第109話 |血染めの獅子《ブラッディ・レオン》、|不倒の城壁《アンブレイカブル・フォートレス》
枯渇した平原の中央。 そこだけ、世界の理が歪んでいた。
砂塵が舞う荒野を、一人の男が歩く。 ただそれだけの行為が、三万の軍勢という物理的な質量を麻痺させ、凍りつかせていた。
漆黒の軍服を纏った軍神・グレイ。 彼が放つ【覇王の威圧】は、生物としての本能に直接「死」を予感させる、呪詛に近い精神干渉波動だ。 訓練を受けていない徴収兵たちは、彼の姿が視界に入っただけで失禁し、武器を取り落とし、泡を吹いて気絶していく。
「な、なんだアイツは……! 化け物か!?」 「撃て! 弓だ! 魔法だ! 近づけさせるな!」
後方の安全圏に陣取った指揮官たちから、悲鳴に近い命令が飛ぶ。 雨あられと放たれる矢の群れ。 火球や氷槍といった初級から中級の攻撃魔法が、ヴィンセント一点を目掛けて殺到する。 その密度は、城壁すらも粉砕する飽和攻撃。
だが、ヴィンセントは避けない。 歩調を変えることすらしない。
ヒュン、ヒュン、パァァァン……!
矢は彼の体に触れる直前で、濃密すぎる殺気に当てられて軌道を逸らし、明後日の方向へと突き刺さる。 魔法弾は彼が纏う赤黒い闘気に触れた瞬間、ジュッという音を立てて霧散し、ただの熱風となって彼の方を撫でるだけ。
「……ぬるい」
ヴィンセントは、退屈そうに首を鳴らした。 ボキボキ、という骨の鳴る音が、戦場の喧騒の中で妙に鮮明に響く。
「貴様らの殺意は軽い。……そのような借り物の力で、俺の皮膚一枚傷つけられると思うか」
ヴィンセントが、目の前に立ちはだかった騎馬隊の隊長を見上げる。 フルプレートの鎧を着込んだ隊長は、恐怖に暴れる馬を御せず、剣を振り上げたままで固まっていた。 その瞳には、これから自分に訪れる「死」への理解と、拒絶の色が浮かんでいる。
「どけ」
ヴィンセントが、軽く右腕を振るった。 構えもない、ただの裏拳。 蚊を払うような無造作な動作。
だが、その拳は音速を超え、衝撃波の塊となって隊長を襲った。
ドッゴォォォォォォンッ!!
「ギャアアアアアアッ!?」
馬ごと。 隊長は鋼鉄の鎧ごと粉砕され、肉塊となって後方の兵士たちを巻き込みながら吹き飛んだ。 一撃で十数人が宙を舞い、地面に叩きつけられる。 馬のいななきと、人の断末魔が混じり合う。
「ひ、ヒィィッ!!」 「悪魔だ……! 軍神だ……!」
前線の崩壊。 たった一人の男の歩みによって、三万の軍勢がパニックに陥り、機能不全を起こしていく。 恐怖は伝染し、隊列は乱れ、兵士たちは我先にと逃げ出そうとして背中を見せる。
だが、ヴィンセントは追撃しない。 彼は葉巻を取り出し、指先の火花で着火すると、深く紫煙を吸い込んだ。
「……道は開けたぞ。 行け、小僧ども。……エサの時間だ」
◇
「……すげぇ」
レギオンの陣地。 副官レオは、震える手で大剣を握りしめていた。 恐怖ではない。 目の前を行く背中への、焦がれるような憧憬と、魂が沸騰するような興奮。
(これが……俺たちの大将……! 兵器なんかいらねぇ。あの人がいれば、それだけで軍になるんだ!)
