第拾壱話:二人の日々
「……あぢぃ……」
奇跡的に由麻が目覚めてから――二ヶ月。
梅雨なんてのもとうに明けた。強い日差しが降り注ぎ、蝉の声がけたたましく耳に響く。
もう――季節は夏を迎えていた。
俺がいるのは、街中にある噴水広場。ここは本当に日本なのかと疑問を持ちたくなる程、無駄に豪華な場所の片隅だ。
少しでも暑さを凌ぎたいと水のある近くにいる訳なんだが……やっぱり暑いもんは暑い。
そんな中で俺は、ボーッと突っ立っていた。
何故そんな事をしているのかと聞かれれば……答えは簡単だ。
「いつになったら来るんだよ……あいつ」
時計に目をやる。午後一時四十分。
……いつだったかも同じ時間にここで待ちぼうけくらってたな、俺。
そのいつだったかの事を思い出して後ろを振り向く。
……木陰で寝ていたオッサンと目があった。
「あ……あははは……」
睨まれ、思わずビビる。
すんませんっしたね……邪魔して。
再び噴水の方に目をやった。
由麻が目覚めたのは、医者にしてみればあり得ない事ではなかったらしい。
身体にそれ程大した外傷はなかった。ただ、何らかの要因で意識だけが戻らない状態だったのだと言う。
後は、本人の生命力の問題です……という奴だ。
でもって、肝心の由麻はと言うと。
話を聞く限りでは、本人は身体の傍に戻っていたらしい。
俺と離れられなかったのと同じように、今度は身体から離れられなくなっていたんだと。
それなら何で俺が行った時に出て来なかったんだとツッコんでみたら――
「呼んだんだよ! 思いっ切り叫んだのに、ゆーまが気付いてくれなかったんだもん! ゆまのせいじゃないやぃ!」
――だ、そうだ。
呼ばれた記憶なんて……ねぇんだけどな。
……それにしても。
今考えてみても、俺達は本当に不可思議な体験をしたものだ。
俺と由麻にしてみれば目の前で実際に起こった事だから、否定なんて出来ないけれど。
たぶんこの話をしても、空想・妄想の類だって思われるに決まってる。現実に起こった事だって信じてくれる奴は……きっと、指で数えられる程度だろう。
大体、俺達自身――分かっていない事があまりにも多い。
結局の所、あの"ゆま"という存在は、由麻の何だったのか。
何故、"ゆま"の姿は誰にも見えず、その声は誰にも聴こえず、その存在は誰にも気付かれなかったのか。
そんな"ゆま"の存在に……何故、俺だけが気付く事が出来たのか。
――それだけじゃない。
どうして、"ゆま"は俺から離れる事が出来なかったのか。
どうして、"ゆま"は俺の所に現れたのか。
どうして、あのゴールデンウィーク最終日の翌朝……"ゆま"は、消えたのか。
はっきり言って分からない事だらけだ。由麻の話を聞いても……その疑問に、納得のいく答えは出そうになかった。
もしかしたら。
あの一週間の出来事は、俺と由麻が見た――夢、だったのかもしれない。
そう考えたって、何も不思議な事はない。そうだと誰かに言われたら、そう信じてしまいそうだ。
――しかし、だ。
そんな事はもう、どうでもいい。
「ゆぅーまぁーーーッ!」
やれやれ……やっと来たな。
大分焦ったのか、物凄い勢いで噴水広場に駆け込んでくる、一つの人影。
「はぁ……はぁ…………間に合った?」
「んな訳ねぇだろ!? 今何時だと思ってんだ!?」
「ちぇ。惜しかった」
「全然惜しくねぇっつの! 待ち合わせ一時だっつったのお前だろ!? もう四十分も過ぎてるわ!」
相変わらず俺にツッコミの限りを尽くさせる。
言わずもがな。矢野由麻、その人だ。
由麻は、胸の前で手を合わせながら言ってくる。
「ごめんね! 出掛ける前にちょこぉーっと始めたら、止まらなくなっちゃってー!」
お前にとって、ちょこぉーは四十分なのかよ。
「ごめんね、ゆーま」
「……あーもう。いーよ。いーい。んで……何を始めたって?」
「あ、そうそう。これこれ」
そう言って、持って来た鞄を探る由麻。
そこから取り出した物に……俺は、凄まじく見覚えがあった。
「これ……って……」
由麻の手が差し出してきた物。
それは――天使の翼の形をしたキーホルダーだった。
それも、片翼じゃない。双翼がちゃんと揃っている。
「……どうしたんだよ……これ……?」
一つは、由麻が持っていた。俺が落として、由麻が拾った物。
そしてもう一つは……俺が病室のゴミ箱に捨てたはずだった。
「えへへ。何でだか教えて欲しーいー?」
由麻の瞳が悪戯に光る。
「……教えて欲しいです」
くそ。俺はどうしてこう好奇心に弱いんだ。
「あのねー。看護師さんに、頼んでおいたの」
「……は?」
何を?
