美の免罪符
「レオン!!」
自分を呼ぶ声が遠くから響いたが、彼の相手は鬱陶しくて面倒臭く、そのまま無視した。地を駆けるうるさい音がしたから、無視は意味のないものだと学んだ。これからに役立てよう。
心底嬉しそうに寄ってきた彼は、小さい腕に抱かれた、更に小さい赤子を見せつけてくる。可愛いと言うには日頃の行いが悪すぎるので、無言を返す。すると、案の定彼は「キリストだよ」とうやうやしく目を細めたのである。
クレイジー。彼にも当てはまるが、己がそれを言うときは大体彼の母を指す。聖母マリアだか処女受胎だか騒いでいる狂った女だ。そもそも彼女の名前はマリアではなくアリアである。聞き間違えから始まり誤解とタイミングがそれはもう神的に一致したのだ。もう何も言うまい。
そもそもレオンは孤児で、聖母であることに酔っているとはいえ、売られるのを引き取ってくれたのには若干感謝している。レオンとて人間。情のひとつやふたつ、あったっていいじゃないか。
「キリストは目立つ。イエスにしろ」
「レオンはネーミングセンスないなぁ。キリストは女の子だよ」
もうその時点でおかしいだろうが。突っ込みたかったが、過去に突っ込んだことが頭をよぎる。彼はマリア信者で反抗しようものなら戸棚の包丁掴んでやってくる。トラウマになりそうだ。本当に。キリストであり女の子であり妹である赤子にそんなことはしないだろう。不安になってきたので滅多にしないが神へ祈りを捧げておく。
「イエスはキリストの本名だ。キリストは救世主という意味で名前ではない」
ぱたり、と名残惜しくも仕方なく本を閉じる。やけに分厚いこの本はマリアにねだって買ってもらったもので、裕福ではないので中古だ。少し黄ばんでいるが、気になるほどではない。己の言葉にうんうんと考えながら、腕の中の女の子を長らく見つめた。
「よし、決めた。ぼくが絶対かわいいなまえ思いついたから!!」
聞かせてみろ、と示すために顎を少し引いた。通じたようで、火照っている彼は興奮のため息を荒くさせ、自慢するように答えた。
「モナリザだ!!」
彼はバカなのだろうか。ふと頭をよぎる。かわいいかわいいと囃し立てるがそれは如何なものだろう。思わず天を仰ぎ見る。空は今日も青くて広くてコイツより余程素晴らしい。比較対象がおかしいのだろうか?そんなの気にすることではないが。
最早意義を申し立てる気力がないほど疲弊しているので勝手にしていろと告げて、本を開く。耳元に紅く形の整った唇を耳元に近づけて、彼__ヨハンは言った。聞こえていないフリをしてやり過ごす。彼が走り抜けた後は草がそよぎ風が歌う。彼はそういう能力を持ったヤツだった。はぁ、と溜め息をついて、本に目を移す。他の一切の音が遮断された。