第6話 藤浦剛という男 前編
後書きに格闘家や武術家の名言を載せていきたいと思っているんだけど、名言のストックがあまりないので、話にあった名言を小出しにしていこうかな、とか考えている。
祖父が負ける所を、一度だけ見たことがある。それまで私の中で、祖父と言う存在は絶対の頂上に君臨するものだった。だから、祖父がまるで赤子のようにあしらわれる光景は、異常だった。
白畑流合気柔術の最高師範、白畑十三。日本武道最後の達人と呼ばれ、白畑流合気柔術の開祖である。祖父が晩年まで勝つことのできなかった、唯一の人物だ。
彼に負けたとき、祖父は子供のように笑っていた。私や弟子の前では、いやそれどころか祖母の前でさえ笑うことのなかった祖父が、自分が負けて笑ったのである。それが、何故か無性に悔しかったのを覚えている。
私はすぐさま白畑師範に勝負を申し込んだ。私が十一歳の時である。すでに同年代はおろか大人でさえも練習相手にもならず、様々な道場の師範と稽古をしていた。空手や柔道だけでは飽き足らず、中国拳法にムエタイ、ボクシングにも手を出した。負けるはずが無かった。小学五年生の私と同じくらいの身長、祖父が負けたことも悪い夢なんじゃないかと思った。
しかし、いざ向かい合うと、足が竦んだ。
隙が無い。ただ立っているだけで、彼はまるで聳え立つ要塞のようだった。そして殺すことも厭わないという威圧感。それ程の実力差がありながらも、私は前に踏み込んだ。上段への回し蹴り。完璧だった。当時の私が持ちうる最大の攻撃。自分の右足が、老いた老人のこめかみに吸い込まれていく。
しかし、私の渾身の一撃は空を切る。風景が一回転して、気が付いた時には、私は仰向けで倒れこんでいた。
私は初めて、合気というものを知ったのだった。
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「出来ることならありますよ」
異世界から来た青年の言葉に、馬車に乗っていた八人は皆、「何を言っているんだ」という顔をした。
この世界には、ステータスと言うものがある。そこでは年齢や性別はもちろん、戦闘力やその他の技術も事細かに記される。たとえば、料理。家庭料理程度でレベル1、プロになるとレベル3ほどだ。他にも、手芸、舞踊、歌唱など、全てにおいてジャンル分けされ、レベルを付けられる。つまるところ、無職で、自身がレベル1で、何のスキルも無いフジウラという男に、出来ることなど皆無なのだ。
それは、彼がこの世界に来た時から、皆が知っている事実。つまり彼の発言は、我が身を守らんとする、苦し紛れの言い訳に過ぎなかった。
「安心したまえ、フジウラ」口を開いたのはエルナ王女だった。「私は貴殿を殺そうとは思っていない」
馬車を操っているアーべライン子爵以外、異論は無いようだった。そのアーべラインも、主に対してこれ以上口を挟む気も無いように見える。
異世界から呼び出した彼を、保護するということで纏まりつつあった馬車内の空気を、当人がぶち壊すとは、誰も思っていなかった。
「私はこれでも腕には自信がありましてね、ボディーガードには使えると思います」
最初に反応したのは、イグナーツだった。
「おい小僧。嘘は言っちゃいけないな」
赤い髪の男イグナーツは、魔道具職人である。古くから伝わる文献をもとに、異世界から勇者を召喚する魔法陣を、長い歳月を掛けて作成した。いつも漂々として感情を表に出さないが、今回の一件は流石に堪えている。
「嘘じゃありませんよ。なんなら、彼と立ち合ってもいい」
そう言って、フジウラは人差し指を、あろうことかディルクに向けた。
「君がこの中で一番強い。そうだろう?」
「確かに。しかし貴様がこの俺と戦えるはずがない」
「それは、やってみないと分からないんじゃない?」
なぜ、この男はこんなにも自信があるのか、それがディルクには分からなかった。レベルの差、ステータスの差がはっきりと違うのだ。やってみないと分からない訳がないのである。
しかし、異世界の人間と言う、理から外れた存在に、ディルクは得体のしれない何かを感じ取った。
「いいだろう。そこまで言うのなら」
「おいディルク、むきになることはないだろ。お前はレベル80以上、そいつは1だ。結果は目に見えてる」
