穴
うだるような暑さの中、背負ったバックパックのせいで余計に汗をかいた背中を気にしつつ私はアパートの鍵を探した。アパートの最奥、誰も通りかからないのは明白なのにもかかわらず、汗染みが出来ているであろう背中を隠すようにしつつバックパックのポケットの中へと手を入れる。
おなじポケットへ入れている煙草の箱を押しのけ、私の右手は鍵束へと到達した。
それを差し込むと、玄関の扉はいつものようにガチャリと事務的な反応を返す。
靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、バックパックを下ろしてからシャツを脱ぎ洗濯籠へと放り込む。さっさとシャワーを浴びてしまおう。それにしても今日は特に日差しが強かった。大学の構内にいる間はエアコンのかかった部屋から部屋へと移動するだけなので問題ないのだが、自転車で帰っているとアスファルトからのぼる熱気を全身に浴びざるを得ない。もっと近くへ引っ越すべきだろうか。
そんなことを想いながら私はふと、壁の方を見た。
そこには大きな穴が開いていた。
私は一瞬、それが何なのかわからなかった。
遅れて半裸の自分を思いだし、しかしこの穴の“向こうがない”ことに気づき、隠したり、穴の前から飛び退くことを忘れてそれをのぞき見てしまった。
不思議な穴だった。
まるで奈落のように真暗だ。
手を伸ばしかけて、躊躇する。これはどこへと通じる穴なのだろう。
隣の部屋との壁はとても薄く、毎日のように流しに水が落ちる音が聞こえてくるほどだったのにもかかわらず、この壁に開いた穴は隣へは通じていない。
ただただ真暗に、ぽかんとその口を開けているだけだ。
それはちょうど1Kの部屋に置かれた私のベッドのわずか上。寝転がってもそのまま落ちる心配をしなくてもいい位置にあった。大きさは、バスケットボールよりも少し大きいくらいだ。両掌を並べて目一杯広げたままでも差し込めるだろう。
私は未だに半裸のままであることも気にせず、思考を巡らせた。管理会社へ連絡を入れるべきなのだろうか。しかし今はもう夜。こんな時間に突然連絡をして、それですぐに修理とはいかないだろう。
それに何より、この穴がよくわからない。隣へ貫通しているわけではなく、むしろ黒いインクを円形にぶちまけたと言った方が的確であるようにも思えた。しかし、穴なのだ。それは確実にぽっかりと開いている。
私はとりあえず、汗が渇いて来た体を見下ろしてシャワーを浴びることにした。
*
結局、管理会社へは連絡することが出来なかった。
試しにと、ボールペンを差し込んでみるとそれは音もなく落ちていった。余計に謎が深まるばかりで、私にはどうするべきかの判断がつかなかった。
誰に相談すべきかもわからない。とりあえず、明日大学で友人に相談すべきなのだろうか。
私はそう思い、今日のところは穴を無視して寝てしまうことにした。
リモコンで明かりを消し、ベッドに横になってから真暗の部屋の中でもさらに真暗な穴を見上げる。
もし万が一、私の寝相が破滅的に悪かったとしても、この位置なら大丈夫だろう。
そう思うとほんの少し自分とは関係のないことのようで、しかし確実に自分の部屋へと起きてしまった出来事であるので、やはりどうしたものかと頭をわずかに悩ませながら瞼を閉じた。
*
翌日、大学の友人にそのことを話そうかと思って、ためらってしまった。
こんな荒唐無稽な話をして、精神の異常を疑われたらどうしようかと思ったのだ。そして同時に、私自身あれは幻か何かだったのではないかと思い始めていた。
家を出発してから四時間ほどたった昼休み。友人と合流して食堂で食事をとるが、しかしその話題を出すには至らない。朝起きた時はまだそれはぽっかりと口を開いていた。確かに開いていたはずなのに、本当に? という疑問がどこかから音もなく湧いてくる。あれは本当に幻ではなかった?
