。
「な、なんだこれは!? 離せ! 離せェェッ!」
「逃がさんえ? その汚い魂、わっちの影の中で懺悔しなんし」
夜霧が、寝室の窓辺でキセルをふかしながら、指先をクイクイと動かす。
それだけで、逃げたはずのガルムの身体が、見えない力で引き戻されていく。
影に飲み込まれていく。
足が、腰が、胸が、ズルズルと自身の影という沼に沈んでいく。
「や、やめろ! 助けてくれ! 俺は公王の……!」
「主様の安眠は、世界の平和より重いんじゃえ?」
夜霧は冷酷に告げ、トライデントを高く振り上げた。
月光を反射して煌めく三又の刃が、断頭台の刃のように落下する。
「ギャァァァァァァァッ――――」
絶叫は、一瞬で途切れた。
ガルムの身体は完全に影の中に飲み込まれ、後には静寂だけが残された。
夜霧はふぅ、とキセルの灰を落とし、愛しい主の眠るベッドを振り返った。
そこには、騒動など無かったかのように静かな寝息を立てるシンの姿があった。
「……やれやれ。手間のかかる客でありんした」
◇
翌朝。
昨夜の惨劇が嘘のように、爽やかな朝日がレギオンハウスの主寝室に差し込んでいた。
小鳥のさえずりと共に、シンはわざとらしいほど大きなあくびをして、ベッドから身を起こした。
「ふぁ……。よく寝たな」
白々しい独り言だ。
無論、彼は昨夜の出来事を全て把握していた。
布団の中で、気配を完全に消し、夜霧の暴れっぷりを狸寝入りでやり過ごしていただけである。
「おはようございんす、主様♡」
ベッドの脇で、夜霧が満面の笑みを浮かべて正座していた。
その手には、ピカピカに磨き上げられた三叉矛が握られている。
昨夜、ひしゃげたはずの柄は綺麗に修復され、刃には一点の曇りもない。……まるで、極上の食事を終えた後のように、夜霧の肌はツヤツヤと輝いていた。
「……随分と機嫌が良いな、夜霧。何かいいことでもあったか?」
「いえいえ。少々、寝床に質の悪い羽虫が湧きましたゆえ、お掃除しておいただけえ」
夜霧は嫣然と微笑み、トライデントの刃先をペロリと舐めた。
「主様の寝室を汚す害虫は、わっちが責任を持って『処分』いたしました。……骨一本、髪の毛一本残さずにな」
「そうか。それはご苦労」
シンは苦笑し、それ以上は追求しなかった。
窓ガラスは既に修復されており、床の血痕も、毒で溶けたカーペットも、何事もなかったかのように新調されている。
コンコン、と控えめなノック音が響いた。
「失礼いたします、シン様」
執事のルシリウスが、湯気の立つ紅茶を載せた銀のトレイを持って入室してくる。
彼は部屋の空気を一嗅ぎしただけで、昨夜の惨状を完全に理解したようだった。
「……ふむ。どうやら、私の朝の仕事が一つ減ったようですな」
ルシリウスは眼鏡の奥で目を細め、夜霧に一瞥をくれた。
「貴重な実験体を……と言いたいところですが、まあ良いでしょう。主の安眠を妨げる愚か者には、死こそが慈悲ですから」
「おやおや、堅苦しい執事殿。掃除くらい手伝ってやりんしたのじゃ、感謝しなんし?」
三禍同士の軽口を聞きながら、シンは優雅にモーニングティーを啜る。
平和な朝だ。
外の世界で、一人の権力者が恐怖に震えていることなど、知る由もなく。
◇
一方、公国首都の公王執務室。
そこには、朝から爪を噛み、部屋中を徘徊する公王マモンの姿があった。
「連絡がない……。なぜだ!? なぜ連絡が来ない!!」
机の上には、魔導通信機が置かれている。だが、それは沈黙を保ったままだ。
暗殺ギルド『黒き牙』は、任務の成功・失敗に関わらず、必ず定時連絡を入れる規律を持っている。
それが途絶えるという意味は、一つしかない。
全滅。
それも、通信を入れる暇すら与えられないほどの、瞬時の消滅だ。
「ありえん……! 奴らは大陸最強だぞ!? 『認識阻害』も『毒』も完璧だったはずだ!」
マモンは頭を抱え、髪をかきむしる。
失敗の報告であれば、まだマシだった。「次」の手を打てるからだ。
だが、この「完全なる沈黙」は違う。
相手は何の手がかりも残さず、こちらの最高戦力を、まるでゴミを掃くように処理したのだ。
底知れない闇。
レギオンハウスという名の魔窟が、公王の精神を蝕んでいく。
「く、くそ……ッ! ならば経済だ! 武力が通じぬなら、金で絞め殺してやる!」
マモンは充血した目で叫んだ。
だが彼は知らない。
その「金」さえも、既にシンの掌の上で転がされていることを。
不機嫌な番犬によって守られた魔王の城は、今日も難攻不落のまま、愚かな挑戦者を嘲笑うかのようにそびえ立っていた。
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