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連作短編集「リセマラ」

ボタン押したら、友達やめるって言われた件

作者: 双瞳猫

活気あふれる大学のキャンパス。SNSがコミュニケーションの中心となっている現代的な世界。サークル活動やアルバイト、恋愛など、若者たちの日常がキラキラと描けていれば幸いです。

 序章 ドジとボタンと僕の日常

 佐藤健太、二十歳、大学二年生。我ながら、驚くほど平凡なスペックだと思う。名前も平凡、身長は平均、顔も平均、成績に至っては平均を少し下回るかもしれない。そんな僕に、神様が唯一、過剰に与えてくれたものがある。


 それは、ドジだ。


「うわっ!」


 九月のまだ日差しが強い金曜日の昼休み。活気あふれる大学のカフェテリアで、僕は盛大に叫んだ。手にしていたトレーが傾き、本日のおすすめランチ「とろーりチーズのせミートソースパスタ」が美しい放物線を描く。スローモーションのように見えるその光景の先には、憧れのテニスサークル三年、高橋美咲先輩の後ろ姿があった。


 着弾。

「ひゃっ!?」


 美咲先輩の可憐な悲鳴と、彼女の真っ白なブラウスの背中にべちゃりと広がる、芸術的なまでの赤い染み。周囲の視線が一斉に僕に突き刺さる。時間が、止まった。


「さ、佐藤くん……?」


 振り返った美咲先輩の顔は、驚きと困惑に彩られている。その隣にいた親友の鈴木翼は、巨大なため息とともに天を仰いだ。


「健太……お前、またかよ」

「ご、ごごご、ごめんなさいッ! わ、わざとじゃなくて、その、足が、もつれて……!」


 しどろもどろに謝罪しながら、ティッシュで拭おうとするも、それは惨状を広げるだけだった。美咲先輩は「だ、大丈夫だよ」と困ったように笑ってくれたが、その優しさが逆に僕の胸を抉る。ああ、もうダメだ。穴があったら埋まりたい。いや、このままミートソースになって消えてしまいたい。

 これが僕、佐藤健太の日常。階段で転ぶのは朝飯前、自販機でお釣りを盛大にぶちまけるのは昼飯後、帰り道ではなぜか鳩にフンを落とされる。そんな失敗のコレクションに、また一つ、最悪の勲章が加わってしまった。

 翼に半ば引きずられるようにしてその場を離れ、学食の隅でペットボトルのお茶をすする。


「お前、なんであんなところで派手にコケるんだよ。美咲先輩、めっちゃいい匂いしたのに、ミートソースの匂いになっちゃったじゃねえか」

「うるさいな! 俺だって好きでコケてるわけじゃないんだよ!」

「まあ、そうだろうな。好きでやってたらただの変態だ」


 翼はクールな顔でスマホをいじりながら、的確に僕の心を抉ってくる。こいつは高校からの親友で、僕のドジを一番近くで見てきた男だ。面倒見がいいのか、ただ面白がっているだけなのか、いつも僕の失敗の後始末を手伝ってくれる。


「はぁ……もう大学辞めたい。美咲先輩に顔向けできない……」

「大げさだな。先輩、笑ってたじゃん。『佐藤くん、面白いね!』ってさ」

「あれは侮蔑の笑いだ! 面白いって言ってもらえるのは嬉しいけど、方向性が違うんだよ!」


 そう、美咲先輩は僕みたいなドジな後輩にも、いつも優しく笑いかけてくれる。その笑顔を見るたびに、僕の心臓はBPM200くらいで暴れ出すのだ。だからこそ、失敗したくない。カッコいいところを見せたい。なのに、現実はいつもこのザマだ。


