第124話『商人ギルドの抵抗』
公国の首都ウェスペル。 その中心部に、王城をも凌ぐ威圧感を放つ巨大な石造りの建物が鎮座している。 「公国商業ギルド本部」。 この国の経済を数百年にわたり支配し、時には王の首さえすげ替えてきた、富と権力の総本山である。
その最上階にある「琥珀の間」。 最高級の絨毯が敷き詰められた密室には、葉巻の紫煙と、重苦しい沈黙が立ち込めていた。 円卓を囲むのは、五人の男たち。 彼らこそが、公国の主要産業を牛耳る「五大商人」である。
「……して、今月の損害報告は?」
重苦しい沈黙を破り、議長席に座る男が口を開いた。 商業ギルド総帥、ヴァルダー。 脂肪に埋もれた細い目は爬虫類のように冷たく、その指にはめられた十個の宝石指輪が、シャンデリアの光を浴びて下品に輝いている。
「壊滅的です、ヴァルダー総帥」
繊維業を統括する商人が、青ざめた顔で羊皮紙を震わせた。
「北からの輸入毛皮、織物、すべてが『アラクネ商会』に奪われました。 我々の倉庫には在庫が山積みですが、誰も買おうとしません。 奴らの価格は、我々の仕入れ値の十分の一……。 これでは、値下げ競争にすらなりません」
「鉄鋼も同じだ!」
鍛冶ギルドを束ねる男が、バンとテーブルを叩いた。
「帝国の『青河鋼』が、銅貨3枚だぞ!? あんなふざけた値段で売られたら、我々の傘下の鍛冶屋は全員首を吊るしかない! 現に、昨日だけで三軒の工房が火を消した!」
「食料もです。西の海産物が、内陸の市場で腐るほど売られている……」
次々と上げられる悲鳴のような報告。 それらは全て、ここ一週間で起きた「異常事態」の惨状を物語っていた。
アラクネ商会。 突如として現れたその「黒い蜘蛛」は、謎の転移門を使い、物理的な距離と輸送費をゼロにするという禁じ手を使った。 それは、彼ら五大商人が長年築き上げてきた「独占」と「中間搾取」の構造を、根底から破壊する行為だった。
「……静まれ」
ヴァルダーが短く言葉を発すると、場の空気が凍りついた。 彼はゆっくりと葉巻の灰を落とし、怒り狂う商人たちを見回した。
「慌てるな、小者ども。 たかが、ポッと出の余所者ではないか」
ヴァルダーの声には、絶対的な自信と、それ以上に深い「侮蔑」が込められていた。
「奴らは『魔法』とやらで安売りをしているようだが、商売というものを舐めている。 商売とは、ただ物を売ればいいというものではない。 この国の『法』、長年培った『信用』、そして裏社会を含めた『繋がり』……。 それら全てを握っているのは、誰だ?」
ヴァルダーは、自身の胸元にある「天秤のバッジ」を指差した。
「我々だ。 この国において、ギルドに逆らうことは、すなわち『死』を意味する」
彼は歪んだ笑みを浮かべ、手元のワイングラスを揺らした。
「安売りしか能のない田舎者に、教えてやろう。 『大人の喧嘩』のやり方というものをな」
その言葉を合図に、商人たちの目に陰湿な光が宿る。 彼らは知っている。 正面から勝てない相手を、搦手でじわじわと殺す方法を。 それは、経済戦争というよりも、一方的な「いじめ」に近い、卑劣な作戦会議の始まりだった。
◇
翌朝。 公国の首都ウェスペルの市場は、昨日までの熱狂とは打って変わって、重苦しく淀んだ空気に包まれていた。 アラクネ商会のテント前には、今日も開店を待ちわびる市民たちが列を作っていたが、その表情は一様に強張っている。 列の至る所に、柄の悪そうな男たちが割り込み、威圧的な視線を撒き散らしていたからだ。
「おい、婆さん。 その店で買うのはやめといた方がいいぜ」
薄汚れた革鎧を着た男――商業ギルドが雇ったゴロツキが、並んでいた老婆の肩を乱暴に掴んだ。 口からは安酒とニンニクの悪臭が漂い、老婆は恐怖に顔を引きつらせて縮こまる。
「なんでだい……? ここのお鍋は、安くて丈夫で……」
「『呪われてる』って噂だ。 北の帝国じゃ、この鍋を使った家が何軒も火事になったらしいぜ? そんな危ねえモン、家に持ち帰ったら孫が死ぬかもしれねえなぁ」
根も葉もないデマ。 だが、情報の流通が遅れているこの世界において、恐怖という毒は真実よりも早く伝染する。 周囲の客たちがざわめき、不安そうに顔を見合わせる。
「それにだ。 ギルドの方針が決まったらしいぞ」
ゴロツキは、わざと周囲に聞こえるような大声で言い放った。
「アラクネ商会で買い物をした奴には、今後一切、ギルド加盟店は商品を売らねえ。 塩も、小麦も、薬もだ。 たかが鍋一つで、この街で暮らせなくなってもいいのか?」
脅迫。 生活必需品の流通を握る「五大商人」ならではの、陰湿極まりない兵糧攻めである。 市民たちの足が止まる。安い商品は魅力的だが、明日のパンを買えなくなる恐怖には勝てない。
ゴロツキたちは、列が崩れていく様子を見て下卑た笑みを浮かべた。 彼らにとって、商売の「信用」など関係ない。 金と暴力で客を縛り付けることこそが、彼らの知る唯一の「経営戦略」だったからだ。
◇
「……暴力による威圧、か。手口が透けて見えるな」
