鹿の首
練習用
鹿の首
昔々、まだ神が人と同じ言葉を発していた頃。東で最も高い、多々良山という山の奥のまた奥で、じっと佇んでいる一匹の巨大な鹿がいた。
美しい毛並み、大地を打ち鳴らす清らかな蹄。豊満な角に鋭い眼光。
鹿はこの森で最も強く、最も賢く、そして最も長くいき残っていた。森の動物は皆一様に、鹿を畏れ敬っていた。その雄姿に誰もが感服した。
しかし今回ばかりは少し様子が違った。光が薄く差し込む森の奥で、鹿はすっかり弱り果てていた。
見れば鹿の背中、一本の矢が深く突き刺さっている。ちょうど腹のあたりで、血が滲んで毛を汚している。
大きな瞳に宿る僅かな灯火は、小さく揺らぐ。腹の矢は臓物まで達していて、鹿の命はもう長くはない。それは誰が見ても明らかであった。
鹿はゆっくりと首をもたげて、それから腰を地面に下ろした。
まず鹿は後悔した。
好奇心に駆られて、狩人の前に姿を晒してしまった。年を食って、ある程度の知恵がつくと、どうにも好奇心が強くなっていけない。半端な知識と虚栄心は身を滅ぼすだろうからと、鹿はそんなものを持ち合わせてこなかったが、しかし、若かりし頃の危険と刺激に満ちた、充実した日々を、年老いて夢想するのは致し方がないことだろう。
天敵を突き殺したあの時の絶頂を、また味わいたいと、そう思ってしまった。
絶頂が苦痛となってしまったのだ。成功が失敗を呼んだのだ。知恵に裏切られたのだ。
全く、度し難い。
だがしかし、と鹿は続けて考える。私はなぜ死にたくないのだろう?
十分に生きた。皆から愛された。強敵に打ち勝った。子孫も残した。
これ以上何を求めるというのだ、死を恐れる必要などない。死への恐れは、虚無感が生み出すものだ。私は満たされている。後悔など必要ない。
私は素晴らしい鹿だ、と鹿は思った。
だから、簡単に鹿は死んだ。怠惰と妥協と諦念にまみれて、呆気なく死んだ。これ以上生きる理由はないと信じた。
さて、鹿が死んでわずか十数分のことだ。狩人が一人、鹿の前にやってきた。筋骨隆々の若き男で、背中には大きな弓を背負っている。ご察しの通り、鹿の腹の矢は彼のものである。
「こうして間近で見るとやはり、……美しい。なんて美しい鹿なんだ」
狩人はまじまじと倒れ伏した鹿を観察した。鹿は、自分が今まで狩ってきた獲物の中で間違いなく一番大きく、逞しかった。
死体が傷む前に、素早く解体を終えて、いざ帰ろうという時に問題は起きた。
鹿の体が大きすぎて、いっぺんに運ぶことができなかったのだ。
さて困った、と狩人はしばらくの逡巡の後、鹿を部位ごとに分けて持って帰ることにした。
鹿から目を離すのは不安ではあるが、背に腹は変えられない。
まずは前足、それから後ろ足、内臓、胴体と順に運んで行き、最後に頭部を運ぶ。不思議なことが起こったのがその道中である。
鹿の頭部を抱えて山を下っていると、三匹の黄金色の獅子が、狩人の前に姿を表した。
目と鼻の先にいる彼らを見て、狩人はすっかり仰天して、腰を抜かしてしまった。狩人の命運はここに尽きたりか……。
しかし獅子たちは、狩人が持つ大きな鹿の首を見て、驚愕の表情を浮かべた。それからすっかり怯えた様子で、獅子たちは一目散に逃げていった。
狩人はしばらく唖然としていたが、鹿の首を見て、なるほど得心がいった。
おそらくこの鹿、この森の主か何かなのだろう。その首を担いでいるわけだから、森の獣たちに恐れられるのは当然のことだろう。
狩人は上機嫌で帰宅し、改めて鹿の首を眺めた。大きな首だ、だがこの首には、おそらく見た目以上に大きな価値があるに違いないと狩人は考えた。
結論から言うと、狩人の推測は概ね当たっていた。首を持って森を歩けば、肉食獣は怯えて姿を晒さなくなり、また一部の獣は首に対し崇拝の意を示した。時折森の恵みを、狩人の前に献上してくるのだ。
狩人はすっかり気を良くした。獣たちが運んでくるもりのめぐみのおかげで狩に行く必要がなくなった。
「ははは、最高だ。ははは」
森の中央、深い闇が所々に伺える。狩人はそこでぐるぐると踊りまわった。鹿の首をひっ掴み、振り回す。
狩人の周りには、いつのまにか沢山の獣で溢れかえっていた。大小様々の獣たちが、じっと狩人の奇行を観察していた。
狩人はいつまでもここにいたいと思った。この森を、完全に支配したと感じた。
「次なる森の主は、この俺だ」
狩人は獣たちにそう宣言した。それから、鹿の首を放り投げた。もうこの首は必要ないと考えたからだ。
だが、それを見た獣たちの様子が一変した。狩人は何事かと目を見張る。
あるものは唸り、あるものは牙を剥いた。
狩人は急に恐ろしくなって、その場から逃げ出そうとした。だが、後ろから近づいていた羆に頭をかち割られて、その場に倒れ伏した。
それは一瞬で、鮮烈であった。狩人には困惑する暇も与えられなかった。
それから狩人は、他の獣によって捕食され、また元の静けさが蘇った。皆一様に、鹿の首に頭を垂れた。
森の獣たちは最初から、狩人のことなど眼中になかったのだ。首だけになった鹿を、いつも通り崇め、森の恵みの一部を献上しただけだった。
今になってようやく、鹿の首にぶら下がっている害虫に気づき、駆除した。先ほどの出来事は、ただそれだけが理由だ。
やがて、狩人に放られていた鹿の首の周りに、森の恵みが集まった。獣たちは役目を終えて解散する。
狩人の姿は、まるではじめからそうであった化のように消え失せていた。
かの鹿は偉大なり
死してなお、その威光は健在である。