フジウラは馬車の扉を勝手に開け、外に飛び降りた。
「馬車を止めなさい」
全員が馬車を降りると、先に飛び出ていた黒髪の青年は、曲がった剣を持って立っていた。
「さあ、はじめましょう。どこからでもかかってきなさい」
それを見てロングソードを抜き去るディルクに、エルナが釘を刺した。
「ディルク、フジウラに怪我をさせなように」
「分かりました」
ディルクと言う男は、幼少の頃よりエルナの身を守るために訓練してきた、近衛騎士のエリートである。基本魔法に縁は無かったが、身体強化に長け、剣の腕は国内でもトップクラス。レベル1がどうあがいても勝てぬ相手であった。
しかし、そんな事など知らぬフジウラは、穏やかな微笑みを浮かべている。まるで一度も喧嘩したことのないような風貌だ。
ディルクは剣を構えた。
「どうした。貴様は剣を抜かないのか」
「いえ」
反り返った刀を地面に置き、彼は言った。
「この方が、私の力を認めていただけるかと思いまして」
「なんだと?」
ふざけてるのか? 戦力差が余りにもみえすぎている、しかも武器を持たぬ相手に圧勝したところで、騎士としてのプライドに傷がつく。
「貴様が武器を取らぬというのなら、私も同じように剣を置こう」
「一向に構いませんよ。ただ、それで私の実力が測れるかどうかは、分りかねますが」
「なめられたものだな」
開戦はいきなりだった。
身体強化魔法をかけ、目にも止まらぬ速さで間合いを詰める。圧倒的強さで、一瞬で決着するつもりだった。
右手を引き、反応できていない彼の顔面目掛けて拳を突き出――。
「がっ」
激痛、そして一瞬の浮遊感。景色が一回転し、気がつけば数メートル離れた所で倒れていた。
「なるほど」彼はその場で平然とこちらを見つめる。「すごい馬力だ。一国の王女を守る騎士だけある」
ディルクはすぐに立ち上がった。魔法ではない。ただ、得体の知れない何かで投げられた。無論、本気で殴りつける気はさらさらなく、寸止めでやめるつもりだったのだが、いつの間にか体の平衡感覚を失っていた。
恐怖に近い感情が、自分の中を渦巻くのが分かる。
他の七人も、何が起こったのか分かっていない様子だった。
「今度は剣をもってもいいですよ?」
「……っ」
一瞬で後ろへ回り込み、後頭部へ蹴りを出すと、黒髪の姿が掻き消え、ディルクの体は前につんのめる。なんとか体制を立て直そうとした瞬間、再び地面に倒され、首筋にディルクの剣が突き立っていた。
「双方そこまで!」
エルナの、どこか弾んだ声が掛かる。
勝負は、誰の目にも明らかに決着していた。
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「双方そこまで!」
私は正直驚いていた。彼のスピードや、鋭い拳は、未だかつて体感したことのないレベルだった。
異世界という未知の領域、レベルやステータスという未知の力。元居た世界では考えられないほど高い身体能力に、恐怖を抱かざるを得なかった。
ディルクという男、ウェイトの上では私と大差なく、技術も特別高いわけでもない。確実に勝てるという算段があった。
しかし、彼の体格では考えられないほどの加速で間合いを詰められ、対応が遅れてしまった。
彼が少しでも身体操作の心得があれば、私は負けていただろう。
今までの常識で、この世界を見ては、足元を掬われることになるな。
「フジウラ! すごいじゃないか!」
エルナ王女がキラキラした目をして、こちらに駆けてきた。
「何をしたのだ? ディルクはこれでも私の近衛騎士だ。間違ってもレベル1の貴殿に負けるということはありえんのだが」
「いえ、確かに彼の能力には目を瞠るものがありました。ただ、いかんせんそれに頼り過ぎている点がありましたね。技術がなさすぎる」
「そう……ディルク、大丈夫か?」
「問題ありません」
ディルクは悔しいという感情を必死に隠して立ち上がった。残念ながら、バレバレだ。
「フジウラ。貴殿の実力を推し量るには、ディルクは十分な存在だ。ただ、いかんせん我々の常識では、今の状況が理解できない。貴殿の話を聞かせてはくれぬか――」
――元の世界の話だ。
「合気道に形はない。形はなく、全て魂の学びである」
合気道創始者 植芝盛平