レオの胸の奥で、何かが弾けた。 ヴィンセントから放たれる【覇王の威圧】は、敵には絶望的なデバフを与えるが、その背中を追う味方にとっては、最強の支援魔法となる。 恐怖を消し去り、痛覚を麻痺させ、闘争本能を極限まで引き出す、狂戦士化の鼓舞。
「うおおおおおおおおッ!!!」
レオが吼えた。 喉が裂けんばかりの咆哮。 それは、捨て駒だった少年が、獣の王へと覚醒する産声だった。
「続けェッ!! 大将の背中を守るぞッ!!」
レオが地面を蹴る。 彼の体から、赤い蒸気のような闘気が噴き出した。 ヴィンセントの恩恵を受け、レオの才能【不屈】が共鳴し、覚醒を始めようとしていた。
「レギオン、突撃ィッ!!」
レオを先頭に、数百のレギオン兵たちが雪崩れ込む。 彼らはもはや、数的不利など微塵も感じていなかった。 目の前の敵は「脅威」ではない。 自分たちの強さを証明するための「餌」に過ぎないのだ。
「オラアアアアッ!!」
レオの大剣が唸りを上げ、敵兵の盾ごと胴体を両断する。 返り血を浴びた彼の姿は、まさしく地獄から這い出た鬼神。 全身には無数の矢が突き刺さり、肩や足からは鮮血が滴っている。普通の人間ならば、とうにショック死しているはずの重傷だ。
だが、レオは止まらない。 それどころか、傷が増えるたびにその動きは鋭さを増し、剣速は加速していく。
「死なねぇ……! 俺は死なねぇぞ!」
レオが吼える。 彼の魂の底で、才能【不屈】が灼熱の光を放っていた。 肉体の限界を超え、生命力を燃料として燃やし続ける禁断の炉心。 そこに、ヴィンセントの威圧が油を注ぐ。
「化け物だ……! こいつ、首を斬らなきゃ止まらねぇぞ!」 「槍だ! 槍で串刺しにしろ!」
帝国兵たちが悲鳴を上げながら、一斉に槍を突き出す。 十数本の穂先が、レオの腹や胸を貫通する。 ドスッ、という鈍い音が響き、レオの動きが一瞬止まる。
「や、やったか……!?」
兵士たちが顔を輝かせる。 心臓は外したかもしれないが、これだけの傷を負えば動けまい。
「ぐ、がァ……ッ!!」
レオが血を吐く。 だが、その瞳から闘志の炎は消えない。 彼はあろうことか、自らの体に刺さった槍を筋肉で締め上げ、敵兵たちの動きを封じたのだ。
「……捕まえたぜ」
「なッ!?」
槍を握っていた兵士たちが、引き抜こうとしても動かない槍に狼狽する。 レオはニヤリと笑い、血に濡れた歯を見せつけた。
「まとめて吹き飛びなァッ!!」
レオが大剣を横薙ぎに振るう。 剛風。 槍を握っていた兵士たちが、武器ごと上半身を吹き飛ばされ、肉片となって四散する。
「はぁ、はぁ……! まだだ、まだ足りねぇ!」
レオは自身の体に刺さった槍を引き抜き、傷口が湯気を上げて塞がっていくのを感じた。 痛みはある。脳が焼けるほど痛い。 だが、その痛みが「生」の実感となり、力の源泉となる。
【第一恩恵:獅子の心】。
ヴィンセントの指揮下にある限り、自身の全能力を倍増させ、致死ダメージすら「気合い」で耐える共鳴能力。 それは、痛みを知らぬ兵器よりも遥かに厄介な、死なない兵士の誕生だった。
「……悪くない」
その戦いぶりを、少し離れた位置からヴィンセントが見つめていた。 彼は群がる敵兵を素手で――ただの手刀や裏拳でゴミのように弾き飛ばしながら、冷静に部下を評価していた。
「死線を越えるたびに強くなる。……典型的な『戦場の獣』だな」
ヴィンセントは満足げに頷くと、視線を敵の本陣へと向けた。 そこには、焦りと恐怖に顔を歪める指揮官たちの姿がある。
「さて。……そろそろ仕上げといくか」
ヴィンセントが歩き出す。 その一歩が、戦場全体の空気を震わせた。
◇