 その日の夜、僕は自室のベッドで天井を見つめながら、今日の失態を反芻しては「うわー!」と奇声を上げていた。SNSを開けば、サークルのグループLINEが動いている。

『美咲先輩、今日の服、クリーニング代出すので許してください(泣)』

 僕の情けないメッセージに、先輩本人からスタンプが返ってくる。にこやかに「OK!」しているウサギのスタンプだ。優しい。優しすぎて、逆に死にたくなる。


「あーあ、人生、やり直せたらな……」


 そんなありきたりな願望を口にした、その時だった。

 ポコン、と。

 枕元に置いていたスマートフォンが、通知でもないのに淡く光った。画面には、見たこともないポップアップ広告が表示されている。


『人生の「今のなし!」を叶えます。ワンタップで、奇跡をあなたの手に。』


 怪しさ満点。典型的な詐欺広告だ。普段なら即座にスワイプして消すところだが、今日の僕はヤケクソだった。どうせ失うものなんて、これっぽっちのプライドくらいだ。僕は吸い寄せられるように、その広告をタップした。

 画面が切り替わり、シンプルなデザインのページが表示される。


『TEN MINUTES REWINDER - 10分だけ時間を戻せるボタン -』

『今なら無料でお試しいただけます』


「10分だけ時間を戻せるボタン……?」


 馬鹿馬鹿しい。そんなものがあるわけない。でも、もし、もし本当にあったなら?

 今日の昼、ミートソースをぶちまける10分前に戻れたら。美咲先輩との会話で、気の利いた一言を言えたなら。

 僕は、ほとんど無意識に「ダウンロード」のボタンを押していた。インストールは一瞬で完了し、ホーム画面に見慣れない赤いボタンのアイコンが追加された。ただそれだけ。特に何も起こらない。


「だよな。そんなうまい話……」


 そう呟いて、立ち上がろうとした瞬間。ガシャーン!

 ベッドの脇に置いていたマグカップを肘で引っかけてしまい、中に入っていた麦茶がノートパソコンの上に盛大にぶちまけられた。


「うわあああああああ! 最悪だ! レポートが! 俺の単位が!」


 パニックに陥った僕の目に、スマホの画面に表示されたままの、あの赤いボタンのアイコンが飛び込んできた。


『TAP TO REWIND』


 もう、迷いはなかった。藁にもすがる思いで、僕はその赤いボタンを、強く、強くタップした。


「あー!今のなし!もう一回!」


 叫び声と同時に、カチリ、という乾いたクリック音が頭の中に響いた気がした。

 次の瞬間、世界がぐにゃりと歪む。視界が逆再生のビデオテープのように巻き戻っていく。床に広がった麦茶が水滴となってマグカップに吸い込まれ、倒れたマグカップがすっくと立ち上がる。僕の体も、立ち上がろうとした姿勢から、ベッドに座った状態へと引き戻された。

 そして、ハッと我に返った時、僕はベッドの上に座っていた。

 恐る恐る足元を見る。床は濡れていない。マグカップは、何事もなかったかのようにベッドの脇に立っている。ノートパソコンも無事だ。


「……夢?」


 しかし、心臓の激しい鼓動と、指先に残るボタンをタップした確かな感触が、これが現実だと告げていた。僕はゴクリと唾を飲み込み、スマホの画面を見た。そこには、赤いボタンのアイコンが、静かに鎮座している。

 僕の平凡で失敗だらけの日常は、この日、終わりを告げた。

 ここから始まるのは、完璧で、輝かしい、僕の新しい大学生活なのだ。

 ……その時は、本気でそう信じていた。


 第一章 完璧な僕と寂しげな彼女

「10分だけ時間を戻せるボタン」、略して「リワインドボタン」。この神アイテムを手に入れてからというもの、僕の大学生活は一変した。

 翌週の月曜日。一限は、鬼のように厳しいと評判の経済学概論。僕は見事に寝坊した。時計が示した時刻は、午前8時55分。講義開始は9時。大学までは、全力疾走しても20分はかかる。絶望的な状況だ。


「……ふっ」


 しかし、僕の口元には、かつてない余裕の笑みが浮かんでいた。スマホを取り出し、赤いボタンをタップ。


 カチリ。


 世界が巻き戻り、僕は10分前の、まだベッドの中で微睡んでいる自分に戻った。今度は二度寝の誘惑を振り切り、完璧なタイミングで起床。優雅に朝食のトーストをかじり、余裕を持って家を出る。講義開始5分前に教室に到着し、一番前の席に座る僕の姿に、後からやってきた翼は目を丸くした。


