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序章 思い出

 数年前の静かな長雨が降る日、僕は幸せを見つけた。長雨の雫が、紫陽花の葉から静寂に包まれた池に滴り落ち、音を立てる。


「雨、そろそろ止みそうですね。」


紫陽花が咲く中、傘を手にした彼女が、こちらを見て何か言いたそうにしている。長雨が静かに止み、雲の切れ間から光が差し込み、彼女の横顔を照らす。僕が立ち止まっていると、彼女は静かに池のほとりに歩いていく。


「あなたもボーッとしていないで、こっちにおいでよ。」


遠慮がちに少し照れながら僕を呼ぶその姿は、どこか幼く儚げで可愛らしい少女のようだった。彼女と行った最初のデート。僕にとってささやかながらも有意義でとても大切な思い出。――けれど、それは一瞬の出来事だった。


恋とは儚く尊いもの。その小さな輝きを集めて描いた物語である。





第一章 とある男の転機




 ジリリーーン。朝六時。けたたましい目覚ましの音に、苛立ちを隠せないながらも起床。朝食の準備を始める。朝食といってもパン一枚にマーガリンを塗ったものと、マグカップにインスタントコーヒーを入れお湯を注いだだけのもの。急いで朝食を済ませ、会社に行く支度をして玄関を出る。最寄りの駅まで自転車を漕ぎ七時半発の電車に乗る。相変わらずの満員電車の中で揺られながら八時に会社に到着。僕の職場はウェブサイトのデザインやロゴのデザインを作る会社。五年目の僕は上司と部下たちの板挟み状態。上司に言えないことをぶつぶつ言ってくる部下。仕事が済んでないことを棚に上げ、僕のせいにして指導という名で怒りをぶつけてくる上司。こんな職場さっさと離れたいと何回も思っていた。そんな中やっとの思いで連休を取れた。その連休に向けて頑張って仕事を終わらせる僕。この連休は自然に囲まれて好きなことするぞーと密かに計画を立案。翌日キャンプ道具やらカメラ、画材類を準備。レンタカーを借り、足早に湖近くにあるキャンプ場へ。キャンプの準備でテントを張り、焚火も起こして、僕は集中して絵を描き始めた。下手というほどでもないが上手というわけでもない。素人に毛が生えた程度のレベル。だが、一生懸命に描くことが好きなのだ。猛暑の炎天下の中、焚火をしていたのと、集中しすぎて水分を摂取しなかったのが悪かったのか、僕は絵を描いている途中で意識を失い、座っていた椅子もろとも大きな音を立ててその場に倒れた。その音を聞きキャンプ場の管理人が走って来て介抱を試みるも僕は倒れたままだった。救急車にて近くの病院に搬送。気が付いた時には病院のベッドの上。


「焚火消さないと。テントも片付けないと。」


 意識が戻っていく中大きな声で叫んだ言葉がそれであった。大きな声で病棟に響き渡ったのか一人の看護師が走って病室に入ってきた。


「気分どうですか?点滴が効いたのかすごい大きな声でしたね。」


 僕の顔色をうかがいながら優しい声をかけてくれた看護師。それが初めて彼女を見た瞬間だった。僕の血圧などを測り、


「主治医の先生呼んで来ますね。意識が戻ったからって動いたらだめですからね。」


 そう言い残して颯爽と病室を去る彼女の姿はすごく頼もしく見えた。主治医の話では、重度の熱中症で意識がなくなったらしい。あと数分通報が遅ければ命にかかわる事態だった。入院が必要とのことで会社に連絡を入れ、事情を説明し、何とか入院。キャンプ場の管理人にもお礼の電話をし、ついでに荷物をまとめて預かっていただけないかとお願いをし、快く承諾を得た。


入院生活の中での楽しみは彼女との何気ない会話。当たり障りのない会話を、嫌な顔一つせずにしてくれる。医師の指示のもと、様々な仕事をこなしている彼女を見て看護師って素晴らしい職業だなとしみじみと感じた。点滴と看病のおかげで一週間という短い期間で退院することができた。彼女にもお礼を伝え、ある決意を胸に抱えながら病院を後にした。




 病院を後にして真っ先に向かったのは、あのキャンプ場。あの時助けてくれた管理人さんに改めてお礼を言いたくてキャンプ場の中を探す僕。まず管理棟に行き、少しふくよかで人の良さそうなおばさまに声をかけた。


