第103話 |帝都の闇《アンダー・ガルガロッサ》、あるいは|暴力と恐怖の宴《バイオレンス・パーティー》
黒い雨が、止むことなく降り注いでいた。 鋼牙帝国の首都、鉄帝都。 その最下層に位置するスラム街は、地上にある工場群から排出された汚水と、行き場を失った貧民たちの怨嗟が澱のように溜まる、都市の掃き溜めであった。
錆びついたパイプが迷路のように頭上を走り、そこから滴り落ちる黒い雫が、石畳に不快な染みを作っている。 腐った油の臭いと、鉄錆の臭い。そして、どこからか漂ってくる死臭。 帝国の繁栄を支える鋼鉄の都の、これが偽らざる裏の顔だ。
「……酷い空気だ」
その汚泥にまみれた路地裏を、一人の少年が歩いていた。 ボロボロの麻服に身を包み、背中には薄汚れた荷袋を背負った、どこにでもいるFランクの冒険者――シンである。
彼は顔を煤で汚し、背を丸めて歩くことで、周囲の風景に完全に溶け込んでいた。 行き交う浮浪者やゴロツキたちは、彼を一瞥すらしようとしない。ただの弱者、奪う価値すらないゴミだと認識しているからだ。
(だが、この淀みこそが、害虫どもにとっては居心地の良い巣穴というわけか)
シンは前髪の隙間から、鋭い視線を闇の奥へと向けた。 彼の魔眼には、このスラムの地下に張り巡らされた、巨大な犯罪組織のネットワークが透けて見えていた。
『錆びた鎖』。 帝都の裏社会を牛耳る最大の犯罪シンジケートである。 彼らは帝国の軍部や貴族と癒着し、工場の横流し品や、違法な薬物、さらには人身売買までを手広く行っている。 先ほど、ジェイドが開通させた『魔導転移門』を通じて帝国の資産を運び出す計画が進んでいるが、この『錆びた鎖』の存在は、今後の活動において目障りな障害となりうる。
あるいは――彼らの持つ「流通ルート」と「情報網」を乗っ取れば、帝国の崩壊をさらに加速させるための強力な武器になる。
「……掃除の時間だ」
シンは路地裏の突き当たり、誰もいない廃墟の影に身を滑り込ませた。 そして、こめかみに指を当て、脳内の精神感応網を起動する。
『――ランドルフ、エレオノーラ。聞こえるか』
思考波を飛ばすと、即座に二つの反応が返ってきた。
『おうッ! 待ってたぜ弟君! 兄貴から話は聞いてるぞ!』 『ええ、聞こえておりますわ。……ふふ、ようやく「お遊び」の時間ですのね』
野獣のような野太い声と、艶めかしい女の声。 十王第五席【暴】ランドルフと、その副官である元第一王女エレオノーラだ。 二人は今、シン(18歳)の命令を受け、帝都の近郊まで隠密裏に移動してきていた。
『場所を送る。……帝都第8区画、地下倉庫跡地だ』
シンは冷徹に告げた。
『そこが奴らのアジトだ。今夜は幹部たちが集まって、大規模な取引を行っているらしい』 『へへっ、なるほどな。……要するに、カチ込めばいいんだろ?』 『ええ。……わたくしたちの可愛い「弟君」に手出しさせないよう、綺麗にお掃除すればよろしいのですわね?』
エレオノーラの言葉に、シンは内心で苦笑した。 彼女もまた、ランドルフと同じく、この「15歳のシン」を「主の弟」だと信じ込んでいる。 かつて闘技場で彼女を叩きのめしたのがこの少年だったとしても、その後の地下宮殿での謁見で、「あれは兄(18歳)が弟の体を借りて戦っていたのだ」という設定を刷り込んであるからだ。
今の彼女にとって、シン(15歳)は、敬愛する主の唯一の肉親であり、守るべき庇護対象なのだ。
『ああ、頼む。……だが、派手にやりすぎるなよ? あくまで「裏社会の抗争」に見せかけろ』 『ガハハ! 任せとけって! 手加減くらいできるさ!』 『善処いたしますわ。……相手が、手加減できるような「形」を保っていればの話ですが』