「健太? お前が俺より先に来てるなんて、雪でも降るんじゃねえか?」

「まあな。たまにはこういう日もあるさ」


 得意げに笑う僕。リワインドボタン、最高だ。

 その効果が最も発揮されたのは、やはり憧れの美咲先輩とのコミュニケーションにおいてだった。

 水曜日の放課後、テニスサークルの活動日。僕は美咲先輩とダブルスを組むという、夢のような機会に恵まれた。しかし、夢見心地だったのは最初の数分だけ。緊張でガチガチになった僕は、空振りの連続。あげく、サーブを打とうとしてラケットをすっぽ抜けさせ、後頭部に直撃させるという人間離れしたドジを披露してしまった。


「いってぇ……!」

「だ、大丈夫!? 佐藤くん!」


 駆け寄ってくる美咲先輩。ああ、もう最悪だ。カッコ悪い。ダサすぎる。

 でも、僕にはリワインドボタンがある。

 僕は、後頭部を押さえるふりをしてさりげなくスマホを操作し、ボタンをタップした。


「あー!今のなし!もう一回!」


 カチリ。


 時間は、僕がサーブを打つ直前に戻った。今度は完璧に集中する。トスを上げ、しなやかに体を使い、叩きつけるようなフラットサーブを放つ。


 スパーン!

 白球は、相手コートのサービスボックスぎりぎりに突き刺さった。サービスエースだ。


「ナイスサーブ、佐藤くん!」


 美咲先輩が、満面の笑みで僕にハイタッチを求めてくる。僕は平静を装いながら、その小さな手に自分の手を合わせた。心臓は爆発寸前だったが、顔には出さない。完璧だ。

 練習後、二人で片付けをしている時、チャンスは再び訪れた。


「佐藤くん、今日のサーブ、すごく良かったね。何かコツでも掴んだの?」


 美咲先輩が、首をこてんと傾げながら聞いてくる。可愛い。女神か。

 ここで気の利いた一言を言えれば、僕の評価はストップ高だ。


「え、えっと、それは、先輩の美しいフォームを目に焼き付けたおかげで、僕の体内のミトコンドリアが活性化したからです!」


 ……終わった。何を言っているんだ僕は。キモすぎる。

 美咲先輩の顔から、笑顔がすっと消えた。引いている。間違いなく引いている。


「……今のなし!もう一回!」


 僕は心の中で絶叫し、ポケットの中のスマホをタップした。


 カチリ。


「佐藤くん、今日のサーブ、すごく良かったね。何かコツでも掴んだの?」


 全く同じ質問。しかし、今度の僕は違う。


「いえ、まだまだです。でも、美咲先輩に褒めてもらえると、もっと頑張ろうって思えます」


 完璧な模範解答。我ながら、少女漫画のヒーローかと思った。

 すると、美咲先輩は「そっか。ふふ、嬉しいな」と微笑んでくれた。作戦成功だ。僕は心の中でガッツポーズをした。


 しかし、その時、僕は見てしまった。

 微笑む彼女の目に、ほんの一瞬だけ、寂しさのような、物足りなさのような色が浮かんだのを。


 あれ……?

 気のせいか。完璧な対応だったはずだ。きっと、夕日のせいだろう。そう思い込むことにして、僕は舞い上がる気持ちを抑えきれずにいた。


 この日から、僕はボタンを使いまくった。

 落とした財布は、落とす前に拾う。

 バイトでのオーダーミスは、ミスする前に修正する。

 講義で当てられても、一度他の学生の答えを聞いてから時間を戻し、さも自分が考えたかのように完璧な回答を披露する。

 失敗は、僕の辞書から消えた。僕はもはやドジな佐藤健太ではない。何でもそつなくこなす、スマートで完璧な大学生、それが新しい僕だ。SNSのタイムラインは、サークルやバイトで活躍する僕の姿を賞賛する投稿で溢れかえった。