「あの~すいません。今お時間大丈夫ですか?一週間ほど前にこちらにてキャンプをさせて頂いたものなのですが…」


「はいはい、大丈夫ですよ~。ちょっと待ってね~。お調べします。お名前よろしいでしょうか?」


「え~っと、雨笠颯真です。苗字が、天気の雨に、竹冠に立つ座るの立つの笠で雨笠、名前が立つに風の颯に、真心の真で颯真です。」


「確認取れました。雨笠様ですね。ああ~うちの主人が救急車呼んだ人だ。この前の電話の件だよね。ちょっと待っててくださいね。」


 おばさんよ、そんなに大きな声で救急車とか言わないでくれ、受付で待ってる人みんな驚いてる顔してますよ~っと喉のここまで出てきて飲み込み


「はい…。」


 と返事をして待つことしかできない自分が少し情けなかった。少し管理人棟の椅子に座って待っていると背の高い初老を迎えたであろう男の人がこちらの方に歩いてきた。スラッとしていてメガネがよく似合う、いわゆるイケてる渋いおじさん略してイケオジの登場だ。


「あなた。この人よこの人。この前の電話の。 雨笠さん!あなた救急車呼んだでしょ。」


「そんなこと大きな声で言うな。可哀そうだろ。」


イケオジは困って座っているこっちを見て、怖がっている小動物に声をかけるような感じで…


「雨笠さん、ごめんな。うちのが、そそっかしくてうるさくて。悪気はないんだけどな~。」


「そそっかしくてうるさくてごめんなさいね。ふーんだ。」


 イケオジの言葉におばさま少しご立腹。


「そんなに怒ることないだろう。事実、雨笠さん困ってたと思うぞ。」


イケオジに優しく諭され、おばさま、僕に対して申し訳なさそうに


「ごめんなさいね~。悪気があったわけじゃなくて…。何と言ったらいいのか…。」


「大丈夫ですよ。ご迷惑をかけたのはこっちですから。ご主人、その節は本当にありがとうございました。あなたが救急車を呼んでくださらなかったら僕の命は危なかった。僕からのほんのお礼の気持ちです。」


 僕はカバンからお金の入った封筒とキャンプ場に来る途中で買った菓子折りを渡そうとすると


「こんなことしてもらうために助けたんじゃねぇよ。雨笠さんも無事で何よりだ。電話では苗字しか伝えてなかったもんな。俺の名前は杉崎哲也ってんだ。よろしくな。こっちは嫁さんの…」


「久美子です~。ぶっきらぼうな旦那でごめんなさいね。これでもね、昔この人レストランで働いてたのよ~。あなた、雨笠さん自分のキャンプ道具取りに来たんだったわよね。」


 ご主人の言葉を遮るようにつらつらと話すおばさまは何かに勝ち誇ったように続けた。


そうだったなと言わんばかりに倉庫であろう所に、走って取りに行く男性。仕事ができる男ってこうも行動力高いのかと呆然と立ち尽くす。その様子を見てすかさず


「あの人すぐに行動に出ちゃうの。おいてけぼりにされちゃったわね。せっかく来てくれたんだからお茶でも準備しましょう。」


 そういうと管理人棟から少し離れた杉崎さんたちが作成したであろう立派なテーブルと椅子に案内されてお茶休憩が始まった。そこで少しお茶を頂きながら話していると、さっき僕のキャンプ道具を取りに行ったご主人と合流した。菓子折りを受け取らないと言い切られてしまった僕は、お茶菓子として菓子折りを提供。杉崎さん夫婦はそういうことなら…と喜んで食べてくれた。その休憩の話の中で、なぜ杉崎さん夫婦がここでキャンプ場の経営をしているのか…自分をどうして助けてくれたのか…自分に何かできることはないか…自分は何のためにここに存在してるのか…色々と自分の中にある不安や焦りを話した。すると杉崎さん夫婦は


「難しいことは俺にはよくわからねぇけどさ…。あんた今、自分の悩みとか不安とか俺達には少しかもしれないが言えたじゃねぇか‼少しずつでいいんだよ。自分の中で、感じたことや思ったことを相手に伝えることが大事なんだ‼その後のことは分からないけどな…。どうにかなるさ。この先人生には、素敵な出会いもあるし、どうしようもない別れもあるんだからな。」