通信が切れる。 シンは廃墟の壁にもたれかかり、懐から一つに欠けたリンゴを取り出して齧った。
「……さて。猛獣の首輪は外した」
シンはニヤリと笑った。
「食い散らかしてもらおうか。……帝国のゴミどもを」
◇
帝都地下、廃棄された貯水槽を利用した巨大な空洞。 そこは、地上とは隔絶された無法者たちの楽園だった。
松明の明かりが揺らめく中、強面の男たちが酒を酌み交わし、下卑た笑い声を上げている。 積み上げられているのは、帝国軍の刻印が入った武器の木箱や、高純度の魔石、そして手枷を嵌められた奴隷たちだ。
「ガハハハ! 今夜も大漁だなぁ! 帝国の兵士どもはマヌケばかりだぜ!」 「違げぇねえ! 横流し品だけで蔵が建つ!」
円卓の中央に座るのは、『錆びた鎖』のボス、ザガン。 全身に刺青を入れたスキンヘッドの巨漢で、その手には巨大な戦斧が握られている。 彼は元Aランク冒険者崩れであり、その凶暴さと残虐さで今の地位を築き上げた男だ。
「おい、次の商品の競りを始めるぞ! とびきり上玉のエルフだ!」
ザガンが号令をかけると、部下たちが鉄檻を引きずり出してきた。 中には、涙を流して震えるエルフの少女が入っている。
「ヒャハハ! いい泣きっ面だ! 高く売れそうだぜ!」
男たちが欲望に塗れた視線を向ける。 この場所には、法も正義もない。あるのは力と金、そして暴力だけだ。
――ズドォォォォォォンッ!!!!!
突如、鼓膜を破るような轟音が響き渡った。 入り口の分厚い鉄扉が、まるで紙屑のようにひしゃげ、蝶番ごと弾け飛んだのだ。
「な、なんだぁッ!?」 「爆発か!?」
舞い上がる土煙。 男たちが慌てて武器を構える中、その煙を割って、巨大な影がゆらりと姿を現した。
身長2メートルを超える筋骨隆々の巨体。 首には太い首輪のような装飾をつけ、上半身は筋肉の鎧を晒している。 その顔には、獲物を見つけた肉食獣のような、凶悪極まりない笑みが張り付いていた。
レギオン・十王序列第五位、【暴】ランドルフ・ノックス。
「よォ。……楽しそうじゃねぇか、豚共」
ランドルフは、ひしゃげた鉄扉を踏みつけながら、ドスの効いた声で言った。
「誰だテメェは! ここを『錆びた鎖』のシマだと知っての狼藉か!」
ザガンが立ち上がり、戦斧を構える。 だが、ランドルフは鼻で笑った。
「シマ? ハッ、笑わせんな。 今日からここは、ウチの弟君の『砂場』になるんだよ。……テメェらみたいな汚ねぇ大人が、土足で踏み荒らしていい場所じゃねぇんだ」
「弟……? 何を訳のわからねぇことを……! 殺せッ! ミンチにして豚の餌にしろ!」
ザガンの命令で、数十人の構成員が一斉に襲いかかった。 剣、槍、魔法。四方八方から殺意の刃が迫る。
だが、ランドルフは避ける素振りさえ見せなかった。
「……痒いんだよ」
ブォンッ!!
ランドルフが腕を横に薙いだ。 ただそれだけの動作。 だが、そこから生じた衝撃波は、暴風となって男たちを襲った。
「ぐべェッ!?」 「がはっ!?」
先頭にいた数人が、ボールのように壁まで吹き飛び、赤い染みとなって張り付く。 剣は折れ、鎧は砕け、人体は原形を留めないほどにひしゃげている。
「な、なんだ今の馬鹿力は……!?」
男たちが戦慄する中、ランドルフは一歩踏み出した。 その体から、赤黒いオーラが噴き出す。
「――第一恩恵:【破壊衝動】」
ランドルフの筋肉がさらに膨張し、血管が蛇のように浮き上がる。 理性を代償に、攻撃力を無限に上昇させる破壊の権能。
「兄貴に言われてんだよ。『派手にやれ』ってなァ!!」
ドゴォォォォォン!!
