第弐話:誰にも見えない少女
「……はぁ……」
まだ昼下がりの商店街の一角。ごく一般的な日本の街並みにはあまりにもそぐわない豪勢な噴水広場の片隅で、俺は小さく溜息をついた。
理由はあまりにも簡単だ。二言で済む。
『おー! 水綺麗ー!』
……こいつが、いるから。ほら二言。
今朝、突然俺の目の前に現れた少女――ゆま。
夢の産物かと思いきや、寝直そうが頬をつねろうが頭を壁に打ち付けてみようが消えやしない。そのせいで親が起きちまって、休日だってのに朝っぱらから騒ぐなとしこたま怒られた。
理不尽だろ? 理不尽だよな? 俺のせいじゃないんだぜ? 全ての元凶は俺の隣でフヨフヨ浮いてやがるこいつなのに……。
『あ、犬だ! 犬がいるよー!』
「ぬあッ!? ちょッ、こら!」
不意に右腕を引っ張られるかのようにつんのめり、倒れないように何とか踏み止まる。
が、俺の右腕は誰にも引っ張られたりしていない。
『ちょっとゆーま。ゆまに合わせて動いてくれないと、動けないんだよ?』
だよじゃねぇ! 勝手に動き回るなって何度も言ったろ!
『だって可愛い犬がいたんだもん』
だもんでもねぇ! じっとしてろ!
『ぶー……』
とまぁ。ここに着いてから終始こんな感じな訳だ。あー面倒くせぇ。
さて、ゆまが不貞腐れてる間に、朝から今までに分かった事を語っておこう。
色々試した結果、ゆまが夢幻の産物じゃないらしいって事が分かった後、目も冴えちまったから飯でも食おうと俺はベッドを下りたんだ。
『どこ行くの、ゆーま?』
「飯でも食って来る。お前はそこにいろよ」
『えー? 何でー?』
「ここを離れられねぇんだろ? じゃあしゃーねーじゃん」
『ゆまもご飯食べたい!』
「無茶言うんじゃねぇ。突然押し掛けて来た知りもしねぇ女に食わせる飯なんぞ、ウチにはねぇ」
『ぶー! ぶー!』
ぶーとか口で言いながら不貞腐れる奴、俺は生まれて初めて見たぞ。
そんな事を思いながら、扉を開けて部屋を出ようとする。
――と。
『お? あれ?』
「ん?」
ふと聞こえた声に振り返る。
ついさっきまでベッドの上で不貞腐れていたはずのゆまが、ベッドを下りていた。
……いや、下りるってのはちょっと違うか。浮いてるだけだから。
「何してんだよ。ここにいろって言ったろ?」
『何もしてないよ。急に引っ張られたんだもん』
「はぁ? 誰もいないのに何に引っ張られんだよ?」
『そんなの知らないよ』
また出た。ちくしょう、こいつはさっきから何かって言うと『知らない』『分かんない』のオンパレードだ。
相手してられっかと部屋を出る。
ウチは二階建ての一軒家。元々祖父母と一緒に住んでた事もあって二世帯住宅だった所を、祖父母が亡くなった後に一世帯に改築したんでそれなりに広かったりする。
でもって、俺の部屋は二階。両親の寝室やらリビングやらは全部一階にあるから、何かしようと思ったら必ず下に行かなきゃならない。実に面倒な構造だ。たまに寝惚けてると階段を踏み外しそうになる事がある。さりげなく急なんだよ、ウチの階段。
とりあえず食える物を確保しようと、階段を降りようとする。
『お? おーー?』
「あん?」
また、声が聞こえる。
見ると、ゆまが部屋の扉の前でフヨフヨと浮いていやがった。
「な、何だ? 出れんじゃん、お前」
『あっれー? さっきは全然出られなかったのに!』
「良かったな。出られたんならどこへなりとも行っちまえ。俺は優雅に飯でも食う」
『べーだ! ゆーまの意地悪! 分かったよ、いなくなっちゃうから!』
何でそんな罵倒を受けにゃならんのだ俺は。
まぁいい。これで面倒事は消えたんだと安心して階段を降りようとした時だった。
「……ん?」
不意に、身体がフワッと持ち上がるような感覚に見舞われた。
続けて、まるで猫のように首の後ろを持ち上げられ、バランスを失う。
重ねて言うが、俺がいたのは階段だ。しかも、降りようとして片足を上げてたタイミングだ。
……わざわざ言わなくても分かるよな。この後俺がどうなったのかくらい。
「おぉぉぉぉぉぉッ!?」
ドッタンバッタンと盛大な騒音を掻き鳴らしながら、俺の身体は階段を転がり落ちた。
……漫画かよ、マジで。
「いっつつつ……」
肩やら腰やらを思い切り打ちつけた……何なんだよ今日は。厄日か?
