blend
珈琲に纏わる物語を語りましょう。
珈琲は様々なドラマを演出する小道具として使われます。
それは、香り、酸味、苦みといった感覚が、ある感情を呼び起こすからかもしれません。
本日はちょっと趣向を変えてみました。
私は英国はロンドンの郊外に居を構える貴族の生まれで、
厳格な父と優しい母のもとで、厳しく育てられた。
貴族とはいっても、王位継承権は下位から数えた方が早く、
とても貴族として裕福とはいえなかった。
それでも父は、家柄への拘りが強く、私は幼いころから家庭教師付きで、
所謂英才教育を強いられ、自由という言葉の意味を知らなかった。
その一方で母はとても優しかった。日系のハーフであった彼女は、
日本の文化をいろいろと教えてくれたのを覚えている。
特に、「折り紙」の美しさに幼心に感銘を受けたことを明確に覚えている。
1枚の紙が様々な動物や乗り物に変化していく様が面白く、不思議に思えた。
一番のお気に入りは、「紙飛行機」だった。
単純な三角形と平坦な翼で、飛行機と呼ぶにはあまりにもお粗末な形状だが、
母の折った紙飛行機は、穏やかな風に乗り、どこまでもいつまでも飛んでいた。
紙飛行機が飛ぶ様を眺めているとき、自分の心が解放された気分になれた。
思春期を迎えるころになっても、父は変わらず厳格であり、
私はそのプライドに固執する父が煩わしくなっていた。
確かに、家柄を守っていくことも大切なことなのだろうが、
将来、自分も父のように、もやは現実的な力のない没落貴族として、
それでもなお、家名に固執する人間となっていくのか。
それは、恐怖として自分の心を侵食していった。
私はそのころすでに、ある程度の資産を分け与えられており、
その気になれば家を出ることができる状態だった。
家を出るということは、家名を捨てるということだ。
なんの庇護もなく、1人で生きていく勇気と、
家名に縛り付けられた牢獄で一生を終える覚悟。
それらを天秤にかけた結果、家名を捨てるという選択を選んだ。
父は当然反対し、激怒したが、もはや恐怖は感じられなかった。
私は英国から追い出されるかのように、新大陸へ向かう船に乗った。
アメリカにある某芸術と歴史が専門の大学の入学が決まっていた。
自由の国で学び、スミソニアンのキュレータになることが当時の夢だった。
私は、母から教わった紙飛行機が好きで、空を舞うものの美しさに惹かれていた。
その母を泣かせてしまったことだけが心残りであったが、
空とそこを舞い泳ぐ鳥、ヒトが創りだした美しい翼を持った機械。
霧と雲に覆われたロンドンではなく、
どこまでも続く青空を求め、新天地へと向かった。
そのときはまだ、希望と冒険心に溢れていたと思う。
いまではもう、その時の気持ちは忘れてしまった。
大学では、独りでいることが多かった。
友人は指で数えられる程度であり、自分のアパートに呼ぶほど仲が良くはなかった。
彼らが私に付けたアダ名は、“English man”。
性格は頑固で思考も固く、騒々しさを嫌い、なにより珈琲が飲めない。
上手い表現だと思った。
友人たちは茶化した体で、私をそう呼んだが、悪い気はしなかった。
宗教的な価値観の違いで争うことなく、
異国人ではあるが、私個人に対しての彼らの印象がソレだったからだ。
“English man”と呼ばれるようになってから、
緊張が解れたかのように社交的な性格に変化していった。
不思議なものだ。これが、この国に異国人が集まってくる理由なのかもしれない。
そんな話を友人と交わしたが、
それこそが“English man”らしい考え方だ、と笑わられた。
大学では芸術分野の歴史や思想、それらを専門としていた。
自分で作品を創るほど、自分の感性に自信はなかった。
目標がキュレータなので、実習はリペアなどが中心だった。
長期の休みのときは、独りスミソニアンミュージアムまで足を運び、
そこで長い時間を過ごした。
特に、D.C.ダレス国際空港に併設されている航空宇宙ミュージアム別館の
巨大なハンガーに訪問した回数は数えられないほどだ。
漆黒の怪鳥 SR-71
異形の白い翼 X-29
純白の巨体 SST
どれも、一つの目的のために創られた機能美に溢れていた。
特にSSTは、母の折ってくれた紙飛行機を思い出す。そんな形状だ。
かといって、望郷に思いを馳せることはなかった。
大学では空いた時間を独りで過ごすことが多かった。
穏やかな日は、空を眺めていることが多く、学内でも人の少ない場所を見つけては、
