火の番【東方二次創作】
昼下がりのこと。呼び鈴が鳴って、鈴仙・優曇華院・イナバは玄関の扉を開けた。
玄関先には藤原妹紅が立っている。肩までの白髪を後ろで結び、黒いキャップを被っていた。
「お邪魔します」
「いやいや、呼んだのは私ですし」
妹紅は帽子を取ると、リュックからペットボトルのお茶を出して鈴仙に手渡した。道中で買ってきたようでよく冷えている。お礼を言って受け取った。
妹紅が洗面台で手を洗っている合間に、ベッドの枕元に立てかけたエアガンを、クローゼットに押し込んだ。先輩を家に上げるのに、枕元に銃があったら外聞が悪いかもしれない、と思ったのだ。
*
鈴仙は看護学校の二年生だった。
看護学校にはもちろん人間も通っているが、他の学部と比べると兎が多い。看護師、助産師、歯科衛生士などは昔から兎の多い職種であり、鈴仙もその一人だ。エアガンは兎だからというわけではなく、単なる個人の趣味である。
レポートに追われていた鈴仙は、部屋に妹紅を呼ぼうと思い立った。一人だと寝転がってサボってしまうし、他の兎が一緒だと、お喋りに夢中で勉強が進まない。妹紅はそんなに喋らないから、家に来てもらえばはかどるかもしれない。
サボらないように見張ってほしいと頼むと、妹紅はあっさりと応じて、バイトが終わってからで良いならと答えた。自分も書き物があり、家の隣で工事があってうるさいので、静かな場所で進められるなら助かる、と言っていた。学生マンションを妹紅が訪ねて来たのはそういうわけだ。
妹紅はじゅうたんに腰を下ろすと、口を開くなり「あいつが居ないと静かで良いや」と言った。
あいつというのは輝夜のことだ。黒髪を腰まで伸ばした、絵巻物から出てきたようなお嬢様。
体育系の学科にいる妹紅と、日本文化を専攻する輝夜は、顔を合わせれば喧嘩をする。
初めは仲裁しようとしたが、きりがないし火に油なので、今では放っておくことにしている。仲が悪いのかと思えば、カラオケや日帰り旅行に行ったりもするからよく分からない。輝夜が奢ってくれる、だけの理由でもなさそうだ。
鈴仙は曖昧に頷いて「早く進めちゃいましょう」と答えた。折りたたみ式の座卓を妹紅に貸して、壁際の机でノートパソコンを開く。
薬理学のレポートは書きかけで、精神看護学のほうは真っ白。どっちも明日が締切だった。
「八意先生、厳しいんだよなあ」
思わず独り言が漏れた。薬理学の八意先生はレポートを見る目が厳しく、表記ゆれや論理の崩れがあれば、赤ペンで波線を引いて再提出を言いつける。
学生の質問を歓迎して、時間を割いて丁寧に教えてくれるのだが、真っ赤になって返ってくるレポートを思うと気が重かった。
薬理学から進めることにする。教科書をめくりながら椅子を回して振り返ると、妹紅がクリアファイルの中身を机に広げていた。
「履歴書ですか?」
「ああ。消防局に送るやつ」
鈴仙は目を丸くした。学校生活やバイトの話はちょくちょく聞いていたが、消防士を目指すとは初耳だ。
妹紅がペンを持って、自分の名前を書いたところで、鈴仙は口を挟んだ。
「あ、ふりがなは平仮名じゃないと」
ふりがなの欄に、妹紅はカタカナで「フジワラ」と書きかけていた。看護学校に願書を出すとき、“ふりがな”のときは平仮名、“フリガナ”ならカタカナで書くんだと教わったことがある。
「そうなのか。ややこしいなあ」
妹紅はしぶしぶ新しい紙を出した。鈴仙はパソコンに戻り、しばらくはキーボードの打鍵音と、紙をめくる音、ボールペンをノックする音だけが部屋に響いていた。
しばらくして、座卓のほうで「うわ」と声が上がる。
「……間違えた。学歴のとこ、“二”を“一”って書いた」
椅子から降りて、妹紅の肩越しに履歴書を覗く。白い髪から微かに油と煙草の匂いがした。ガソリンスタンドのバイト帰りの匂いは、不思議と嫌な感じはしなかった。
「ちょっと貸してください。これならまだセーフです!」
ボールペンで線を足して“二”にして返したが。妙に間隔の狭い二本の線は、明らかに不自然であった。
「う。しかも太さが違う……」
「結局書き直しか」
「……余計なことしてすみません!」
気まずそうな鈴仙に、どっちみち書き直しだから気にするな、と妹紅は答えた。鈴仙がキーボードを打っている間に、妹紅は履歴書の左側をなんとか書き終えたらしい。
「次は資格。危険物乙4取得、っと」
「ちょっと待ってください」
手元のパソコンで「乙4 正式名称」と検索して示したが、もう手遅れだった。
「乙種第4類危険物取扱者免状取得、らしいです」
「またやり直し。もう嫌だ!」
「妹紅さんも携帯持ってるなら、書く前に調べてください」
妹紅は新しい紙を用意し、筆箱からペンを出して──。
「なんでだよッ!」
間違えて赤ペンで名前を書き、履歴書のストックを切らして腹を立てていた。だいぶ集中力が切れている。
「紙が無い。コンビニで買ってくる」
「私も行きます」
鈴仙はレポートを保存して立ち上がった。ついでに軽食か甘いものを買って、一息入れるつもりだった。
*
歩いて数分のコンビニで買い物を済ませたあと、天気が良いので、回り道をして学生マンションに戻ることにした。
「……ほんと履歴書って面倒だよな。名前書くだけで疲れるし、誤字ったら全部やり直しだし。で、自己PRと志望動機も残ってる。書くことが何もないんだよ」
