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第117話 黒鉄の夜明け、回り始める世界工場

 大陸北部に位置する軍事大国、鋼牙帝国(アイゼンガルド)|。  その心臓部である首都、鉄帝都(ガルガロッサ)|の朝は、かつては「咳き込む音」から始まっていた。


 数百年にわたり、この巨大な工業都市の空を重く閉ざしていたのは、鉛色の雲と、肺を焼くような黒い煤煙だった。  呼吸をするたびに喉が痛み、洗濯物は一時間で灰色に汚れ、降り注ぐ雨は鉄さえも錆びつかせる強酸性。  それが、帝国の誇る「重工業」の代償であり、民衆にとっての逃れられぬ日常だったのだ。


 だが、その常識は一夜にして覆された。


 今の帝都の空を見上げても、黒い煙はどこにもない。  あるのは、目が痛くなるほどに澄み渡った、突き抜けるような蒼穹である。


 帝都の四方――東西南北の霊脈が交差する結界点に、新たに設置された四本の巨大な黒い塔。  レギオン・蜘蛛(アラクネ)|幹部、十王(デケム・キング)|・第十席【(ガジェット)|】シノ・コリンズが設計・建造した『環境浄化魔導柱(エンバイロ・ピラー)|』である。


 その塔の頂部から展開された大規模環境浄化結界(エア・クリアリング)|は、都市全体を巨大なドーム状のフィルタで包み込み、大気中に漂う有害物質、煤塵、硫黄酸化物を分子レベルで吸着・濾過し続けている。  かつて死の都を覆っていた毒の雲は、シノの科学と魔法の融合技術によって、無害な魔素と酸素へと分解され、新鮮な風となって街を吹き抜けていた。


 降り注ぐのは、死の雨ではない。  暖かく、あらゆる生命を平等に育む、黄金の太陽光だ。


 だが、その柔らかな日差しの下で繰り広げられている光景は、のどかな復興風景などといった生温かいものではない。  国家という枠組みを超え、大陸全土を支える巨大な「世界工場」としての、力強く、そして恐ろしいほどの再稼働であった。


 カンッ、カンッ、カンッ……!  ガシャン、ガシャン、ガシャン……!  シュゴオオオオオオオオオッ……!


 街全体が、一つの巨大な生物のように唸りを上げている。  地響きのように絶え間なく響くのは、規則正しい魔導プレス機(マギ・プレス)|の律動。  数千のハンマーが一斉に振り下ろされる鍛造の音色は、かつての不協和音ではなく、指揮者に統率されたオーケストラのように整然としている。  そして、そのリズムの底流には、シノの手によって高効率化された魔導炉(マギ・ファーネス)|が奏でる、心臓の鼓動のような重低音が流れていた。


 帝都第3工廠。かつては戦車や大砲を製造していた帝国の主力工場の一つである。  その広大な敷地内では、数千人の工員たちが、まるで時計の針のように正確に動き続けていた。


「第4ライン、魔鋼(アダマン)|インゴットの冷却完了! 品質検査工程へ!」 「魔力伝導率測定……オールグリーン! 品質Sランク、純度99.8%! 過去最高値を更新!」 「よし、次だ! 第5ラインの金型を交換しろ! レギオン仕様の新型魔導部品、ロット番号『LG-05』、1000個生産開始だ! 一秒も止めるなよ!」


 現場監督の怒号が飛ぶが、そこにはかつてのような陰湿な恐怖や、暴力による強制はない。  あるのは、極限まで効率化された作業に没頭する、プロフェッショナルたちの熱気だけだ。


 大通りを行き交う人々の姿も、かつてとは様変わりしていた。  以前の彼らは、煤と油にまみれて皮膚は黒ずみ、栄養失調で痩せこけ、虚ろな目でただノルマをこなすだけの「奴隷」だった。鎖に繋がれ、鞭で打たれながら、明日をも知れぬ命を削って鉄を打っていた。


 だが、今は違う。  彼らが身に纏っているのは、レギオンから支給された真新しい作業服だ。  シノが開発した特殊繊維で作られたその服は、耐熱・耐刃・防汚加工が施され、さらに着用者の身体能力を僅かに向上させる身体強化(フィジカル・ブースト)|の付与魔法まで織り込まれている。  そして何より、彼らの血色の良さが、その待遇の変化を如実に物語っていた。


 昼の休憩を告げる鐘が鳴ると、工員たちは整列して食堂へと向かう。  そこには、湯気を立てる大鍋と、山積みのパンが用意されていた。


「うおぉ……! 今日も肉が入ってるぞ!」 「シチューだ! ネメシス産の野菜がたっぷりのクリームシチューだ!」


 配給の列に並ぶ工員たちの目が輝く。  配られたのは、石のように硬い黒パンと薄い塩スープではない。  焼きたてで湯気の立つ、真っ白でふわふわのパン。そして、大きな肉の塊と色鮮やかな野菜がゴロゴロと入った、濃厚なクリームシチュー。さらにデザートとして、新鮮な果物まで添えられている。