手慰みに折った紙飛行機を飛ばしていた。
母の折った紙飛行機は、とても長い時間飛んでいることができたが、
私の折った紙飛行機は、すぐに落ちてしまう。
なにが原因なのかわからなかったが、折り紙の世界というものも、
深いところがあるのだろうな、と考えていた。
ある日、私が飛ばした紙飛行機を拾ってくれた女性がいた。
彼女は手にした紙飛行機に手を加えながら、
ベンチに座る私の隣に腰を下ろした。
「あなたがMr“Sting”
そんなふうに呼ばれることはないね、と答えながらも、
私の紙飛行機を弄る彼女の指先から目が離せなかった。
「だって、珈琲が飲めない“English man in U.S.”でしょ
あぁ、そうかもね。
そう答えつつ、彼女を観察する。
生粋の白人ではなく、アラブ系のようだ。
「ちょっとついてきて
彼女は私の紙飛行機を空に優しく投げると、
私の手首をつかみ、強引に立ち上がらせた。
背の高さは私の胸のあたりくらいで、華奢な印象を受けたが、
手首を掴む力と腕を引く力は、非常に強かった。
私は彼女に腕を引かれながら、大学の外へ連れ出された。
振り返ると、彼女の投げた紙飛行機は、上手く風に乗り、
いつまでも飛び続けていた。
彼女のやや左後ろを歩いていた。
お互いにあらためて自己紹介をするわけでもなく、
一方的に話かけてくる彼女に、曖昧な返答を返す。
彼女の故郷はアラブ方面の小国で、実家が珈琲農園を営んでいるらしい。
物心ついたころから、珈琲がある生活をしていたので、
珈琲を飲めない人の話を聞いてみたかった、とのこと。
私は別に珈琲を毛嫌いしているわけではないのだが、
彼女にとって、学内でも噂になっているらしい“English man”には、
直接聞いてみたいことがあった、とのことだった。
彼女に連れてこられた場所は、ありきたりなドライブインレストランだった。
『closed』の札が扉に架かっていたが、鍵は開いていたようで、
彼女はその札を無視して私を店内に迎い入れると、カウンター席に座らせ、
自分はカウンター内に入った。
彼女は手から肘にかけて丁寧に石鹸で洗いながら、
ここで自分はアルバイトをしているのだということを教えてくれた。
ホールスタッフとしても働くが、メインは珈琲豆の焙煎からドリップ、
そしてサービスまで彼女が担当しているらしい。
今日はマスタが留守にしているため、貸切で珈琲の楽しさを知ってほしい、とのこと。
大げさな話だな、と思ったが、珈琲の話をする時の彼女の眼は真剣で、
琥珀のような輝きを持っていた。
彼女は湯を沸かしつつ、手際よく準備を整えていった。
その間は、珈琲以外の話をしていた。
お互いに楽しいと思うこと。それが話題の中心だった。
不思議と会話が弾む。自分の好きな事であれば、確かに口数は多くなるからだろう。
彼女は自分自身でブレンドした珈琲を飲んで喜んでもらうことが一番幸せであり、
付き合っている彼の笑顔を眺めながら、
彼の夢を聞くことが二つ目の楽しい時間だと照れながら言っていた。
彼女の用意した道具は、所謂『ネルドリップ』方式だ。
珈琲を飲めなくても、知識としては知っていた。
豆をミルで挽いたときに、ほのかに果実のような爽やかな香りがした。
彼女は一呼吸おいて、ドリップを始める。
それは神聖な儀式のように、黙して行われた。
私も静かに儀式の終わりを待つ。
車通りは少なくないはずなのに、
彼女の儀式の最中は、まるで刻が止まったかのような静寂が訪れた。
この世界には、彼女と私しかいない。この香りの世界ではそんな雰囲気を感じていた。
やがて、彼女の儀式が終わり、私の目の前にカップ&ソーサが音を立てずに置かれる。
彼女はなにも言わない。
私は右手にカップを持ち、左手でソーサをカップに添えつつ、
彼女の瞳よりも濃い琥珀色の液体に口を付けた。
初めて口にしたその液体は、確かに苦味を強く感じたが、すぐに爽やかな酸味に変化した。
それは柑橘系の酸味に似て、紅茶に似てはいるが、それとは違う爽やかさだった。
再び口にすると、一口目よりも苦味はマイルドに感じ、より強く酸味を感じるように
変化していた。
二口目以降はその爽やかな酸味のなかに、わずかな甘味を感じるようになり、
時折感じる苦味がアクセントのように働き、香りと合わせて、心地良い気分になった。
気が付いたときには、カップの中の液体を干していた。
初めて飲んだ珈琲は、正直に美味しいと感じた。
また、なんとなく懐かしさを感じたのは、遺伝子の記憶だろうか。