 だが、完璧な日々が続く中で、僕は奇妙な感覚に襲われるようになっていた。

 翼と昼飯を食べている時。


「そういえばさ、この前言ってた映画、もう観たか?」

「え? ああ、観た観た。面白かったよ」

「いや、俺が言ってたのは来週公開のやつなんだけど……」

「あれ?」


 翼と話した内容、講義で聞いたこと、昨日食べたもの。時々、記憶が混濁するのだ。まるで、やり直す前の記憶と、やり直した後の記憶が、頭の中でごちゃ混ぜになっているような感覚。ボタンの使いすぎによる副作用だろうか。

 まあ、いいか。多少の記憶違いなんて、完璧な日常の前では些細な問題だ。

 僕は、迫り来る大きな亀裂の予兆に、まだ気づいていなかった。


 第二章 完璧な僕と離れていく親友

 リワインドボタンを手に入れて一ヶ月。僕は、もはや別人だった。

 寝癖ひとつない髪。計算され尽くしたお洒落な服装。講義では常に的確な発言をし、教授からの評価も高い。テニスサークルでは着実に実力を上げ、次期エース候補とまで噂されるようになった。

 僕は、僕が夢見た「完璧な大学生」そのものだった。


 しかし、僕が完璧になればなるほど、一つの歪みが大きくなっていくのを、僕は感じていた。

 親友、鈴木翼との距離だ。

 以前は、講義も昼飯も、いつも一緒だった。他愛もない話で笑い、僕がドジをやらかせば、翼が呆れながらも突っ込む。それが僕たちの日常だった。

 だが、最近の翼は、どこかそっけない。


「翼、今日昼飯どうする? 学食の新メニュー、結構うまいらしいぜ」

「ああ、悪い。今日はサークルの連中と食う約束してるんだ」

「そっか。じゃあ、また今度な」


 そんなやり取りが増えた。翼が僕を避けている。理由は分からない。僕が何か、彼を怒らせるようなことをしただろうか?

 いや、ありえない。僕はこの一ヶ月、リワインドボタンのおかげで、対人関係において一切の失敗を犯していないはずだ。翼との会話だって、彼が不快に思うような発言は、すべてボタンで「なかったこと」にしてきた。

 ある日の放課後、僕は意を決して翼に話しかけた。


「翼。お前、最近なんか変だぞ?」


 翼は一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐにいつものクールな表情に戻った。


「……別に。普通だろ」

「普通じゃないだろ。最近、俺のこと避けてるだろ。何か、俺が悪いことしたなら謝るから、言ってくれよ」


 僕の真剣な問いかけに、翼はしばらく黙り込んでいた。そして、重い口を開いた。


「……お前さ、つまらなくなったよな」


 頭を殴られたような衝撃だった。

 つまらなくなった? 僕が?

 こんなに完璧で、順風満帆な僕が?


「な、なんだよ、それ……。どういう意味だよ」

「そのままの意味だよ。昔のお前は、見てて飽きなかった。次に何をやらかすか、ハラハラして、でも面白かった。けど、今のお前は……」


 翼は言葉を切り、僕を値踏みするような目で見た。


「ただの、そつない優等生だ。完璧すぎて、逆に人間味がない。一緒にいても、何も面白くない」


 ぐさ、ぐさ、ぐさ。

 翼の言葉が、ナイフのように僕の胸に突き刺さる。

 面白くない? 人間味がない?

 僕が必死に手に入れたこの完璧な姿を、一番の親友が全否定している。


「そんなことない! 俺は、ただ、失敗しないように努力してるだけだ!」

「努力ねえ……。まあ、いいや。俺、用事あるから」


 そう言って、翼は僕に背を向け、去って行ってしまった。

 僕はその場に立ち尽くすしかなかった。

 納得できない。翼は、僕がドジで失敗ばかりだったから、仕方なく面倒を見てくれていたんじゃないのか。僕が完璧になれば、対等な親友として、もっと良い関係になれると思っていたのに。


