第拾話:悠馬と由麻
病室の中は、それ程暗くはなかった。
窓は閉まってたけど……カーテンは開けられていた。
窓から、月明かりが差し込んでる。
その月明かりに照らされるように……由麻が寝ていた。
「……由麻……」
その名を、呼ぶ。
"ゆま"でなく、"由麻"。俺が出逢った事のないはずの少女。
この二週間近く、俺の記憶の大半を奪っている少女。
目の前にいるのは、"ゆま"じゃない。俺が落としたキーホルダーのせいで事故に巻き込まれた……"由麻"だ。
彼女の寝るベッドに、近付く。
すぐ脇に、小さなパイプ椅子があった。昼間、お母さんが座っていたものだ。
そこにゆっくりと腰かける。
「……久し振り……は、変だよな。初めまして……って言うのが正しいのかな」
彼女の顔を眺め、口を開く。
"ゆま"と別れてから、一週間も経っていない。
"由麻"には、今日の昼間会ったばかりだ。
なのに……目の前に眠る少女の顔は、妙に懐かしくて……妙に新鮮だった。
初めて"ゆま"に出逢った時、彼女に名前を聞かれた事を思い出す。
――ねぇねぇ。あなたの名前は何て言うの?
「俺は……悠馬。神名悠馬」
――ゆーまかー。ゆまの名前に【う】を付けたんだね
「……何でお前基準なんだよ。単に名前がちょっと似てるだけだろ」
あの時思った言葉を口にする。
それから……言葉が溢れ始める。
「あの時……ゆまに初めて出逢った時さ。俺……夢だと思った。お前の事ほったらかしにして……寝直したよな」
由麻は、反応しない。
「結局、寝直そうが頬をつねろうが頭を壁に打ち付けてみようが……お前は消えなかった。ちゃんと覚えてる。お前は……確かにそこにいた」
眉をひそめる事もなく。
「色んな所に行ったよな。ゲーセンとか。映画館とか。遊園地とか……ミラーハウス覚えてるか? 【エンゼルフォール】にお前が乗れなくて……膨れてるお前を連れてったよな」
口元が揺れる事もなく。
「明日から学校ってなって……俺、どうやってお前にクラスメートを紹介しようか、色々考えてたんだぜ? なのにお前消えちまって……本気で頭ゴチャゴチャになっちまってさ。クラスメートと喧嘩したりもした……仲直りしたけどな」
ピクリとも動く事なく。
ただただ……その場で横たわっていた。
「……く……ッ」
歯を噛み締める。
ダメだ。俺が泣いたりしちゃダメなんだ。こいつの前で、そんな事出来ない。
こいつは、俺の前で泣いたりしなかったんだから。
「……なぁ、由麻……」
涙を堪えながら、言葉を紡ぐ。何か喋っている方が、堪えられるような気がして。
「俺さ……お前に言いたい事があるんだ」
そっと、手を伸ばす。
昼間お母さんがやっていたように……由麻の頭にその手を置く。
「正直に言うとな……俺、お前の事、少し面倒だなって思ってた」
手を、軽く揺らす。
俺の手の動きに合わせて、由麻の髪がふわりと揺れる。
「何て言うかさ。無駄に明るいし。こっちの言う事聞いてくれねぇし……ホント厄介な奴だと思ってたよ」
由麻の髪は、思っていた以上に柔らかかった。ちょっと引っ張ったらすぐに抜けてしまいそうなくらい。
手が、目の脇を通過する。
「お前のせいで、遊園地じゃ一人席なんてもん体験したしな。あんな体験、二度と御免だ。子供に指差されたりしたんだぞ、俺」
俺の手が由麻の輪郭をなぞり――
「……けど」
――やがて、頬へと到達する。
「お前がいなくなって……色々悩んで考えて……よく分かった。お前が、俺にも知られないように……凄く頑張ってたんだって事。怖くて、ツラくて、苦しかったはずなのに……お前はあんなにも楽しそうにしてたんだよな」
頬から離し、由麻の手を握る。
小さな手だ。俺と比べたら随分と小さい。小さくて柔らかくて……弱々しい。
こんな手をした奴が、あんなに頑張っていたのか。
「お前……すげぇよ。俺なんかと比べもんにならねぇくらい……ホントすげぇ。もうすげぇしか言葉が出て来ねぇ。それから……ずっと……」
途端、自分の頬を何かが伝うのを感じた。
「ずっと……謝りたくて……」
涙、だった。堪えられなかったんだ。
一度流れ始めた涙は、まるで噴水の如く溢れていく。
「ホントに……ごめん……ッ」
そうして涙と一緒に……言葉さえも、堰き止める事が出来なくなった。
「お前の事……面倒だなんて思ったりしてごめん……お前の事……厄介だなんて思ったりしてごめん……」
溢れ出した感情は。
「お前の事……分かってやれなくてごめんッ! もっと色んなトコに連れてってやれなくてごめんッ! お前の話、ちゃんと聞いてやらなくて……ごめん……ッ!」
堰を壊して尚も激しく。
「お前に……出逢っちまって……ごめん……なさい……ッ」
一度壊れた堰は。
「俺が出逢わなきゃ……こんな事にはならなかったかもしれないのに……ッ」
何の意味も成さず。
「もう……お前の前に姿を現したりしないから……」
溢れ出る流れと共に。
「だから……お願いだから……」
粉々に、砕け散って行った。