私はその日結局、『穴』というワードを口にすることはなかった。
心のなかで何か霞がかかったように納得がいかない。
自分が信用できない。五限の授業を終えて家へ帰る前に一度ドラッグストアに立ち寄って目薬を購入した。それをアパートの前でおもむろに開封し、そしてさっと手早く両目に落とした後で私は自室への階段を上り始める。玄関の前でまたバックパックの中を探り、鍵束を見つけて差し込む。
玄関の扉はいつものようにガチャリと事務的な反応を返す。
内心、少しドキドキしていた。穴は開いているだろうか。流しの三角コーナーに一匹、こばえがたかっているのを横目に見ながら、私は部屋を奥へと進む。
穴は確かに、奈落のように真暗と開いていた。
私はそのことに得も言われぬ安心を感じながら、しかしどうしたものかという再び起こった悩みを抱え、とりあえずシャワーを浴びることにした。
温めのシャワーを浴びながら、私は考える。あれは幻ではないだろう。しかし、ひどく現実味に欠けた摩訶不思議な物体であることもまた違いない。
そこまで考えた時、とっさにあれが心霊的な何かなのではないかという仮説が起こった。いつか友人と一緒に見に行ったホラー映画のように、もしかしたらあの中から『何か』が這い出てくるのではないか。
気付けばシャワーを止めていた。
そして耳をすませる。扉の向こうで動く気配はないか、何者かが地面を這うような音は聞こえてこないか。
結論から言うと、そんなものは聞こえてこなかった。しかし急に、風呂場の床につけた自分の足の裏がムズムズとしだして、そのまま全身がそわそわと落ち着かなくなり、急いで泡を流して風呂場を飛び出した。
それでもやはりそこには何もいなくて、ただ一匹のこばえがふよふよと飛んでいるばかりだった。
*
何もおかしなことはない。
何かが出てくることはない。
私は暗闇の中の真暗な穴を見上げつつ、今日も眠りにつこうとしていた。具体的な解決策は見当たらないままだ。ただ見て見ぬふりを続け、今日も意識を手放そうとしている。昨日とまったく同じだ。しかし今日は昨日とは違うのでないだろうかと不安になる。今朝は問題なく起きることが出来たが、しかし今日も同じとは限らないのではないだろうか。
私が眠っている間に何かが這い出てきて、そしてちょうど這い出てきたところには私がのんきに眠っているのだとしたら。手を伸ばせばすぐに私ごときの首を締め上げることが出来るだろう。いや、それが必ずしも人の形を取っているとは限らない。もしかしたら見たこともないようなおぞましい異形の姿をしていて、その大きな牙をもって私を食い殺してしまうのではないだろうか。
考え出すと眠れなくなった。
私の目はすっかりとさえてしまい、明かりをつけなおしてベッドから体を起こし、座椅子にすわってその穴を真正面に見定めた。
何度見ても、明かりがついていてもいなくても、それは奈落のように真暗だ。
*
……いつの間に眠っていたのだろう。軋む身体をさすりながら私は時計を見る。十時を少し回ったところだった。遅刻だ、と思いかけて今日は授業を入れていなかったことを思いだす。いわゆる定休日という奴だった。昨日はすっかり忘れていたが、この日は締め切りの近いレポートを仕上げてしまうつもりだったのだ。
私は頭をかきつつ、立ち上がる。正面にはやはり、穴が開いていた。
何の変哲もない。初めてこれを見た時から寸分たがわない、広がりもしなければ縮んでもいない。バスケットボールよりもわずかに大きいだけの穴。
冷静に考えると、この大きさの穴を人間や異形の姿をした、私を脅かしうるものが通り抜けることが出来るだろうか? そう思うと途端に昨日の私がくだらなく思え、扇風機をつけてパソコンを立ち上げた。
学期末レポートの期日は数日後へと迫っていた。それまでに私は3000字を埋めなければならない。私はその場に投げ出されたバックパックの中から図書館で借りてきた資料を取り出し、ちらちらとそれを眺めながらレポートを書き始めた。
*
しかし昼間には何ともなかったものが夜になると途端に気になり始める。
沈殿していた不安が何かに熱せられて舞い上がり、私の中をぐるぐると対流しているようだった。