ランドルフが床を殴りつけた。 衝撃が地面を伝わり、広範囲の床が爆発的に隆起する。 立っていた男たちが空中に放り出され、バランスを失う。
「オラオラオラオラァッ!!」
ランドルフは空中の敵に向かって拳を振るった。 拳圧だけで空気が弾け、男たちの体を空中で粉砕していく。
それは戦闘ではない。一方的な蹂躙。 暴風雨が過ぎ去るように、人の形をした災害が通り過ぎた後には、肉片と瓦礫しか残らない。
「ひ、ひぃぃッ! 化け物だ!」 「逃げろ! こいつには勝てねぇ!」
残った男たちが、蜘蛛の子を散らすように出口へと殺到する。
だが。
「あら。……ご挨拶もなしに退席だなんて、マナーがなっておりませんわね」
出口の前に、いつの間にか一人の女性が立っていた。
燃えるような赤髪に、切れ長の瞳。 豪奢な真紅のドレスを纏っているが、その背中からは、漆黒の炎で織り上げられた禍々しい翼が生えている。
元第一王女にして、ランドルフの副官。 【黒炎の支配者】エレオノーラ・ゼノリス。
「どけッ! 女ァ!」
男の一人が、エレオノーラに向かって剣を突き出す。 だが、その剣先が彼女に届くことはなかった。
ボッ。
音もなく、男の剣が黒い炎に包まれた。 いや、剣だけではない。男の腕、肩、そして全身が、一瞬にして漆黒の炎に飲み込まれたのだ。
「ぎゃああああああああッ!?」
「汚らわしい。……わたくしに触れようなどと、一億年早くてよ」
エレオノーラは優雅に扇子を開き、口元を隠した。 男は悲鳴を上げながら転げ回るが、炎は消えない。 水をかけても、土をかぶせても、その炎は燃料(命)が尽きるまで燃え続ける地獄の業火。
「――第一恩恵:【黒炎の翼】」
エレオノーラが翼を広げると、そこから無数の黒い羽根が舞い散った。 羽根は床に落ちると同時に発火し、逃げ道を炎の壁で塞いでいく。
「さあ、ダンスの時間ですわ。……主の弟君を不快にさせた罪、その魂が燃え尽きるまで踊って償いなさい」
彼女の瞳には、かつての王女としての気品と、魔女としての残虐性が同居していた。 彼女にとって、今の主人はただ一人。 あの絶対的な魔王と、彼が慈しむ弟のみ。 それ以外の人間など、燃えるゴミと変わらない。
「ヒィィッ! 助けてくれぇぇ!」 「熱い! 熱いよぉぉぉ!」
男たちが炎に巻かれ、絶叫する。 ランドルフの拳と、エレオノーラの黒炎。 二つの暴力に挟まれ、帝都最大の犯罪組織は、文字通り「消滅」の危機に瀕していた。
その地獄絵図の中心で、ボスのザガンだけが、膝をついて震えていた。
「な、なんなんだ……お前らは……!」
部下たちが全滅していく様を、呆然と見つめる。 自分の築き上げた帝国が、たった二人の侵入者によって、数分で瓦礫の山に変えられてしまった。
カツ、カツ、カツ。
炎の向こうから、軽い足音が近づいてくる。 ランドルフでも、エレオノーラでもない。もっと小さく、軽い足音。
現れたのは、ボロボロの服を着た、黒髪の少年だった。 手にはリンゴを一つ持ち、それを齧りながら、燃え盛る地獄の中を散歩するように歩いてくる。
――シン。
「よォ、弟君! 綺麗にしといたぜ!」 「お待ちしておりましたわ、シン様。……少し埃っぽいですけれど、我慢してくださいませ」
先ほどまで鬼神の如く暴れていたランドルフとエレオノーラが、少年を見るなり態度を一変させ、恭しく道を空ける。 ランドルフは親愛なる兄貴分のようにニカっと笑い、エレオノーラはスカートの裾をつまんでカーテシーをする。
「……お、お前……?」