不満をこぼして歩く妹紅に、鈴仙は耳を疑った。
──何もないって、本気で言ってるのか。
二年前のことだ。
妹紅は走り高跳びで表彰され、学業と陸上競技の傍ら、土曜の夜に呑み屋街の焼鳥屋で働いていた。
古びた焼鳥屋から火の手が上がったのを、今でも画面越しに覚えている。
鈴仙がテレビで中継を見ていた頃、携帯が鳴って、輝夜から「焼鳥屋が燃えてる」「妹紅と連絡が取れないの」と電話があった。輝夜の焦った声は珍しい。
悪い予感は当たるもので、火元の厨房にいた妹紅は、服に火が移って病院に運ばれていた。火事の原因は設備の老朽化だという。
どこで知ったのか、輝夜はこちらに涙声で電話をかけてきて、妹紅が大やけどをしたらしい、と言った。
妹紅の入院中、一度だけ面会に行った。
処置の時間と重なってしまい、看護師がカートを押して病室に入るところだった。廊下の椅子に座って待っていると、病室のほうから、押し殺すような呻き声が聞こえてきた。
しばらくして出てきた看護師は、鈴仙を安心させるように「治りがだいぶ早いんですよ」と言った。普通なら皮膚を移植しないといけないが、なぜか本人の皮膚が再生しており、感染防止とガーゼの交換をしているらしい。
少しして病室を訪ねると、妹紅は片腕と耳にガーゼを貼って、平然とした様子でベッドに座っていたので、こちらもつとめていつも通りに話をした。
当時の自分は進路を考える時期で、周りに言われてなんとなく看護系を志望していたけど。あの件があって、看護学校への進学を決めたのだった。
妹紅はしばらくして学校に戻ると、全焼した焼鳥屋に代わって、ガソリンスタンドで働き始めた。時給が上がるからと危険物取扱者の免許を取って、今もバイトを続けている。
*
今こうして隣を歩いている彼女を見ても思う。
走り高跳び、火事、乙四。際立つ点に事欠かないのに、当人は「何もない」という。
「いや、ありますよ。山ほど」
「え、そうか?」
「そうです! 走り高跳びのこともアピールできるし、焼鳥の件だって──」
余計なことを言ったかと悔やんだが、書き損じと一緒で、あとから気づいても手遅れだった。
「別に変な意味じゃなく。看護師を目指す人も、自分とか身近な人が入院したのを志望理由に書いたりしますから。火の怖さを知ったから人を守りたい、ってのも、全然おかしくないと思います」
「……食いっぱぐれがないから受けるだけだよ」
風が吹いて、隣を歩いている妹紅が、帽子を片手で押さえた。ここからでは表情は見えず、手の甲から腕にかけて、火傷の痕が覗く。もう治って動きに支障はないはずだが、手の甲の痕は隠せない。
──ついさっき、火の怖さを知ったのは志望動機としておかしくない、と言った。
本当に訊きたいのは逆だった。
怖くないのか、と。食いっぱぐれない仕事だとしても、たった二年で火の中に戻るなんて、あまりに早すぎないか。
口に出そうとしたとき、妹紅が「腹へった」と言ったので、肩の力が抜けた。
まあいいか、と兎は思う。ちょうど家が近づいてきたし、お腹が減っているときに湿っぽい話は嫌だろう。
*
部屋に戻って、コンビニのおにぎりを二人で食べた。冷蔵庫の卵でスープを作って出すと、妹紅は美味しそうに飲んでいた。
食べ終わって少し休んでから、鈴仙はパソコンを開き、妹紅は応募書類を書き始めた。先の誤字地獄からは抜けられたようで、静かに机に向かっている。外が暗くなってきたのでカーテンを閉めた。
レポートが一通り書き上がって、鈴仙は息をついた。真っ赤で返ってくるかもしれないが、八意先生は一度で受理せず、学生とやり取りしながら質を上げるのを好むのだ。
期日も迫っているし、一旦印刷して明日出すことにしよう。ノートパソコンからUSBを抜いたとき、ちょうど妹紅の応募書類も仕上がっていた。
妹紅に渡されて目を通すと、走り高跳びの経験と、アルバイト先の火事のことが綴られていた。火災防止の呼びかけと消火の両方に就きたい、とある。
「良いと思います」
妹紅は書類をファイルに戻してリュックに入れると、玄関に向かった。
「そういえば、レポートは終わったのか」
「はい。今日は来てもらって助かりました」
「こっちこそ。今日は助かった」
通りまでついていくと、妹紅は片手を振って、またなと言った。
「お元気で──」
夜空に欠けた月が浮かんでいた。月を少し眺めてから、鈴仙は踵を返す。
──あのひと、格好いいんだけど、危なっかしくて放っておけないんだよな。
自分を売り込むのが下手なところとか、痛くても言わないところとか。輝夜が親のように世話を焼こうとするのも、妹紅が嫌がるのも、どっちも分かる気がする。
そんなことを考えながら部屋に戻った。薬理学のレポートも終わって、ひとまず肩の荷が下りた気分だった。
明日からまた学校だ。普段はシャワーで済ませるけど、久しぶりに湯船に浸かっても良いかもしれない。
そこで、何か忘れていることに気がついた。嫌な予感が足元から背筋を伝って耳へと這い上がる。何か大事なことが引っ掛かっている。そうだ。
──精神看護学のレポートは、まだ一文字も書いていない。
学生マンションの一室に悲鳴が響く。兎の永い夜は始まったばかりだった。