帝国復讐軍、本陣。 豪奢な馬車の上で、盟主であるボルドー辺境伯は、ガタガタと震える手で望遠鏡を握りしめていた。 冷や汗が止まらない。 喉が渇き、心臓が痛い。
「ば、馬鹿な……。ありえん……!」
視界の先には、信じがたい光景が広がっている。 自軍の精鋭部隊が、たった二人の男によって、まるで枯れ木のように折られ、踏み砕かれているのだ。 ヴィンセントが通った後には、人の形をしたものは残らない。 レオが通った後には、血の川が流れる。
「ま、魔導兵器は!? 隠していた切り札があっただろう!」
辺境伯が叫ぶ。 彼にはまだ、勝算があるはずだった。 帝国の闇市場から、裏ルートで高値で仕入れた、虎の子の自律機兵数体。 旧式とはいえ、腐っても帝国製の殺人兵器だ。人間相手なら無双できるはずだ。
「だ、駄目です! 起動する前に……あの黒い軍服の男に……素手で握り潰されました!」
部下の報告に、辺境伯は絶望した。 握り潰された? 魔鋼の装甲を持つ兵器を、素手で?
「ひぃッ……!」
「魔法だ! 魔法部隊を集中させろ! あの二人さえ殺せば、あとは烏合の衆だ!」
辺境伯の命令で、後方に控えていた五百人の魔導師団が一斉に詠唱を開始する。 これが最後の頼みの綱だ。 炎、氷、雷。 ありとあらゆる属性の攻撃魔法が、雨あられとヴィンセントたちへ降り注ぐ。
「死ねェッ! 化け物どもめ!」
轟音と閃光。 地面がえぐれ、土煙が舞い上がる。 これだけの飽和攻撃を受ければ、ドラゴンですら無事では済まない。
「やったか……?」
辺境伯が身を乗り出した、その時。
ザッ、ザッ、ザッ。
煙の中から、足音が響いた。 規則正しく、重厚で、絶対的な死の足音。
「……魔法か。懐かしいな」
煙を払い、現れたのはヴィンセントだった。 軍服の裾が少し焦げている程度。 その体には、傷一つついていなかった。 彼の周囲だけ、魔法の効果が無効化されているかのように、地面が無傷で残っている。
「な、なぜだ!? 防御魔法も使っていないのに!」
「貴様らの魔法は『軽い』」
ヴィンセントは、退屈そうに首を鳴らした。
「殺意が足りん。覚悟が足りん。 ……ただ教科書通りに魔力を練っただけの攻撃など、俺の闘気を貫くには程遠い」
ヴィンセントが右拳を引く。 ただの正拳突き。 だが、そこに込められたエネルギーは、戦略級魔法に匹敵する。 大気中の魔素が、彼の拳に吸い寄せられ、赤黒い渦を巻く。
「――崩拳」
ドッッッゴォォォォォォンッ!!!!!
拳が空気を叩いた瞬間、衝撃波が一直線に奔った。 それは見えない砲弾となって魔導師団を直撃し、五百人の隊列を中央から消し飛ばした。
「ぎゃああああああッ!?」 「体が……ちぎれ……ッ!?」
人体が弾け飛び、血の雨が降る。 一撃。 たった一撃で、帝国軍の火力の中枢が壊滅した。 地面には、深く長いクレーターが刻まれている。
「ひ、ヒィィッ……!」
辺境伯が腰を抜かして馬車から転がり落ちる。 勝てない。 これは戦争ではない。天災に巻き込まれただけだ。 逃げなければ。 金も、領地も、名誉もいらない。命だけは。
「逃げろ! 退却だ! 全員逃げろォォッ!」
辺境伯が叫び、背を向けて走り出す。 指揮官の逃亡。 それは軍の崩壊を意味していた。
「逃がすかよ……ッ!」
逃げ惑う敵兵の背中を追い、レオが走る。 全身の傷から血を流しながらも、その速度は落ちるどころか上がっている。
「大将の『道』を……俺が作るんだ!」
レオは大剣を振り回し、立ち塞がる敵をなぎ倒していく。 彼の目には、もう敵の数など映っていない。 ただ、ヴィンセントが歩む先にいる「邪魔な石ころ」を排除することだけが、彼の全てだった。
「どけぇぇぇッ!!」
ズバァンッ!!