 休憩所の一角で、この道五〇年という初老の鍛冶師が、震える手でパンをちぎり、シチューに浸して口に運んだ。  濃厚なミルクの風味と、肉の旨味が口いっぱいに広がる。


「……美味い。何度食っても、夢みてぇだ」


 彼が感極まって涙ぐむと、隣に座っていた若き工員が、配給された紙巻き煙草――これもレギオン製の嗜好品だ――を美味そうに吸いながら同意した。


「全くだな。帝国時代は、貴族様ですらこんな柔らかいパンは食ってなかったぜ」


 若者は煙を吐き出し、空を見上げた。  帝都のシンボルであった大煙突が、今は陽炎のような透明な熱気を揺らめかせているだけで、煤の一つも吐き出していないのを見て、彼は不思議そうに首を傾げた。


「なあ親父さん。……やっぱすげぇよ、あの技術。  俺たちが石炭を山ほど燃やして、街中を煤だらけにしても届かなかった火力を、あの装置は煙一つ出さずに生み出してやがる」


「ああ。シノ様が設計した『完全燃焼術式(パーフェクト・バーン)|』のおかげだそうだ。  燃料の魔石(マギ・ストーン)|を、塵一つ残さず純粋な熱エネルギーに変換しちまうんだとよ。……とんでもねぇ技術だ」


 親父さんは、畏怖と尊敬の混じった溜息をついた。


「俺たちが今まで必死にやってた鍛冶は、一体なんだったんだろうな。  燃料の半分も活かせず、煙ばかり出して、出来上がった鉄も不純物だらけ……。  レギオンの技術を見せつけられちゃ、俺たちはただのゴミ作りをしてたんだと思い知らされるぜ」


「違いないっすね。……でも、悪い気はしねぇ」


 若者がニヤリと笑い、力こぶを作ってみせた。  その腕には、以前のような鎖の跡はない。


「いい道具があって、いい環境があって、腹一杯飯が食える。  おまけに、作った分だけちゃんと評価されて、給料(レギオン紙幣)まで貰えるんだ。  ……俺たちが作った部品が、あの『レギオン』の武器になって世界を支配するんだと思えば、腕が鳴るってもんすよ」


「ああ、そうだな。……俺たちはもう、帝国の奴隷じゃねえ。レギオンの職人だ」


 彼らは知ったのだ。恐怖と暴力で縛るよりも、圧倒的な技術と環境で満たす方が、遥かに良いモノが作れるということを。  レギオン・蜘蛛(アラクネ)|による支配。  それは、彼らにとって「敗北」ではなく、悪夢のような労働環境からの「解放」であり、職人としての誇りを取り戻す「再生」の物語であった。  彼らは今、自らの意志で、新たな主のために槌を振るっている。



 その帝都の中心。  かつて皇帝が住まい、恐怖政治の象徴であった黒鉄宮(アイアン・パレス)|は、レギオンの猛攻によって無惨な瓦礫の山と化していた。  だが、その跡地には今、瓦礫を押しのけるようにして、新たな時代の象徴となる異形の建造物が聳え立っている。


 巨大な漆黒のアーチ。  高さ二十メートル、幅十五メートル。  その表面には、人の手によるものとは思えぬ複雑怪奇な幾何学模様が刻まれ、回路を走る青白い光が心臓のように脈動している。  空間そのものを歪曲させ、物理的な距離という概念を嘲笑うかのように佇む、次元のトンネル。


 シノの設計、ヴォルカンの鍛造、そして始祖(オリジン)|・シンの空間魔術によって完成した、大陸間輸送システムの中核――『超長距離・魔導転移門ハイパー・ワープ・ゲート|』である。


 その門の前では、レギオンの紋章をつけた数百名の作業員たちと、自律稼働する魔導重機(マギ・ローダー)|が、蟻の行列のように行き来していた。  彼らが運んでいるのは、帝都で生産されたばかりの最高純度の魔鋼(アダマン)|インゴットや、精密加工された魔導部品を満載したコンテナだ。


「A班、搬入開始! 座標固定、城塞都市(フォート・シティ)ネメシス・第1倉庫!」


 指揮官の号令と共に、荷物を満載したリフトが、門の中に渦巻く漆黒の闇へと突っ込んでいく。  空間が揺らぎ、巨大なコンテナが一瞬にして吸い込まれて消える。  それは消失ではない。一瞬にして、数千キロ離れたネメシスの地下倉庫へと転送されたのだ。


 そして逆に、門の向こう側からは、空になったリフトと共に、別の物資が吐き出されてくる。  冷気を纏った保冷コンテナ。中身は、ネメシス周辺の穀倉地帯――旧ゼノリス王国、現アラクネ共和国で収穫されたばかりの大量の小麦、野菜、そして新鮮な肉類だ。