「……くそっ」


 ポケットの中のスマホを握りしめる。

 そうだ、僕にはリワインドボタンがある。今の会話も、やり直せばいい。翼が納得するような、完璧な言葉を選べばいいんだ。

 僕はボタンをタップした。


 カチリ。


 時間は、僕が翼に話しかける前に戻る。

 今度は作戦を変えた。もっと明るく、フレンドリーに。


「よお、翼! 最近どうよ? 俺、この前先輩に褒められちゃってさー!」

「……そうか。よかったな」


 翼の反応は、前よりもさらに冷たい。ダメだ。これじゃない。

 もう一度、やり直す。

 今度は、彼の悩みに寄り添うカウンセラーのように。


「翼、何か悩んでるんじゃないか? 俺でよかったら、何でも聞くぜ」

「……お前に言っても、どうせ分かんねえよ」


 結果は、さらに悪化した。

 何度やり直しても、翼の心は離れていくばかりだった。完璧な言葉を選べば選ぶほど、彼の目は冷たくなり、僕との間に見えない壁が厚くなっていくのを感じた。

 そして、五回目のやり直しの時だった。

 僕はもう、どんな言葉をかければいいのか分からなくなっていた。ただ、彼の前に立ち、黙り込んでしまった。

 そんな僕を見て、翼は深く、深いため息をついた。


「なあ、健太。お前、もうやめろよ」

「……え?」

「その、完璧な自分を演じるの。見てて、痛々しいんだよ」


 翼の声は、怒りではなく、悲しみを帯びていた。


「俺が好きだったのは、いつも一生懸命で、でも空回りして、派手にコケて、それでも笑ってたお前だ。お前のドジなところも全部含めて、親友だったのに。今のお前は、誰なんだよ。俺の知ってる佐藤健太じゃない」


 その言葉は、どんな鋭い刃物よりも、僕の心を深く傷つけた。

 僕は、良かれと思ってやっていた。失敗しない、完璧な自分になることが、翼のためにも、美咲先輩のためにも、そして何より自分のためにもなると信じていた。


 でも、違ったんだ。

 僕が消し去ろうとしていた「ドジな自分」こそが、翼にとっての「親友の証」だったなんて。

 呆然と立ち尽くす僕の肩を、誰かがポンと叩いた。

 振り返ると、そこにいたのは美咲先輩だった。


「あ、高橋先輩……」

「二人とも、どうしたの? 真剣な顔しちゃって。喧嘩?」


 美咲先輩は、心配そうに僕たちを見ている。


「いえ、そんなんじゃ……」


 僕が言い淀んでいると、美咲先輩はくすくすと笑った。


「そっか。でも、最近の佐藤くん、ちょっと話しかけにくいかも。前は、見てるだけで面白いことたくさんしてくれたのに」

「え……」

「私、佐藤くんが何かやらかすたびに、『佐藤くん、面白いね!』って言うの、結構好きだったんだけどな。最近は、なんか普通になっちゃって、ちょっと寂しいかも」


 そう言って、美咲先輩は「じゃあね!」と手を振り、友達の輪の中に戻っていった。

 普通になっちゃって、寂しい。

 面白いね、って言うのが好きだった。

 翼の言葉と、美咲先輩の言葉が、頭の中でリフレインする。

 僕が目指してきた完璧な姿は、誰からも望まれていなかった。

 僕が捨てようとしていたダメな部分こそが、僕を「僕」たらしめている、大切な個性だった。


 僕は、なんて馬鹿だったんだろう。

 ポケットの中のスマホが、鉛のように重く感じられた。


 第三章 さよなら、完璧な僕

 翼と美咲先輩からのダブルパンチを食らった僕は、その夜、自室で完全に燃え尽きていた。ベッドに大の字になり、天井の木目を数える。いや、数えているふりをして、何も考えられずにいた。


 完璧な僕。


 それは、親友を遠ざけ、憧れの先輩を寂しがらせる、空っぽの存在だった。

 僕が必死に塗り固めてきたメッキは、彼らの本音の前で、いとも簡単にはがれ落ちてしまった。

 ポケットからスマホを取り出す。画面には、忌々しくも輝かしい、赤いボタンのアイコン。


『TAP TO REWIND』


 こいつさえなければ。

 いや、違う。こいつに頼り、自分を見失った僕が悪いんだ。

 翼との喧嘩。美咲先輩との会話。

 ボタンを押せば、またやり直せる。もっとうまく立ち回れるかもしれない。

 でも、それで何になる?