夕食の材料を買って帰ってきた時も、シャワーを浴びて出てきても、その穴は変わらず奈落のような真暗を保ったまま私の部屋の壁の一面に浮かんでいる。いっそのこと手を差し込んでみようかと思い、しかし私にそんな度胸があるわけもなくただただ見つめるばかりで何も変わらない。
明日は授業がある。今日のように眠らないわけにはいかない。特に明日の一限目には授業内でテストが実施されることになっていた。これを受けなければ私の単位取得は絶望的になる。万が一にも寝坊は許されない。
私は夕食の材料と一緒に買ってきて置いたビールの栓を開けた。
グラスに移してそれを流し込むと、胃の中に金色がたまっていくのが実感できた。そして同時に私の思考は鈍っていき、瞼が重くなってくる。いい傾向だ。私はそのまま明かりを消し、ベッドの中へもぐりこんで……
そこで何やら声のようなものが聞こえてきた気がした。
遠のきかけていた意識は引き戻され、酔いもさめる。
上体だけ起こし、ずりずりとベッドの端へとその体勢のまま後退った。とうとう何かが出てくるのか。気づくとがちがちと歯は鳴っていて、心臓は早鐘をうつよう。半端にアルコールを入れたのが悪かったのだろう。ぐるぐると私のあたまの中は定まらないままで、目が回っているように気持ちが悪くなる。
とっさにトイレへと駆けた。
後ろ手に鍵もかけ、そして便器の中にぶちまける。酒で吐き出すなんていつ振りだろうか、えづき、目の端に涙を浮かべながら私はそんな関係のないことを考えて気を紛らわせる。レバーを倒すと自分でもびっくりするくらいの大音量で水が流れた。
そろっと鍵を開け、トイレの扉を開いた。
あの声は何だったのだろう。ようやく冷静になってきた心で私は考える。
その答えは至極簡単に見つかった。隣だ。
隣に誰かが遊びに来ていて、その会話が壁越しに聞こえていただけだったのだ。
*
テスト終了の合図とともに私はペンを置いた。
結局、昨日はそのまま酒を飲み直し眠るに至った。一時頃には眠れていたのではないだろうか。私は遅刻するわけでもなく、まったく問題なくテストを受けることが出来た。正答率という点でも問題はないだろう。事前に勉強していたわけではないが、講義を思いだしながら書くだけである程度埋まるくらい、テストは楽だった。
そしてテストを終えて私はちらと、穴のことを考える。やはり近いうちに管理会社へ連絡するべきなのだろうか。そもそもあれはふさがるものなのだろうか。
残念なことに、私にはあの奈落のような真暗がふさがるようには思えない。
気が付くと友人がこちらをのぞき込んでいた。
私は適当にごまかしつつ、笑顔を浮かべる。いつの間にか私の中から友人に相談するという選択肢は消えてなくなっていた。あれは誰かに話すべきことではないような気がしていた。
最近、穴のことばかり考えている気がする。
あれは何なのか、どこと通じているのか。
私が最初に落としたボールペンはその中へと落ちていった。下の部屋へ? 何の根拠もないが、そうではない気がする。あれはもっと、どこか深い場所へと吸い込まれていったのだ。
友人と昼食を終え、空いたお盆を返却口へと持っていく。
その時、私の中でひらめいた。
あの中に手を入れてみよう。
*
その日の授業は午前中で終わった。私はすぐさま駐輪場で自転車を回収して、これからピークを迎えようとする暑さの中ペダルを踏む。いつもより早く足を回しているせいか、それともそもそもの気温が高いのか、私の額は汗に濡れ、そこに前髪が張り付いた。
自転車をアパートの裏にとめ、階段を駆け上がる。
私はバックパックの中から鍵を取り出し、差し込んだ。
玄関の扉はいつものようにガチャリと事務的な反応を返す。
靴を脱いだ。バックパックを放り投げる。ベッドの上に膝立ちになる。
そこでやっと気づいた。
穴は跡形もなく、その場から消えていた。
*
あの奈落のような真暗はどこへ行ってしまったのだろう。
あれから一週間ほど経ち、学期末レポートは締め切られ、私は来たるべきテストへと向けて勉強を始めていた。
しかし、テスト勉強ははかどらない。