「……もう一度……笑ってくれよ……ッ」
静寂が、辺りを支配する。
由麻が吸入器を通して呼吸をする音と俺の息遣いだけが、この空間に響いていた。
「……ぅくッ……」
喉の奥が妙な音を作り出す。
それすらも、押さえる事が出来ない。
目から溢れ出た雫が頬を伝い……重力に引かれるまま、落ちる。
その雫は……由麻の頬を濡らしていた。
「……お願い……だから……」
思わず目を閉じ、懇願するように頭を垂れる。由麻の手を握る手に、力が籠る。
こんな事を言っても、何かが変わるなんて思っていなかった。
ただ、言わずにはいられなかった。どうしても謝りたかった。
例え、由麻が聞いていなかったとしても。
例え、伝わらなかったとしても。
――だから。
この時は、それまで感じた事がない程……驚いた。
「……え?」
一瞬だった。刹那って言葉がよく似合うくらい……本当に瞬間だった。
由麻の手を握る俺の手が……ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ……握り返されたような気がしたんだ。
「……由麻……?」
由麻の顔に目をやる。
特段、変わったようには見えなかった。
相変わらず目は閉じたままだし、動きらしい動きは見られなかった。
そう、思った――
「……由麻……」
――次の、瞬間。
「……ゆー……ま……?」
由麻の口が――動いた。
それまで、力らしい力が入る余地すらも感じられなかった由麻の目が。
少しずつ。
覆った氷が溶けていくように。
開いて……いったんだ。
「……ゆーま……」
「由麻!?」
由麻の声はあまりにもか細かった。
吸入器なんてつけていたから、余計に声が籠っていたのもあるかもしれない。
俺は思わず、耳を由麻の顔に近付けた。
「……来るのが……遅いよ……」
「え?」
何でそんな事を言われたのか、俺には分からなかった。
由麻は、続ける。
ゆっくり。それでも、徐々にはっきりと。言葉を紡いでいく。
「ずっと……待ってた……ゆーまが呼んでくれるの……」
「お前、俺の事が分かるのか!?」
ゆっくり、慎重に頷く。
「分かるよ……ゆーまの事はぜーんぶ……見たし……聞いたから……」
「由麻……俺は……ッ」
涙が、止まらなかった。
由麻が目覚めてくれた。それが嬉しかった。その気持ちは嘘じゃない。
けど、それだけじゃない。
「ごめん……俺のせいで……事故に遭って……身体に戻れなくて……」
申し訳のない気持ちで一杯だった。
「俺のせいなんだ! 俺が……あのキーホルダーを落としたりしたから……お前が!」
喚き散らすように叫んだ。泣いていたせいもあったんだろう。ほとんど、自分でも何て言ってるのかが分からなかった。
それでも、言いたかった。謝りたかった。
そんな俺を見て、由麻は。
「…………ゆーま……」
その時の由麻の顔を、俺は今でも忘れられない。
その時、確かに由麻は――笑った。
「ありが……とう……」
それは、あまりにも小さな、微笑み。
「ゆーま……ゆまね……ずっと見てたんだよ……」
それは、あまりにも弱々しい、微笑み。
「ゆーまは……ずっとゆまの事……考えてくれてたよね……」
それは、あまりにも儚い、微笑み。
「……だからね……」
さりとて。
「……ゆーまが引き止めてくれたから……ゆま……戻って来られたんだと……思うの……」
それは、静かで強く――そして優しい、微笑みだった。
「由麻……ッ」
「……えへへへ……またゆまに会えて……嬉しい……だろー……」
"ゆま"だった時のように、軽い憎まれ口を叩く。
前の俺なら、そんな事ある訳ねぇだろって簡単に突き放してたはずだ。
――けど、もうそんな事が出来る訳がない。
「あぁ……あぁ……ッ! 嬉しいよ……嬉しいさ! 悪いか!」
「あはは……ゆーま……顔グッチャグチャだぁ……」
「グチャグチャだよ! あぁグチャグチャだよ! 誰のせいだと思ってんだちきしょう!」
「……ゆまの……せいじゃない……もーん……」
さっき。俺は、こいつは"ゆま"じゃなくて"由麻"だと言った。
それは、どうやら間違いだったらしい。
こいつは、"由麻"であり……"ゆま"でもあるんだ。
「……ん?」
繋いだままの手を、クイと引っ張られる。
「どうした、由麻?」
「……あのね……ゆーま……」
クイクイと引っ張られる俺の手。
何だ。もっと寄れって事か?
「何だよ。どうしたんだ」
それから由麻は大きく息を吸って。
まだ力が入り切らなくてツラそうな声で。
それでも、いつも通りだとさえ思える、あの明るい声で。
俺の耳元で言ったんだ。
「ゆまに出逢ってくれて……ありがとう」
その言葉を聞いて……俺は、自分を押さえる事が出来なかった。
寝ている由麻をそっと抱き起こし……力強く抱き締めた。
二つの音が聴こえた。
俺の心臓の鼓動。
そして――由麻の心臓の鼓動。
トクントクンと鳴り響く音の重なりを耳にしながら。
ふと、窓の外を見上げる。
真っ暗な闇の中に――ただ一つ。
満月だけが……眩く輝いていた。