 また、上辺だけの言葉で取り繕って、本心からさらに遠ざかるだけだ。もう、そんなのはうんざりだった。


 僕は、赤いボタンのアイコンを長押しした。画面に「アンインストールしますか?」という無機質な文字が浮かび上がる。指が、震える。これを消してしまったら、僕はまた、あのドジで失敗ばかりの日常に戻るのだ。

 でも、それでいい。それがいいんだ。

 失敗して、格好悪くて、情けなくても、それを笑い飛ばしてくれる親友がいて、面白がってくれる先輩がいる。それって、実はものすごく幸せなことなんじゃないか。


 僕は、意を決して「はい」をタップしようとした。

 その時、ふと、ある考えが頭をよぎった。

 本当に、このまま消してしまっていいのだろうか。このボタンは、確かに僕を間違った方向へ導いた。でも、使い方次第では、何かの役に立つかもしれない。例えば、誰かが本当に困っている時とか……。

 いや、ないな。僕が持っていると、ろくなことにならない。

 でも、消すのは、なんだか惜しい気もする。

 散々迷った挙句、僕はアンインストールするのをやめた。代わりに、アイコンをホーム画面の隅っこ、フォルダの奥深くに移動させた。そして、スマホの電源を落とした。

 物理的に、こいつとの距離を取る。まずは、そこからだ。


 翌日、僕は重い足取りで大学に向かった。翼に、何て謝ろう。昨日の今日で、どんな顔をして会えばいいのか分からない。キャンパスを歩きながら、必死に言葉を探す。


「よう」


 背後から声をかけられ、心臓が跳ね上がった。翼だった。

 彼は、少し気まずそうな顔で、僕の隣に並んで歩き始めた。


「……きのうは、悪かった。言いすぎた」


 先に謝ってきたのは、翼の方だった。


「いや……! 悪いのは俺の方だ。翼の言う通りだよ。俺、調子に乗ってた。カッコつけて、大事なものが見えなくなってた」


 僕は、素直に頭を下げた。心からの、謝罪だった。


「ごめん、翼。本当に、ごめん」

「……だから、もういいって。俺の方こそ、キツく言い過ぎた」


 翼はバツが悪そうに頭をかきながら、視線を少しそらした。その仕草が、いつもの翼らしくて、僕の胸の奥がじんと熱くなる。


「ううん。翼が言ってくれなかったら、俺、ずっと気づかなかったと思う。完璧になれば、みんなに好かれるんだって、本気で思い込んでた。ダサいよな、俺」


 自嘲気味に笑うと、翼は僕の肩をバンと叩いた。


「ダサいのは今に始まったことじゃねえだろ」

「ひどいな!?」

「でも、まあ……」


 翼は言葉を切り、前を向いたまま続けた。


「そういうダサいお前の方が、俺は好きだけどな」


 ぶっきらぼうな、けれど最高に温かい言葉だった。僕と翼の間にできていた、見えない壁が音を立てて崩れていくのが分かった。ああ、そうだ。これが僕たちの距離感だ。完璧な言葉なんていらない。ただ、素直な気持ちをぶつけ合える、この関係が欲しかったんだ。


「……サンキュ」


 照れくさくてそれだけ言うのが精一杯だった。翼は「おう」と短く応え、二人で黙って歩き出す。気まずさはない。まるで、この一ヶ月の空白が嘘だったかのように、僕たちの間にはいつもの空気が戻っていた。


「で、昼どうすんだ?」

「もちろん学食だろ。今日は俺がおごるよ。迷惑かけたお詫び」

「マジ? じゃあ一番高いスペシャル定食な」

「げっ、現金なやつ……」


 他愛もない会話。これが、こんなにも心地良いなんて。

 学食へ向かう途中、僕の足が、何もないはずの地面に敷かれたタイルに、見事に引っかかった。


「おわっ!?」


 体が前のめりになり、数歩よろける。まるで生まれたての子鹿のような、無様で、無意味なつまずき。一ヶ月前の僕なら、顔から火が出るほど恥ずかしがり、すぐにリワインドボタンを押していただろう。