レオの一撃が、敵の殿を務めていた重装騎士を、馬ごと両断する。 返り血で真っ赤に染まったレオが、荒い息を吐きながらヴィンセントを振り返った。
「大将! 道は開けました!」
ヴィンセントは、ゆっくりと歩み寄り、レオの横に立った。 そして、傷だらけの少年の頭に、ゴツゴツとした手を置いた。
「……よくやった」
短い言葉。 だが、それだけでレオの体から力が抜けた。 膝をつきそうになる彼を、ヴィンセントが片腕で支える。
「休んでいろ。……あとは俺がやる」
ヴィンセントは、逃げる辺境伯の背中を見据えた。 その距離、およそ五百メートル。 通常の武器では届かない距離だ。 馬に乗って逃げる相手を、徒手空拳で追うことは不可能に近い。
だが、軍神に死角はない。
ヴィンセントは足元の瓦礫から、手頃な大きさの石――いや、鉄球ほどの大きさの岩を拾い上げた。 指先で重さを確認し、ニヤリと笑う。
「帝国への手土産だ。……受け取れ」
投擲動作。 全身の筋肉が唸りを上げ、魔力が右腕に収束する。 背中の筋肉が盛り上がり、軍服が悲鳴を上げる。
「――砲丸投擲」
ヒュンッ!!
指先から放たれた岩は、音速を超え、赤い残像を残して空を裂いた。 空気が摩擦熱で発火し、岩が燃え上がる。 それは物理的な「砲弾」となって、一直線に辺境伯の背中へと吸い込まれる。
ドガァッ!!
「ぐえッ!?」
直撃。 辺境伯の上半身が、岩と共に粉砕され、消滅した。 下半身だけが数歩走り、そして力なく倒れ込む。 周囲の護衛たちが、あまりの出来事に悲鳴すら上げられず、凍りついている。
静寂。 三万の軍勢は、指揮官を失い、最強の戦力を見せつけられ、完全に沈黙した。
「……勝負ありだ」
ヴィンセントが葉巻の灰を落とす。 その背中には、一切の隙も、揺らぎもなかった。
◇
地下宮殿。 次元の彼岸にある玉座の間にて。
幻影の窓越しにその結末を見届けたシンは、玉座で深紅の瞳を細めた。
「……やるな」
シンは手元のチェス盤にある、白いポーン(敵兵)を全て薙ぎ払った。 カランカランと駒が落ちる音が、帝国軍の壊滅を告げる鐘のように響く。
「兵器に頼らずとも、この殲滅力。 ヴィンセントの統率と、レオの成長……。予想以上だ」
シンは、血まみれで笑うレオの姿を拡大した。 かつてはただの捨て駒として拾った少年。 だが今、彼は間違いなく「英雄」の領域に足を踏み入れている。 死を恐れぬ狂気と、主への絶対的な忠誠。 それこそが、レギオンが求める「兵隊」の完成形だ。
「【不屈】か。……使い勝手のいい才能だ。 死なない兵士ほど、戦場において厄介なものはない」
シンは立ち上がり、黒いコートを翻した。
「レオ。……貴様を正式に、ヴィンセントの『右腕』として認めてやろう」
魔王の評価が書き換わる。 ただの兵隊から、組織の中核を担う幹部候補へ。
「さて……。西の憂いは消えた。 これで心置きなく、次の『狩り』に集中できるな」
シンの視線が、地図の東側――魔法連邦の方角へと向けられる。 鉄の次は、知識。 魔王の食欲は、まだ満たされてはいなかった。
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続きます。




