さよならのトロイメライ
二人で済ませるはずだった簡単な夕食は彼女の手(策略か?)によって三人による豪華な食事会をする運びとなった。
「今日はごちそそうさま。久々にすごい楽しめたよ。」
「いや、こちらこそ。」
「それにしても、転校してきたばかりのあの子と一緒に暮らしているだなんて思いもしなかったよ。」
「ああ…うん。」
いいや、それは私もだけど…。
これ以上誤解を招くわけにもいかなかったので、私はこれ以上の弁解はやめておいた。
まさか今日がこんな一日になるだなんて、思いもしなかった。
そういえば…。
彼女と今日出会う前に起きたあの出来事…。
「どこかでさ…鐘の音が聞こえたことってないか?」
いつも屋上で耳にする鐘の音。
あれはどこから聞こえてくるのだろうか
それを聞くと、なぜか彼女はふっと優しい笑みを浮かべたあとに
「鐘の音か…、私は聞いたことがないのだけど…そうだね。」
「もしその音が聞こえたなら、その後を追えばいいのかも。
音を辿れば何かに行き着くはずさ…。きっと、発見があるのかもね。」
「あ、ああ。」
なぜだろうか、嬉しそうな、けれどどこか悲しそうな笑顔。
彼女が少し怖いように見えたのは気のせいだったのだろうか。
「それでは今日はこれで。」
「うん、また。」
なぜだろうか。
彼女と別れたその時…。
「!!」
鐘の音が聞こえた気がした。
手元に探るとそこにはあの古ぼけた懐中時計があった。
あれ…?今のってこれから出た音なのか…?
雑然としない気持ちを抱いたまま、私は今日の一日を終わらせた。
こういった騒がしい毎日も、意外と居心地としては悪くないものだとそう考えるようになってきたある日
幼馴染の片桐とミステリアスめいた雰囲気の新堂、そして同棲を始めた七瀬たちと知り合ってからサボりがちだった授業も、最近では最後まで受けるようになっていた。
そして現在。
もう屋上にいく機会はめっきり減っている。
あの場所は
あの空間は自分の世界ではなかったのだ。
ただの屋上
そう、ただの身体を自由に休めるための場だったに違いない。
放課後。
「あれ…珍しいな。」
いつもは一緒に帰りましょうと声を掛けてくる片桐と七瀬がいない
辺りはすでに夕日がかっており、教室を静かな空間へと包みこんでいた。
「たまには行ってみるか…。」
私は今一人であるからか、ふっと肩が軽くなった感覚から屋上へ向かうことにする。
誰かいるのかもしれない。
そんな願望めいた考えを抱きつつ、階段を昇っていったのだが…。
「やっぱりいないか。」
案の定、そこは無人でただ寂しそうに吹く風の音が聞こえるだけだった。
「帰るか。」
そう思って踵を返そうとしたその時、再び鐘の音が聞こえた。
しかもその音は外から聞こえてくるのではなく、まるで自分の内側から響いてくるような…。
どこからだろう…。
感覚を研ぎ澄ませる、というよりは何かを思い出すようにしてその音の在りかを探る。
そこは自分がいる屋上の下、音楽室からか…。
何かに急かされるようにして、私はそこへ急いだ。
扉を開くとそこにいたのはオレンジの夕日を背に調律を奏でる一人の少女。
一瞬ピアノの鍵盤を叩いて演奏する彼女が夢の中の天使に見えたけれども、実際にいたのは背に夕日を浴びながらピアノを奏でていた友人新堂の姿だった。
彼女は私が来たことに気付いていないのか、ピアノに両手を置いて曲を奏でていた。
……。
彼女の奏でる音の旋律は美しくありながらも、音の一つ一つに感情が込められているような気がした。
その音には、どんな感情が込められているのだろうか。
もちろん、そんなことは私には分からないのだけど…。
けれど、あえて例えるなら…青。
私にはその音色が青色、儚げでありながらも透き通るような美しさを感じた。
彼女の演奏が終わる。
「聞いていたんだね。」
「うん。ピアノ、上手いんだね。」
「ふふっ、ありがとう。そうか…もう私の曲が聞こえるんだ。」
「もう…?」
彼女の放つ言葉に疑問を浮かべる。
「いや…ごめん。何でもないの。」
ごまかすように笑みを浮かべる新堂。
「そうだ。せっかく来てくれたのだし一曲、サービスをしよう。」
「う~ん…」
その気持ちは純粋に嬉しいのだけど、あまりピアノの曲は分からない。
それじゃあ…。
私はそう言って、音楽室全体をオレンジに包み上げている夕日を指差す。
あの夕日に合うようなうってつけの曲を
夕日かあ、それだったら
彼女は演奏を始めた。
彼女とピアノによって始まる静かな旋律、けれどその旋律には情動があった。
ロベルト・シューマンの「トロイメライ」
厳かでありながらも、その曲には悲しみや楽しみ、あらゆる感情がそこには込められているようだった。
私は夕日を身ながら彼女の演奏を最後まで聞き終え、拍手をした。
しかし…。
再び視線を戻すと、そこに彼女はいなかった。
「新堂…?」
あの時と同じだ…。
最初からそこにいなかったかのように彼女もまたどこかへと消えてしまう。
ただ、彼女のいた席には黒いビロードのようなものが広がっていた。
その日は学校中で彼女を探したものの、その姿を見ることはできなかった。