「B班、受け入れ急げ! 食料コンテナだ!  今日の夕食はステーキだぞ! 肉を腐らせるなよ! 市民への配給分も確保だ!」


 歓声と共に、食料が帝都の倉庫へと運ばれていく。  鉄は帝都からネメシスへ。  食料はネメシスから帝都へ。


 本来ならば、危険な魔物が跋扈する荒野をキャラバンで越え、数週間から一ヶ月はかけなければならない距離だ。  輸送コスト、時間、盗賊や魔物の襲撃リスク。それら全ての障壁を、この門は「ゼロ」にした。  物理的な距離を消滅させるこの技術によって、大陸の物流は革命的な進化を遂げていた。


 国境も、関税も、輸送コストもない。  ただ、レギオンという一つの巨大な経済圏の中で、血液のように富が循環している。  帝国を飲み込んだ蜘蛛の巣は、今や大陸の半分を覆い尽くし、その糸をさらに遠くへと伸ばすための強固な基盤を築き上げていた。



 その光景を、瓦礫の上に築かれた仮設の玉座から見下ろす影があった。


 始祖(オリジン)|・シン。  漆黒のロングコートを風になびかせ、深紅の魔眼で自身の「庭」を眺める魔王。  その手には、帝国皇帝の宝物庫から没収した、樹齢五百年の古木から作られた樽で熟成された、最高級のヴィンテージ・ワインが握られている。


「……悪くない回転率だ」


 シンはグラスを揺らし、芳醇な香りを楽しみながら呟いた。


「破壊と再生。……やはり、スクラップ・アンド・ビルドこそが、最も効率的な進化の手段だな。  腐った土台の上に城を建てるより、一度更地にしてから建て直す方が、遥かに堅牢なものが作れる」


 彼の背後には、今回の帝国攻略戦の最大の功労者たちが控えている。  油まみれの作業着を着て、顔中を煤だらけにした小柄な少年、シノ。  全身の筋肉を鋼鉄のように隆起させ、巨鎚を肩に担いだ鍛冶神、ヴォルカン。


「シノ、ヴォルカン。お前たちの『工場』は、期待以上の成果を上げている。  帝国の旧式設備を、よくぞここまで短期間で最適化した」


 主の賞賛を受け、二人は誇らしげに胸を張った。


「へへっ、任せとけって! シン様!」


 シノが鼻の下を黒い指で擦りながら、少年の無邪気な笑みを浮かべる。


「帝国の設備、設計思想は古臭くて非効率だったけど、基礎素材だけは無駄に良いモン使ってやがったからな。  俺様の『直感設計(インスピレーション)|』で回路を繋ぎ直して、無駄な排熱を動力に回すようにしただけさ。  性能三倍増しは当然の結果だぜ! まだまだ改良の余地はあるけどな!」


「うむ。素材も悪くねぇ」


 ヴォルカンが太い腕を組み、満足げに頷く。


「帝国の地下鉱脈から掘り出される鉄は、不純物が少なくて粘りがある。  これだけの鉄があれば、レギオン全員分の装備を『量産』できるぞ。  次はもっとエグいのが作れる。……例えば、自動で動く魔鋼(アダマン)|の兵隊とかな」


 ヴォルカンがニヤリと笑う。  彼らは戦争が終わったことよりも、新しいオモチャ(生産設備)と、使いきれないほどの素材が手に入ったことに興奮しているようだ。  根っからの職人気質。彼らにとって、この帝都は最高の遊び場であり、実験場なのだ。


 シンは満足げに頷き、再び眼下の街へと視線を戻した。  夕日が沈みかけ、街に魔石灯(マナ・ランプ)|の明かりが灯り始める。  それは、かつての薄暗い帝都にはなかった、平和と繁栄の光だった。


 だが、シンの瞳に映っているのは、そんな感傷的な光景ではない。  彼はこの街を、次なる戦争のための「燃料タンク」として、冷徹に評価していた。


 モノは揃った。  技術も、資源も、生産力も手に入れた。  大陸の半分を支配し、絶対的な武力を確立した。  だが、世界を支配するためには、まだ足りないものがある。


 シンはグラスを傾け、紅い液体を喉に流し込んだ。  その味は、鉄と血の味がした。


 魔王の視線が、西の空へと向けられる。  そこには、黄金色に輝く夕焼けが広がっていた。  その色は、金貨の輝きに似ており、同時に黄昏の終わりを告げる不吉な色でもあった。


 それは、これから始まる新たな戦い――剣を使わぬ、冷酷なる経済戦争の幕開けを告げる色のようだった。


「鉄の次は、金か。……退屈しない世界だ」


 シンは空になったグラスを放り投げた。  カシャン、という乾いた音が、帝都の騒音の中に吸い込まれて消えた。


 世界工場・帝都ガルガロッサ。  ここから吐き出される無数の物資と兵器が、やがて世界をレギオンの色に塗り替えていくことになる。

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続きます。

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