痛みに耐えながら、何とか立ち上がる。
と、そこへ。
『あれ? あれッ?』
という声と共に、
「お?」
クイッ、クイッと首の後ろを引っ張られる感覚が再び。
上では、浮いたゆまが飛び立とうとしてるんだか何なんだか。何かに阻まれてるっぽく、失敗している模様。
……おい、どういう事だ。
『んー……どうもゆまが離れられないのは、部屋じゃなくてゆーまだったみたい』
「はぁッ!?」
後で色々試して分かった事なんだが……ゆまが俺から離れる事が出来ないってのはどうやら本当らしい。
俺が移動すると、ゆまも勝手に移動する。逆にゆまが移動すれば、俺が勝手に移動しちまうんだ。
何て言えばいいんだろうな。俺とゆまの二人が、大きな球にすっぽり収まってるって考えて貰うのが一番早いかもしれない。どっちかが動くとその球が動いちまって、もう片方も動かざるをえない、って訳だ。
つまり、俺とゆまはある程度しか離れられないって事。具体的に測った訳じゃねぇけど、最大で大体四、五メートルってトコか。ゆまが、俺が寝てる間に出て行こうとして出来なかったって言ってたのが、どうやらこれのせいらしいんだよな。
これだけでも十分な程驚きを隠せないんだが、分かったのはこれだけじゃなかったりする。
「うるさいね! 何してんの、このバカ息子!」
「ゲッ!?」
勢い良く開かれた扉と共に顔を出すウチのお袋。
ヤベェ! ただでさえ寝起きのお袋は機嫌悪いってのに、女と一緒にいる所を見られたりなんかした日にゃ……この上ない地獄が待っている事は間違いねぇ!?
「朝っぱらからドッタンバッタンと……せっかくの休みくらい親をゆっくり寝かせてやろうなんていう、ちょっとした親孝行の心はないのかい!?」
……おりょ? もしかして、気付いてらっしゃらない?
チャンスだ! このまま隠し通せれば俺が理不尽な地獄を見る事もな――
『ねぇねぇゆーま。この人誰?』
なぁぁぁぁんでこのタイミングで出て来やがりますかテメェはぁぁぁぁぁッ!?
『タイミング? 何言って……』
死んだ! 俺、間違いなく死んだ! 天国のじーちゃんばーちゃん、俺もこれからそっちへ参りま――
「ったく。次やかましくしたら……アンタ処刑」
バタンと閉じられる扉。
……あり?
助か……った?
『ねぇねぇゆーまってば。あれ、誰?』
「うぅるっせ――」
だんだんだん!
思い切り叫ぼうとして、それを阻むように叩かれた寝室の扉にビビり、俺はゆまにジェスチャーで部屋に戻れと伝えた。
そして今に至る……と。
正直な所、家にいると生命の危機を感じそうだったんで外に逃げて来たんだが……そのおかげでさらに分かった事が二つある。
まず一つ目。
どうも俺以外の奴にとって、ゆまは存在してないらしいんだ。
気付かないってのとはまた少し違う。文字通り、存在してない。
ここに来るまでの間に結構な数の人とすれ違ったが、誰もゆまに気付いた奴はいなかった。見えてもいないし、声が聞こえてもいない。
知り合いに見られたらマズいと内心ビクビクしていた俺だったが……あまりの反応の無さに拍子抜けしちまった。
これが、単に女を連れてるだけだったらまだ分からない話じゃない。俺を知ってる奴なら飛んで驚くようなシチュエーションだが、知らない奴から見たらまぁあり得ない光景じゃないかもしれないからな。
けどな。俺についてくるゆまは宙に浮いてるし、ワイワイガヤガヤとやたらめったら話しかけて来る。傍を通ってこれで気付かない訳がない。
道すがら、近所のおばさんが飼い犬を連れてたんで試しに話しかけてみた。当然おばさんは全くの無反応。はてさて犬の方はと思いきや、これまた無反応。
犬猫は人間が気付かない霊にも反応する、なんてのをテレビで見た事があったから試してみたんだが……余計訳が分からなくなった。
でもって二つ目。
どうやらゆまには、俺の心の声って奴が聴こえてるらしい。
どうも所々会話が噛み合ってないというか、突拍子がねぇなと思ってたんだが、俺の心の声と会話してたって事みたいだ。
……あれもこれも『らしい』って状態なのが凄く嫌なんだが。
だが、この二つから導き出せる結論は一つ。
ゆまは、俺にしか見えない存在だ。
他の奴じゃ、見えないし話せない。声を聞く事も出来なければ、触る事も出来ない。
何でだかは分からないが、俺だけがそれを出来る。
……はっ。何だこの面倒な話。考えてて泣けて来たぞちきしょう。
『ゆーま。ゆーま』
ん? 何だよ?