気が付くとノートの端にペンを立て、ぐるりと円を描いてその中を塗りつぶしていた。そこに出来上がるのはあれよりもはるかに色が薄く、塗りがまばらで、そして小さい穴だった。
あの奈落のような真暗はどこへ行ってしまったのだろう。
イヤホンをはめて図書館の机の上に資料を並べ、しかしそのどれも開かれることはなくただ私はノートの隅に落書きをするばかり。
駄目だ、勉強にならない。
私はその日は早々に帰ることにした。
*
うだるような暑さの中、私はアパートにたどり着き自室への階段を上る。アパートの最奥に位置するその部屋の前に来て、私は鍵を取り出した。そしていつものように差し込んだ。
玄関の扉はいつものようにガチャリと事務的な反応を返す。
そして部屋の中へと一歩踏み込んで。
その着地点にぽっかりと、奈落のような真暗が口を開いているのを見た。
*
私は自室のベッドの上で目を覚ました。
わずかに記憶が混乱している。一体どうして、私はベッドで寝ているのだろう。ふと振り返るとあの奈落のように真暗な穴が復活していた。以前よりサイズが大きく、人がかがめば通り抜けられるくらいのサイズになっていた。
一週間ほど前、これはなくなったのではなかったか。それに大きくなっている。
また、私は自分が寝ているベッドが嫌に固いのに気付く。
よく見ると、ベッドの上には山のようにボールペンが落ちていた。すべて同じ、黒のノック式のボールペンだ。どこかで見たことがあるような気がしたが、それがどこだったのかは思い出せない。
私は改めて周囲を見回す。
間違いなく、そこは私の部屋だった。
ジャー、と。
その時、私はシャワーが流れ始めるのを聞いた。どういうことだ? ここは私の部屋だというのに、どうしてシャワーの音が聞こえる?
とっさに、不法侵入なんて言葉が頭をよぎる。
奈落のように真暗な穴よりもずっと現実的な恐怖が背筋を凍らせた。私はその場に転がっていたボールペンの内の一つを握り、そしてそろっと、シャワールームの方へと忍び足で近づいた。
誰かがいる。
裸でシャワーを浴びている。
なんてのんきな不法侵入者だとあきれ、かといって恐怖心がまぎれるわけもなく私はボールペンを強く握りこみ、そしてそいつへと振りかぶった。
そいつが私に気づいて振り返り、偶然にもボールペンの先は眼玉へと突き刺さった。
*
血はそのまま排水溝へと流れて行ってしまった。
私は自分がしてしまったことに恐怖しつつも、しかしこのままでもいけないと思い付きその死体を担いでベランダの方へと移動した。その顔にどこか見覚えがある気がしたが、ボールペンの突き出たその顔をあまり見たくなくてすぐに目を逸らした。
ベランダへの窓を開ける。
そこにはすでに、同じように顔からボールペンをはやした人間が三人、転がっていた。
思わず悲鳴を上げそうになるが、何とか抑える。
私はその上に四人目を積み上げ、なんとか気を失いそうになるのを我慢する。そうだ、煙草でも吸って落ち着こう。
そう思い、部屋に置いてあった鞄のポケットから煙草の箱を取り出し開ける。するとどうしたことか、残り十三本だったはずの煙草は九本だけになっていた。無意識に吸ったのか、そんな馬鹿な。しかし気にしても仕方がないので私はそれを一本取り出し、火をつけた。
一服を終え、やっと落ち着いて来た。
私はとりあえず、汗を流すことにした。家に帰るまでにかいた汗に、危機的状況と混乱からくる嫌なにおいのする汗が混ざり、私の不快感はその限界を超えていた。
私は服を脱ぐ。
後でボールペンの山を片付けなくては。それにあの奈落のような真暗な穴もふさいだ方がいいだろう。今までのバスケットボールよりも少し大きいサイズならともかく、あれは少しばかり大きすぎる。そんなことを考えながら私はバスルームに入り、扉を閉める。閉塞的な空間に、少し心が落ち着く。
その時、部屋の方でどさっと音が聞こえた気がした。
まさかあの穴から何かが這い出てきたのではないか、と考え思わず苦笑する。なんだかどうも、いつかのように神経質になっているようだ。
どうせ気のせいでしかないのに。
さあ、考えるのは後だ。まずは汗を流してしまおう。
そう思い、私はシャワーの栓をひねった。
ジャー。