ザガンは、目の前の少年を凝視した。 魔力は感じない。覇気もない。ただの子供だ。 だが、この二体の怪物が、この少年にだけは絶対の敬意を払っている。
シンは齧りかけのリンゴを放り投げ、ザガンの前の瓦礫――かつて玉座だった椅子に、どっかと腰を下ろした。
「……よう。おじさんがここのボス?」
シンは無邪気に小首をかしげた。 だが、その瞳の奥には、燃え盛る黒炎よりも昏い、底知れぬ闇が広がっていた。
「ひッ……!」
ザガンは息を呑んだ。 本能が告げている。目の前の怪物は、ランドルフやエレオノーラとは違う。 「格」が違う。 これは、人の形をした深淵だ。
「商談をしようか」
シンはニヤリと笑った。
「この組織……『錆びた鎖』の所有権、僕に譲ってくれるよね?」
「じ、譲る……? 俺の組織を……?」
「うん。だって、もう『中身』は空っぽだし」
シンは周囲の死体の山を指差した。 構成員は壊滅。商品は焼失。残っているのは、場所と名前だけ。
「それに、おじさんも死にたくないでしょ?」
シンが指をパチンと鳴らす。 その瞬間、ザガンの首元に、目に見えない何かが巻き付いた感触があった。 締め付けられるような、冷たい糸の感触。
「……ッ!?」
「僕の言うことを聞けば、命だけは助けてあげる。……その代わり、今日からおじさんは僕の『犬』だ」
シンの背後で、ランドルフが拳を鳴らし、エレオノーラが黒炎を揺らめかせる。 拒否権などない。 従うか、死ぬか。
「……わ、わかった……! 従う! 俺はあんたの犬だ! だから殺さないでくれぇぇッ!」
ザガンは額を地面に擦り付けた。 裏社会の帝王と呼ばれた男が、一人の少年の前に完全に屈服した瞬間だった。
「いい返事だ」
シンは満足げに頷き、立ち上がった。
「じゃあ、さっそく仕事だよ。……帝国の貴族たちに、僕たちの『商品』を売りさばいてきて」
「し、商品……?」
シンは懐から、数枚の羊皮紙を取り出し、ザガンの前に放った。 そこには、ジェイドが用意した「悪魔の契約書」――法外な利息と魂の担保を条件にした、借用書の束があった。
「金に困っている貴族はいっぱいいるでしょ? 彼らに『救いの手』を差し伸べてあげるんだ。……たっぷりと毒を塗った手でね」
シンは邪悪に微笑んだ。
「この街の裏側を、僕たちの糸で埋め尽くすんだ」
ザガンは震える手で羊皮紙を拾い上げた。 これは、帝国の経済を内側から腐らせるための猛毒だ。
「……りょ、了解しました……!」
こうして、帝都最大の犯罪組織は、一夜にしてレギオン・蜘蛛の傘下へと下った。 表では魔導転移門による資源の略奪。 裏では犯罪組織を使った経済汚染。
鋼鉄の帝国は今、内外から同時に食い荒らされようとしていた。
「帰るぞ、二人とも。……兄貴が待ってる」
シンは瓦礫の山を降り、出口へと向かう。 その背中に、ランドルフとエレオノーラが付き従う。
「へへっ、久しぶりにいい運動になったぜ!」 「ええ。少しはストレス解消になりましたわ」
三つの影が、炎上するアジトを後にする。 彼らが去った後には、新しい「法」だけが残された。
帝国の夜は、まだ明けない。 だが、その闇の中で、蜘蛛の目は赤く、妖しく輝き続けていた。
本日も読んでいただき、ありがとうございます!
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけたら、
ブックマーク登録と、広告の下にある【☆☆☆☆☆】の評価ボタンを、星5つ(★★★★★)ポチッと押していただけると執筆の励みになります!
続きます。




