第2話 bizzarro~突拍子もない~
……。
………?
どことなく、おかしな気分がした。それが何なのか、表現する適切な言葉は思い浮かばなかったが、確かにこのときこの瞬間、僕は思ったのだ。おかしい、と。
カウントダウンは終わった。目を開けば、自室のVRカプセルの中に裸身で眠る自分の姿が、透き通った材質に反射してカプセルごしに見えるはずである。
いつも起きた瞬間に感じるのは、世界に広がる無音という音楽だ。
音がないと言うことは、決して音楽がないということではない。音楽をきいているとき、人はいつしか自分が音楽を聞いていることを忘れる。そのことを思い出させるために、無音と言うものがある。いうなれば、無音は音楽の源、それがなければ音楽が音楽であることすら思い出せなくなる深淵なのだ。
ただ、人はそこに入りこむと気付く。本当の無音など、どこにも存在しないと言うことに。完全な無音状況に置かれたとき、人は二つの音を聞くのだ――――神経系が鳴らす耳鳴りにも似た高音と、血管の中をどろどろと流れる熱き血潮が奏でる美しき低音の響きを。
音楽は、どんな場所でも決してなくなりはしない。
生きているならば、それはどんな動物の中にも存在している無限の可能性なのである。
そのことに気づいた者に、ジョン・ケージというアメリカ出身の作曲家がいた。きのこ研究家でもあるという不思議な経歴を持つ彼は、ある時、ある曲を作曲した。
通称≪4分33秒≫と呼ばれるその音楽は徹底的に音楽を否定しながら、音楽というものからは誰も逃げられないと言う哲学を体現すると言う特別な存在感を持っている。
この曲の特別なところ――――それはつまり、“無音”だ。様々な音を掻き鳴らしながら、ある特定の小節において一時の無音を作り、人に音楽を意識させる、そういう構成の曲は誰もが聞いたことがあるだろう。この曲はそんな有象無象とは一線を画している。この曲の不可思議であり、特別なところ、それは――――。
想像してみてほしい。一人のピアニストが、ステージに登場するところを。
彼は、観衆に目もくれず、ピアノの前まで歩いてたどり着くと、そこで観衆の方へと向き直る。
見ると、彼は紳士的な容姿をしている。服装も中々の洒落者で、髪も綺麗に撫でつけられている。
ピアニストとしては、中堅どころ、といったところだろう。前回来日したときのコンサートではなかなかの技術と表現力を魅せてくれた期待の星だと、あなたは今回一緒に来たクラシック音楽好きの友人に説明されていた。
確かにその通りの雰囲気をもつ、カリスマ性を感じさせる人物である。
クラシックなどにさして興味も無く、配られたパンフレットに書かれた曲目すら見ようともしなかったあなたは、それでも友人が連れてきてくれたコンサートに期待を持たずにはいられない。
あなたは、待つ。
これから一体どんな曲を聴けるのだろうかと心を震わせながら。
あなたの隣で、友人がどこか意地悪な笑みを浮かべていることにも気付かずに。
そうして、ピアニストはイスに座る。
楽譜は、持っていない。
きっと曲の全てが頭の中に入っているのだろう。そのことを理解して、おそるべき練習量を誇るだろうその音楽家に、あなたは称賛をしたいと思った。
これから聞かせてくれるだろう音楽に込められた努力の跡を、あなたはその瞬間、ピアニストに感じたからだ。
そうして、演奏は始まる――――と思われた。なぜなら、ピアニストは88鍵の鍵盤を隠す無粋な覆い――――蓋を、おもむろに開け放ち、聴衆たちへピアノという完成された楽器の持つ美しい白鍵と黒鍵のコントラストを見せたからだ。
あなたの期待は留まらない。
これから浸かるべき、音楽の海。それはきっと素晴らしいもので、これまで感じたことのなかった何かをあなたの心の中に生まれさせてくれるだろうと想像したから。
けれど、あなたはふと気付いてしまう。
おかしいのである。
何がおかしいのか。それは簡単なことだ。
ピアニストは、いつまでも、何も弾こうとしない。音楽を作りだそうとしないのである。
あなたは首を傾げる。いや、そんなはずはない、と。
きっと、あのピアニストはいまこの瞬間、自分の心と対話しながら集中しているのだろう。しばらく待っていれば、そのうち何かを奏で始めるに決まっている。そう思った。
けれど、ピアニストは奇妙な事に、せっかく開けた蓋を、また閉じてしまったのである。――――なぜ?