その光景を、広場の時計塔の上から見下ろしている少年がいた。 シンである。 現在は15歳の姿に擬態しているが、その瞳の奥には、盤面全体を俯瞰する冷徹な知性が宿っていた。 彼は手すりに腰掛け、ゴロツキたちの動向を分析するように目を細める。
「我々に『暴力』を使わせたいのだろう。 こちらが力で排除に動けば、それを口実に『野蛮な侵略者』として国軍や教会を動かす。 ……あまりにも芸がない」
「ええ。実に『人間的』で、愛らしい悪あがきですね」
傍らに控えるジェイドが、涼しい顔で同意する。 彼の元には、早朝からひっきりなしに「妨害報告」が届いていた。 店舗前でのゴロツキによる威圧行為。 街のあちこちに貼られた「アラクネの商品は毒入り」という中傷ビラ。 さらには、役人を買収しての「営業停止命令」までもが、矢継ぎ早に飛んできている。
「主。掃除しますか?」
ジェイドが短く問う。 だが、シンは静かに首を横に振った。
「否。まだ泳がせろ。 今潰しては、彼らが『被害者』になってしまう。 奴らが勝ち誇り、最高潮に達した瞬間に梯子を外す。……その方が、絶望の味も深くなるというものだ」
シンの口元が、薄く歪む。 それは、既に勝利が確定したゲームを楽しむ、絶対者の笑みだった。
「経済戦争を仕掛けてきたのは向こうだ。 ならば我々も、経済という名の暴力で、彼らの骨の髄までしゃぶり尽くしてやろう」
「御意」
ジェイドが恭しく頭を下げる。 蜘蛛の巣は既に張り巡らされている。あとは、愚かな獲物が自らかかりに来るのを待つだけだ。
◇
日が暮れて、夜の帳が下りる頃。 嫌がらせは、さらに過激さを増していた。
アラクネ商会のテント裏。 人気のなくなった路地裏に、黒覆面をした数人の男たちが忍び寄る。 手には、油をたっぷり染み込ませた布と、松明が握られていた。
「へへっ、燃やしちまえ」 「商品ごと灰になれば、さすがに商売できねえだろうよ」
放火。 商人ギルドが裏社会に依頼した、最終的な実力行使である。 彼らは松明を振りかぶり、アラクネ商会の巨大な黒いテントに向けて、躊躇なく投げつけた。 ボッ、という音と共に、テントの布地に炎が舐めかかる――はずだった。
「……あ?」
男の一人が、間抜けな声を上げた。 松明はテントに当たった瞬間、まるで濡れた壁にぶつかったかのように、プスンと音を立てて鎮火してしまったのだ。 油が撒かれた場所すら、焦げ跡ひとつついていない。
「な、なんだコリャ!? 布だろ!? なんで燃えねえんだ!」
「おい、もっと油をかけろ!」
男たちは焦り、さらに大量の油をぶちまけて火を放つ。 だが、結果は同じだった。 黒いテントは、炎を拒絶するかのように冷たく佇んでいる。
それもそのはずだ。 このテント素材は、技術開発局長であるシノが、北の大迷宮で採取した「耐火蜘蛛の糸」と、最新の合成繊維を織り交ぜて作った特注品である。 ドラゴンの息吹すら防ぐその布にとって、人間が起こす焚き火程度の熱など、そよ風にも等しかった。
「馬鹿な……。化け物かよ……」
放火犯たちは、得体の知れない恐怖に後ずさりする。 燃やせない。壊せない。 物理的な干渉を一切受け付けないその黒い塊は、彼らの常識を遥かに超えた存在だった。
「……騒がしいですね」
不意に、テントの中から声がした。 男たちが悲鳴を上げて振り返ると、テントの入り口から、眠たげな少年が顔を出していた。 シノである。 彼は徹夜続きで充血した目をこすりながら、手元の奇妙な端末をいじっている。 足元には、放火犯たちが投げ込んだ松明が、無惨に転がっていた。
「あのさぁ。 僕、今すごく大事な『自動仕分け機』の調整中なんだけど。 外でガサガサされると、集中できないんだよね」
「ひ、ひぃぃッ!」
シノは武器など持っていない。 ただの小柄な、あどけない少年だ。 だが、その無機質な瞳に見据えられた瞬間、男たちは本能的な恐怖に支配された。 自分たちが相手にしているのは、「人間」ではない。 何か、もっと根本的に異なる「理」で動く存在なのだと、魂が理解してしまったのだ。
「化け物だァァッ!!」
男たちは松明を放り出し、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。 シノはそれを追いかけることもなく、大きなあくびを一つ噛み殺す。
「……変な人たち。 まあいいや。兄ちゃん(シン)へのプレゼント、早く完成させなきゃ」
彼は再びテントの中へと戻っていく。 その背後では、公国の闇が静かに、しかし確実に深まっていた。
商人ギルドの攻撃は、全て空振りに終わった。 デマも、脅迫も、放火も。 次元の違う技術力を持つレギオンの前では、子供の悪戯以下の意味しか持たなかったのだ。
そして、夜が明ける。 ジェイドが用意した「本当の反撃」が、商人ギルドの喉元に食らいつく時間が迫っていた。
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