 だが、今の僕は違った。


「あぶねー! 俺の三半規管どうなってんだ!」


 僕は体勢を立て直しながら、自分で自分にツッコミを入れて笑った。すると、隣を歩いていた翼が、腹を抱えて笑い出した。


「ぶははっ! 相変わらずだな、お前は! 一ヶ月ぶりのそれ、キレが違うわ!」

「うるさいな! 笑うなよ!」

「いやー、やっぱお前はそうじゃなきゃな。安心するわ」


 笑いながら僕の背中を叩く翼。その手の感触が、やけに温かかった。

 失敗は、恥ずかしい。格好悪い。でも、それを笑い飛ばしてくれる親友が隣にいる。その事実に気づいた瞬間、僕の世界は、リワインドボタンがあった頃よりも、ずっと色鮮やかに輝き始めた気がした。


 第四章 ありのままの僕と本当の笑顔

 ボタンを使わない日常は、驚くほどスリリングだった。

 経済学概論では、予習をサボっていた範囲をピンポイントで当てられ、しどろもどろになって赤っ恥をかいた。

 バイトでは、新人の女の子に良いところを見せようとして、グラスを二つも重ねて運ぼうとし、派手な音を立てて一つを床に落として割った。

 SNSのタイムラインには、再び僕のドジな失敗談が友人たちによって面白おかしく投稿され始めた。


『【悲報】佐藤健太、本日も平常運転』

『健太、床とディープキスしてた』

『#今日の健太』


 一ヶ月前なら、絶望して大学を辞めることまで考えていただろう。でも、今の僕は、そんな投稿に「うるせー!(笑)」と返信できるくらいの心の余裕があった。失敗はゼロにはならない。でも、ゼロにする必要もなかったのだ。


 そして、運命の水曜日。テニスサークルの活動日。

 僕は、またしても美咲先輩とダブルスを組むことになった。翼が「先輩、こいつ最近また面白くなってきたんで、よろしくお願いします」と余計なことを言ったせいだ。


「面白いって、どういうこと?」


 不思議そうに首を傾げる美咲先輩に、僕は「なんでもないです!」と慌てて首を振る。もう、ミトコンドリアがどうとか、意味不明な発言はしない。


 試合が始まると、僕は早速やらかした。

 相手が打った緩いボールを、スマッシュで決めようと意気揚々とジャンプする。完璧なタイミング! 叩きつければ、ヒーローだ!

 そう思った瞬間、ボールは僕のラケットのフレームに当たり、真上に高く打ち上がった。そして、まるで計算されたかのように、僕自身の顔面へと垂直に落下してきた。

 ポコン。


「ぶふっ!?」


 情けない声が、コートに響き渡る。鼻に直撃したボールが、ぽとりと足元に落ちた。じんわりと広がる痛みと、それ以上の猛烈な恥ずかしさ。コートの全員が、僕を見て笑いをこらえている。


 ああ、やってしまった。

 これが、ありのままの僕。ドジで、格好悪くて、間抜けな、佐藤健太。

 僕は鼻を押さえながら、恐る恐るペアの美咲先輩の方を見た。幻滅されただろうか。呆れられただろうか。

 しかし、そこにいたのは、僕の想像とは全く違う表情の美咲先輩だった。

 彼女は、口に手を当てて、肩を震わせていた。そして、こらえきれなくなったように、声を上げて笑い出したのだ。


「あはははは! ご、ごめん! 佐藤くん、大丈夫!? でも、今の、マンガみたいだった!」


 それは、僕が今まで見た中で、一番美しい笑顔だった。

 完璧なサーブを決めた時に見せた、どこか作り物めいた微笑みじゃない。完璧な会話をした時に見せた、どこか寂しげな笑顔でもない。

 心の底から、おかしくてたまらないといった感じの、弾けるような笑顔。涙を浮かべながら笑うその顔は、どんなに取り繕った僕の姿よりも、ずっと彼女の心を動かしているように見えた。