何が起こったのかよくわからないあなたは隣に座るクラシック音楽に詳しい友人の顔を見る。
彼は笑顔を浮かべ、囁くように言った。
「33秒」。
そう言って、彼はまた前を向いてしまう。首を傾げきりのあなたは、それ以上なにも語らない彼を追及することを諦め、もう一度前を見た。
ちょうどピアニストは蓋を開けようとしているところだった。
ようやく、始まるのか。
あなたはどことなく安心を感じ、今度こそ音楽に身を任せようと集中する。
けれど――――ピアニストはまた、蓋を閉めてしまうのである。なぜなのだろう。
あなたは、今度は隣に座る彼の袖を引っ張って少し怒った顔をしてみた。けれど彼はやっぱり笑顔のまま。先ほどと同じように、また囁くのである。
「2分40秒」。
そうしてまた前を向き、あなたに目もくれずにピアニストを見つめ始めるのだ。
あなたは理解できなかった。これは一体何なのだと。本当に理解できないと。
ピアニストはまた、鍵盤蓋を開けようとしている。
もうここまでくれば、分かる。どうせあのピアニストは、何も弾かないのだろう。
自分は音楽を聴きに来たのに。
そう思ったあなたは、突然、天啓のように閃く。
そうだ。自分は音楽を聴きに来たのだ。ならば、あのピアニストが鍵盤を開いた時から、私は音楽を聞いているのだ、と。
それはどこか捻くれた発想だったのかもしれない。けれど、そう思うと、無音の空間ですら、あなたには音楽に聞こえるような気がした。
よくよく考えれば、すべては、音楽なのだ。
この世に存在する遍くもの――――鳥の声、布の擦れる音、枯葉を踏みしだく音色、車のエンジン音、彼の声、そして自分の鼓動――――それを音楽と名付けて、何が悪いのか。あなたはそう思った。
それからは、ピアニストが鍵盤蓋を開いてから、閉じるまでの時間が、なにか特別なもののように感じられた。そこには、確かに音楽がある、と。そう思えたのだった。
そして、ピアニストが鍵盤を閉じたとき、横に座る彼が言った。
「1分20秒」と。
そこまで聞いて、あなたは彼が何を言っているのかやっと理解できた。彼は、ピアニストが蓋を開いてから閉じるまでの時間を言っていたのである。
けれど、どうして…。
不思議な気持ちがしながらも、あなたは気付いたら立ちあがり、ピアニストに対してスタンディングオベーションをしていた。周りの聴衆も同様である。一体、なぜこんなことをしているのか。よくわからなかった。
けれど、確かに自分は音楽を聞いた。その思いだけが、きっと自分の体を突き動かしているのだろうと、あなたは確かに感じていた。
その後は、通常のコンサートだった。つまりはピアニストの彼は通常通りの演奏を行い、白鍵と黒鍵を器用に撫で、叩き、鳴らして、組み上げた。
奇妙だったのは、あの三度の無音だけ――――あなたはコンサート後に寄ったレストランで、彼に聞いてみる。あの曲はなんだったの。彼は答える。
「≪4分33秒≫だよ」
聞けば、それは音楽の常識を覆す音楽だった。全てが無音、と言う奇妙な曲なのだ。彼はあなたがその曲を聞いた時、一体どんな反応を示すか知りたくて、わざわざ今日のコンサートに連れて来たのだと言う。確かに、少し意地悪なところのあるらしい彼らしい行動だった。
ただ、どうしてかその曲はあなたの心に残った。あのピアニストは何も鳴らしていないのに、不思議と。
あなたは自問する。あの沈黙と無音のどこに音楽があったのかと。
思い出すあの一時。4分33秒の、無音の思い出。そこに現れれるのは、彼のささやき声と、自分の鼓動。その間に何かが、音楽と呼べるものが、あったのではないか。一瞬そう思ったあなたは、それを慌てて打ち消して、食事に戻る。
彼とは恋人でもなんでもないのだから。そう、まだなんでも――――。
つまり、≪4分33秒≫というのはどこまでも“何も鳴らさない”曲なのである。この奇妙さ、そして発想の面白さは、コロンブスの卵にも似ている。
彼はこの無音の曲を、何も音の鳴らない空間、無響室に入って自分の体内の音を聞き、無音の不可能性を理解したことから作りだした。
誰も音を作らずとも、自分の体内で、神経と血液が音を作る。そこから逃れられる生命はいない。音楽は、生き物の中で、死ぬまで鳴りつづけるものなのだ。
IMMからのログアウト後は、いつも僕はその無音を感じていた。無音であっても、鼓動は聞こえる。その安心と、苦しみの中に、僕はいた。にも関わらず、今、この瞬間には、その感覚が、ない。体外の無音が、ない。それはつまるところ、僕のいるところは音に満ちていて――――。
目を開いた先にあったのは、現実にはいない筈の容姿をもつ異形の人々。
魔物たちだった。
彼らは僕をどこか心配そうに見ていた。それは、何年もIMMをやりつづけた僕ですら見たことのない、不思議な表情で、先ほどから感じている違和感に拍車をかける。
思いついて横を見てみると、そこにいるはずの仲間達――――さきほどまで存在していた≪楽団≫の一員が、一人もいないことに気づく。おかしい、と思うと同時に、当然だ、という気持ちがわきあがってきた。
そう、なぜなら先ほど、IMMのサービスは完全に終了したはずだからだ。そうであるなら、いないのはログアウトしたからで、奇妙なことでもなんでもない――――むしろ、僕がここに未だに存在していることがおかしいのだ、そこまで思い至った時、血の気が引く音が聞こえた。なぜ皆がログアウトしたのに、自分だけここに残っているのか。もしかして、いや、もしかしなくても、これは僕一人がこのIMMの世界に取り残された、そういうことではないのか。
焦るように僕は左手の親指と中指をすり合わせて、指を鳴らした。すると、見慣れたステータスウインドウがブン、と目の前に現れる。そして絶望した。ウインドウ右下に常に赤字で示され、存在し続けていたはずの“ログアウト”ボタンが、そこから完全に失われてしまっていた。
血の気の引く音がもう一度聞こえた。血流が下がっていく。これがジョン・ケージが無音の世界で聞いた音なのだと思って、僕は意識を手放した。
ばたばたと誰かが駆け寄って来る音が聞こえる。
「……あるじ様!」「あるじ!「あるじ殿……?」
本当に心配そうなその声達には聞き覚えがあった。
そう。そうだ。その声は――――。
僕の盟友達。先ほどまで確かにステージに存在していた彼らの声そのものに、異ならなかった。