『色々考えてる所悪いんだけど、いつまでここにいるの?』
悪いと思うなら人の思考を読まないで欲しいと思うのは俺だけなんだろうか。
もう少しだ。これからちょっとやりたい事があるんだよ。
『やりたい事?』
そう。別に何もする事がないから噴水広場でのんびりまったりしてる訳じゃない。目的はある。
時計に目をやる。午後一時四十分。
「……っかしいな。そろそろ来ててもいい頃なんだけど」
「もう来ている」
「おぅわッ!?」
び、びびび、ビビッたぁッ!?
背後から突然話しかけてきたそいつは、ゆっくりと俺の目の前に現れる。
「い、いつからいたんだよ、孝明?」
「十五分程前だな。一時半に噴水広場の時計の下という事だったので、その時間に間に合うように来たのだが」
「そんな前からいんなら声くらいかけろよ!」
「その言にも一理あるが……どうにも考え事をしているようだったのでな。しばし待つべきかと」
「待たなくていいっつの!」
ったく……。こいつはどうしてこういらない気を遣うのかね。
相馬孝明。俺が通う高校でのクラスメートだ。
興味がないので覚えてないんだが……何とかっていう古武術道場に通っているって聞いた事がある。そのせいなのか何なのか、こいつの言葉遣いは妙に古臭い。
佇まいは男の俺から見ても格好良く、学校でもかなりの数の女子に好かれているというムカつき野郎だ。
まぁ、本人は別の学校に通ってる幼馴染と付き合ってるから興味はないそうだし、普通にいい奴だから仲良いんだが。じゃなけりゃわざわざ休日に男を呼び出したりなんかしねぇよ。
「それで、用件とは何だ? 今日でなければならない用だと電話では言っていたが」
「あぁ、その事なんだけど」
そこまで言いかけて、ゆまの方を一瞥する。
ゆまの奴……孝明に纏わりつくように眺めてやがる。何してんだよ、テメェは。
でもま、とりあえず第一段階はクリアだな。
「どうした、悠馬?」
「あーいや、何でもない。実はさ。俺、お前に飯奢るって約束してただろ?」
「あぁ。この間のテストで勉強を見てやった時のあれか。別にそんなものはいらんと言ったと思うが……」
「お前がいらなくても、俺の気が済まねぇんだよ。飯ぐらい奢らせろって」
「だとしても、別に今日でなくても良い話なのではないか?」
「休み明けたら金なくなっちまうって。思い立ったが吉日。行こうぜ行こうぜー」
そう言って俺は孝明の肩を押す。
行くぞ、ゆま。
『どこ行くのー?』
そうだな……とりあえずその辺プラプラと。しばらく歩いたらゲーセンでも行くか。
『ゲーセンって何?』
ゲームセンターの事。いいから行くぞ。ついてこいよ。
『はーい』
軽い返事と共にゆまもついてくる。
無論、俺の目的は孝明に飯を奢る事じゃない。
ゆまの存在は本当に他の奴にバレないのか。それを確かめる事が今日最優先の目的だ。それが出来ない限り、俺はこの先ずっと安心出来ない。何で俺がそんな事気にしなきゃいけないのかは甚だ疑問なんだけどな。
悪いな孝明。お前の事利用させて貰うぜ。