大江健三郎諮論
敷設された道路をてくてく歩く。
大江健三郎が『取り替え子』で示したかった、論理の熟節は、吾朗が示したはずの、芸術的な方法だった。吾朗と古義人が合わせて考えた二人での小説家の群像。それが、未来小説の可能な模範だった。しかし、古義人はそうできない路上にいた。
草むらを打ち破り、下り露道を歩く。
これ以上はない。
大江がどうしても、打ち破ることが出来なかった路上の観点からいって、外で暮らすと言う概念が欠けていたのだ。
雨上がりの路上を南に真っ直ぐ歩く。
成田から、千葉へ。
歩いた距離が論理では帰る道を失った決着点で有る。
成田が過ぎ、船橋へ着く頃、昼上がっていく。
船橋までどうやって歩いたか?
今意地になって歩いたとしか思い出せなくても、本当に意固地というか、もう歩くしかないとなって、歩いたのだった。
大体40キロ。それが、船橋駅前の人前に出て、野生の自前の顔を人に見られるのが嫌だったな。
音楽を持っていくと音楽から、逃れられない。
嫌なことを思い出したりする。
ぼくの、普段しているギター音楽が、芸術では言いあらわせられない、究極の芸術表現だと、自分で分かったのが20の頃だ。
その時気がついた、芸術の神髄が、誰にも認められない形で、言葉では言いあらわせられない、芸術表現だったのだ。
それが、ネックになった。
人付き合いが出来なくなって、人前に出るのが億劫になった。
家で、大江健三郎の『取り替え子』を読むようになったのだった。
それ以外のことはない。
それ以外は、考えていない。
音楽のトラウマから出られるようになったのは、漸く32になってからだ。
それまでの、遠い道のりがぼやけてくる。
誰かと話ししたり、忘れたりしたら良いのか、と思って、デイケアにかよったり、
作業所で、黙々と、草抜きをしたりした。
でも、表出するようになったのは、30を過ぎてからだ。
ぼくが考えた大江健三郎の『取り替え子』の評価は、神話と、寓話を民話を、取り合わせて、浮遊した状態にして、海外の小説を引用すると、出来上がったを元とする。
大江自身がなにか、詩人的な表現ができるから、小説の文節が気になったりする。
得意な、文章では、森のこと、そして、家族が多く大江の小説の世界の登場人物になっているということだろう。
神が造った、世界の、構築を大江はなぞっているのだ。
大江が造った世界と、神の創造している世界は近いと言うことが言いうる。
そして、それこそが、大江の求める救いの文章だろう、それが、大江夫人と、光君を伴った、救いへの道となっていると思われる。
その途中、袋井と思うが、蜜柑が美味しい所だった、足袋を履かせて、背負子を背負って、旅する東海道53次のアニメが、もう何度となく思い描いた、結局そのアニメが最後に表されるということが、忘れていたことの一つである。
それと、箱根である、大きなトンネルが、怖くも有り、これを、超えなくてはならない、と言う気概で乗り越えたのであったが、それを超えたあたりで、乗用車に止められ、
乗って良いと誘われ、同乗したのであった。
白いシャツのふくよかな人だった、学校の社会科の先生だと言われていた。
それが、最後、公園まで、送ってくれたのだが、駅まで行くと良いと言われた。それで、その人の仰ったことを、捨てるようにし、麦茶を飲み干した。
水筒を買って置いたので、それに、1リットルの麦茶のパックを買って、入れていたりしたが、その、駅に着いた頃、また、頼によって引き返して、また、歩き出したのだった。
ああ、始末に悪い!
歩いても苦じゃなくって、歩けるときはづっと歩いていた、その歩きが、全く、生産的な何かじゃなくって、1日を和やかに過ごすための、始末の悪い、音楽を忘れるための、副次的には、彼女を忘れるための、全てであった。
大江が、エクリチュールを描いたとき、セリーヌと、ヴァレリーを、そして、大江がクリティークを描いたとき、丸山眞男を、そして、渡辺一夫を、それらの、言語という意味に於いて、何か、遠ざかっていく、言論の持つ特質が、彼自身を縮小させ、小人化
、言論をするものの意義を持たせさせていく。
そして、次なる言論を、持たせる意味作用が、比較的深く、深淵なる淵に、言論で誘っていく。
その結集して、充ち満ちてく、課程が『小説のたくらみ、知のたのしみ』に出てくるのだ。
甘いカントリーマームを食べながら、その、エッセイを読み、大江にもう少し、西洋へのさざ波が強く感じられたら、と思うのだ。