顔をあげると、彼女の笑顔があった。
彼女に礼を言い、もう1杯頼んだが、彼女は豆を手ごろな袋に入れつつ、
2杯目を淹れることはなかった。
「空が好き
唐突に彼女が聞いてきた。
「貴方は空が好き。空の高さは知っていても、
その外に広がる漆黒のソラの広がりがどこまであるのかは知らない。
人はまだ、海の深さがどこまであるのかも知らない。
珈琲も同じ。
今日飲んだ味の珈琲が、明日も飲めるとは限らない。
それほど珈琲の世界も深いんだよ。
その時は、彼女の言っていることが半分も理解できなかった。
それから、彼女は大学に退学届を出しており、本日付けで辞めたことを知った。
彼女は、
「ここでやるべきことはやったし、夢も叶ったから
と。
故郷に帰るわけではなく、この大陸を流れながら、珈琲を通じて人と触れ合い、
珈琲での世界征服が本当の夢だ、と語った。
壮大な夢だね、と答えたが、
彼女の瞳には、その夢を現実ものとして実現できそうな力強さを感じた。
私は、彼女には付き合っている彼がいることを思い出し、彼のことをどうするのか聞いた。
「彼は私が彼に伝えた夢を叶えてくれる。
彼は成功するだろうけど、そのあと、私は彼の足枷になるわけにはいかないから
彼と別れることは辛くないか、と聞いたら、辛くはないと答えた。
「別れのかたちはいろいろだけど、彼の顔はきっといつでも見られるから辛くはない。
別れは生きていくためのルールの一つ、ほんの少し悲しいけどね。
私はそれ以上彼女に伝えたい言葉を持っていなかった。
彼女はしっかりとした自分の信念を持った強い人だと思ったし、
彼女と知り合えたことが、なんとなく誇らしく思えた。
彼女が片づけを終えると、一緒に店を出た。
彼女は手にした珈琲豆の入った袋を私に渡し、
「またね Mr“English man”
と言い、
私は袋を受け取りながら、
「またな Miss“LionHeart”
と最後の言葉を交わした。
私たちは結局、お互いの本名を知らず、アダ名で別れを告げた。
彼女のアダ名は、私が咄嗟に口から出た言葉だ。
我ながら、彼女を上手く言い表した言葉だと思う。
そして、お互いに守ることはできないであろう“see you”という優しい嘘。
彼女は不思議な存在で、その日は夢を見ていたような気分が帰宅しても続いていた。
ただ、彼女が存在していたことだけは、
手にした彼女のブレンドした珈琲豆の入っている袋が証明してくれる。
その日の空は、雲一つなく、
彼女が投げた紙飛行機は、未だ空を舞っていると思えるほど澄んだ青色だった。
私はソファから転げ落ちて目を覚ました。
仕事に煮詰まってソファで仮眠をするつもりだったが、眠りこんでしまったらしい。
目の前のノートPCは、スタンバイモードになっていた。
あの日のことをあんなに鮮明な夢として追体験することは、最近あまりなかった。
私はケトルに水を入れ、コンロにかけ、ガスの炎をつけた。
湯が沸くまでの間に、ペーパードリップのための準備をする。
私は、あの日から様々な珈琲を飲み、彼女と同じ珈琲の世界に足を踏み入れた。
同じ味は一つとしてなかったし、学ぶことも多かった。
珈琲を飲むときは、左手でソーサを添える必要もないことも知った。
大学を卒業した私は、キュレータになることは叶わなかった。
私の感性は、自ら芸術品に触れられるほど絵画などに縁ってはおらず、
むしろ言葉を連ねる方面に向いていた。
自然と、作品について、その魅力を言葉を通じて伝える仕事に就いた。
芸術方面が専門の新聞記者だ。
他人と接することが苦手な芸術家が多いなかで、私は珈琲を淹れ、
彼らの緊張を解し、笑顔にさせることで、程良い人間関係を構築することに長けていた。
その程度には珈琲に詳しくなったつもりだ。
しかし、あのとき彼女が手渡してくれた彼女が私のためにブレンドした珈琲を
超える珈琲には未だ出会っていない。
もうすでに消費してしまったが、
私にとっては大切な大学生活の記念品として、袋だけ大切にしまってある。
その袋には、彼女の直筆でブレンド名と彼女のサインが書かれてある。
“My Blend for My Friend”
湯がわいたようだ。
それでは静寂なる神聖な儀式を始めよう。
ドリップを行うときは、集中するためなのか、どんな場所でも独りの時間が訪れる。
静寂の刻、湯の温かみ、空間を満たす香り、琥珀の液体
時折、三角形の白い物体が見えるときがある。
私は未だ、紙飛行機を上手く飛ばせない。