「佐藤くん、面白いね!」


 その言葉は、もう侮蔑の響きを持っていなかった。親しみを込めて、僕という人間そのものを受け入れてくれている、温かい響きだった。

 僕は、鼻の痛みも忘れて、彼女の笑顔に見とれていた。そして、つられて自分も笑っていた。


「だ、大丈夫です! 鼻血も出てないんで!」


 そう言ってへらへら笑う僕を見て、美咲先輩はさらに楽しそうに笑った。

 その日の帰り道、僕は翼と二人で夕日に染まる道を歩いていた。


「お前、鼻、赤くなってんぞ」

「うるさい。これも名誉の負傷だ」

「まあ、先輩、めちゃくちゃウケてたから結果オーライだろ」

「だといいけどな……」


 僕はポケットの中のスマートフォンにそっと触れた。もう、何日もあの赤いボタンを起動していない。

 失敗だらけの毎日は、決して楽じゃない。恥ずかしいし、落ち込むこともある。でも、その失敗が、誰かの笑顔に繋がることがある。その失敗を通して、誰かと心を通わせることができる。

 失敗は、ただの間違いじゃない。人と人とを繋ぐ、コミュニケーションのきっかけにもなるんだ。それは、完璧な人生を送っていた時には、決して気づけなかったことだった。


 僕は、もう迷わなかった。

 立ち止まり、スマートフォンを取り出す。そして、フォルダの奥深くに隠していた、あの赤いボタンのアイコンを、もう一度表示させた。

『TEN MINUTES REWINDER』

 この一ヶ月、僕に完璧な時間と、それ以上に大きな孤独をくれたアプリ。

 僕は、アイコンを長押しした。


『アンインストールしますか?』


 無機質な文字が、僕に最後の問いを投げかける。


「ああ」


 僕は小さく呟き、迷いなく「はい」をタップした。アイコンは、シュン、と音を立てるように画面から消え去った。まるで、最初からそこには何もなかったかのように。

 なんだか、すごくスッキリした気分だった。重い鎧を脱ぎ捨てて、身軽になったような感覚。


「何してんだ?」


 不思議そうに振り返る翼に、僕は笑って言った。


「いらないアプリ、消してたんだよ」


 さよなら、完璧な僕。

 こんにちは、ドジで失敗ばかりの、ありのままの僕。


 僕の大学生活は、相変わらず失敗の連続だ。

 でも、もうそれを恐れることはない。

 階段で転べば、翼が「またかよ」と手を貸してくれる。

 講義で珍回答をすれば、教室が笑いに包まれ、なぜか友達が増えた。

 美咲先輩は、僕を見るたびに「今日は何か面白いことしないの?」と期待に満ちた目で聞いてくるようになった。それはそれで、プレッシャーではあるけれど。

 ドジで失敗ばかりの日常は変わらない。

 でも、それを笑い飛ばしてくれる友人がいる。面白がってくれる人がいる。

 失敗もまた、悪くない。いや、むしろ、失敗があるからこそ、人生はこんなにも面白くて、愛おしいのかもしれない。


 ボタンを押したら、友達やめるって言われた件。

 今となっては、彼にそう言ってもらえて、本当に良かったと心から思う。

 だって、完璧な一人ぼっちよりも、失敗だらけの「二人」の方が、ずっと、ずっと幸せなのだから。


 僕は隣を歩く親友の肩を組み、夕日に向かって、根拠のない自信に満ちた声で言った。

「なあ翼、今度のサークル合宿、俺が盛り上げてやるよ!」

「やめろ。絶対なんかやらかすから、お前は黙っててくれ」

 僕たちの賑やかな日常は、これからも続いていく。


失敗のない完璧な人生より、格好悪くても一緒に笑い合える毎日を。この物語は、そんな当たり前でかけがえのない幸せを描きました。


あなたの「ドジ」も、誰かにとっては愛おしい魅力なのかもしれません。この物語が、少しだけ自分を好きになるきっかけになれば嬉しいです。

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