「ゆーまの部屋に、きっとこれと同じ物があるから、持って来て下さいって。もしかすると捨てちゃったかもしれないから……って」
「……何でそんな事を?」
「ふっふっふ。ゆまの推理力を侮っちゃあいけないんだよ、ゆーま♪」
侮りてぇ。とてつもなく侮りてぇ。
「ゆーまにとって、これはあんまり思い出したくない物かもしれないって思ったんだよ。見ていたくもないかもしれないって。だから、捨てちゃってるかもしれないなーって」
……でも当たってるから侮れねぇ。
「でねー……ほい!」
由麻が手を傾け……キーホルダーが滑り落ちそうになる。
――だが、それが地面に落ちる事はなかった。
「じゃじゃーん♪ それをネックレスにしてみたのでしたぁ♪」
由麻が自慢気に見せびらかしてきたそれは……なるほど、ネックレスだった。
キーホルダーの鎖を外して、代わりに紐が通されていた。
単なる紐じゃなかった。何本もの違う色の糸を編み合わせて出来た……虹色の紐。
「どう? どう? これなら見ても嫌な気分にならないでしょー?」
腰に手を当ててふんぞり返る由麻を見ながら――俺は思っていた。
やっぱり、どうでもいい。
不思議な体験だった。分からない事も多く残ったままだ。
――けど。
由麻が、俺の目の前にいる。
こいつが、俺と一緒にここにいる。
それだけで、気分が楽になっていくから。
それだけで、心が安らいでいく気がするから。
だから……それだけでいいんだ。
「……ありがとな、由――」
「おー!? そこに見えるは悠馬と由麻ちゃんじゃあーりませんかーッ!?」
……ゲッ。
このやたら面倒くさそうな声は……。
「よー悠馬! 暑さに負けじとこっちでもアツアツってかぁ!? かぁー、羨ましーね、ホントに!」
「あ、せーや君だ」
「うぃっす由麻ちゃん! 付き合い始めたからってダメダメよー? 悠馬だって所詮は男! 由麻ちゃんみてーな可愛い子と一緒と来たら、頭ん中でどんなやらっしー事考えてやが――」
「清耶……それ以上くだらねぇ事言いやがったら、てめぇの脳天カチ割るぞ! ……孝明が」
「そ、それは勘弁してくれぇッ!」
「そんな事はせん」
清耶の後ろから孝明が顔を出す。
何だ、いたのか。こいつも。
「よ、孝明。今日も清耶のお守りか?」
「いや。先刻清耶から突然電話があって、一応会いはしたのだが……今日は……ちょっとな」
ん? 何だ? 何か孝明にしては妙に歯切れが悪いような。
「……あいつと一緒なので……な」
孝明が目線で示した方に目をやる。
一人の女子が、そこにいた。
……あぁ。なるほど。あれが例の彼女さんって訳か。
「お前も大変だな」
「そちらもな」
互いの苦労を分かり合って苦笑する。
こんな風に笑い合う事が出来るようになるなんて……二ヶ月前は思ってもいなかったもんだ。
「いよっし! こんだけ揃ったんならやるこた一つ! カラオケ行って、皆で盛り上がろうっぜーぃ!」
清耶のテンションがはち切れんばかりに上がって行く。
あー、面倒くせぇ。これからする事はもう決まってんのに。
「……由麻」
「ん?」
「逃げんぞ」
「オーッケー♪」
それだけの合図で、俺と由麻は同時に走り出す。
視界の隅では、孝明が彼女の手を引き、同じように走り出していた。
「あれ!? 皆どこ行くんだよ!? ちょっと待ってよ! 独りぼっちにすんなぁーッ!!」
悪ぃな、清耶。今度どっかで埋め合わせするって。
「ねぇ、ゆーま!」
「ん? どうした?」
走りながら、由麻が俺に尋ねてくる。
「今日って、結局どうするの?」
あぁ。そうか。言ってなかったっけ。
「ヘヴンズランドに行こう。いつか乗れなかった【エンゼルフォール】……乗りたいだろ?」
「ホントに!? やったぁ♪」
由麻の手を引く。
二人の手の中に、あのキーホルダー――もとい、あのネックレスがあった。
「そしたらさ、【トワイライトミラージュ】にも入ろうね!」
「あぁそうだな……曲がるぞ!」
絶妙なコンビネーションで角を曲がる。
物陰に隠れて、身を潜める。何かのドラマみたいだな。
よぅし、これで清耶は撒いたな。
「ゆーま……動かないでね」
「……え?」
気付くと、由麻の顔が目の前にあった。
とてつもなく、近かった。
由麻の身長は俺よりも小さかったけど……多少無理な体勢で物陰に隠れたせいか、高さの差はほとんどなかった。
――由麻の息遣いが聴こえる。
心臓の鼓動が、やたら激しくなっていくのを感じた。
おい、待てよ。こんなトコで。人の目もあるんだぞ。
やめ――
「はい、出ー来たッ♪」
「……へ?」
寸前まで近付いて、由麻は離れた。
いつの間にか繋いでいた手は放されていて――その手には、例のネックレスが一つあった。
首元を、見る。
虹色の紐が、俺の首から下がっていた。
「何されると思ったのよー?」
「え……いや……それは……」
言えるかよ、バカ。
キスされると思った、なんて。
「あはは! ゆーまには後でかけて貰おーっと!」
そう言って、由麻は歩き始める。
その姿を眺めながら……俺は、思っていた。
もう、大丈夫。
俺達は、一人なんかじゃない。
いつだって、俺達は傍にいるから。
だからもう……大丈夫だ。
「待てよ、由麻!」
「早くおいでよー! ゆーまー!」
立ち上がり、俺は由麻を追う。
その向こうで、由麻が俺を呼ぶ。
俺がいて。
由麻がいる。
俺達の日々は、これから始まるんだ。
「観覧車にでも乗ったら、してあげよっかな♪」
「……へ?」
「えっへへー、何でもなーい!」
夏の日差しが、俺達に燦々と降り注いでいた。