「そうね~。たまにはいいこと言うわ~。また何かあったらね。電話でも何でもしなさいな。」


 この人たちは、自分の両親ではない…。何でこんなにも安心して話せたのだろう…。ふいに一粒の涙が落ちた。自分でも分からないことにこんなにも親身になって話を聴いてくれる。


帰り支度を済ませ、杉崎さん夫婦に改めて礼を伝えると


「よせやい、くすぐったい。雨笠さんとは何か他人の感じしなくてな~。こうやって一緒に茶を囲んで話をしてると、なんか死んだ爺さんと親父のこと思い出すわ。」


「爺さんもお義父さんもいい人だったものね。優しくて。こんなにぶっきらぼうじゃなかったわよね~。あははは。」


 二人の楽しくも優しい気遣いに心が洗われた。お茶を頂いたこともお礼を言い再び封筒を渡そうとするとそのお金はあなたが大事だと思うときに使いなさいと、そっと僕の手を握りカバンに入れるように誘導された。


「それよりもまた、元気な顔を見せにきてくれよな。今度はここで倒れるんじゃないぞ。


 なぁ、次から兄ちゃんのこと颯ちゃんって呼んでいいか…?だめか…?俺のことはそうだなー。哲オジとでも呼んでくれや。それが無理だったら、哲とか哲さんでいいぞ。」


「私はそしたら…。久美おばちゃんでいいわよー。久美さんとか久美ちゃんでも…。これここで取れた規格外の野菜だけど持っていきな。」


お土産までもらってしまって申し訳ないと伝えると、ちゃんと野菜も取りなよっと、久美おばちゃんに釘を刺される始末。


「颯ちゃん‼またなんかあったら来るんだぞ‼待ってるからな‼」


「絶対よ‼」


 と大きな声で、こちらの姿が見えなくなるまで、手を振りながら見送ってくれた。二人の影が見えなくなるくらいまで、こちらも手を振り返した。


「あの子、なんだか誰かさんに似てたわね。」


「言うなよ。あいつ今何してるのかね~。今度電話でもかけてみるか…。よしっ。今日もがんばるぞ~。なっ‼」


 僕が離れてから二人は少し涙ぐんでいた。


哲オジと久美おばちゃんと別れ、我が家への帰路に就く。哲オジが荷物をコンパクトにまとめてくれていたおかげで帰りはすごく快適なものとなった。


帰りの電車の中、僕はふと考えた。今自分は、この会社で、自分のしたいことが出来ているのだろうか…。今この瞬間自分は思う通りに何か行うことが出来ているのだろうか…。


そんなことを考えているうちに自宅に到着。一週間ぶりの我が家。明日は会社。早く寝ないとと思いつつ、パソコンに向かい、今日あった素晴らしくも、なんだか懐かしく思える出会いを記録に残し、明日はどんな一日に自分はできるのかなと考えながら、眠りについた。




 翌日、会社に行くとなんだかピリピリとした変な空気が流れている。みんななぜかひそひそ話をしながら此方をチラチラ見ている。気にしない…気にしない…いつも通りに元気よく挨拶するんだ。不安に負けるな‼


「おはようございます‼一週間以上もお休みをいただきまして申し訳ございませんでした。今日から復帰いたしますので、よろしくお願いします。これみんなで食べてください。」


 職場の空気が少し和らいだ。僕が自分のデスクに行き座って仕事に取り掛かろうとすると同僚や後輩たちが、大丈夫だったか、心配したんだぞと声をかけてくれた。ホッと一息をついたのも束の間…。


コツッコツッ‼高いヒールの音が、フロア全体に響き渡る。背筋をスーッと冷たい空気が流れ、場の空気が凍り付いたように静けさを取り戻す。僕はその人が来た方向を見れずにいた。足音が自分の座っているデスクの目の前で止まる。


「あんた。一週間も休んでくれてありがとうね~。はぁ~。いいご身分だ事。こっちはいい迷惑だわ。あんたの仕事こっちが代わりにしてんだけど…。まぁ、おかげ様で、こっちの業務に支障出て、何にも出来てないんだけどね~。どうしてくれんのかな~。ねぇ、話聞いてるのかな~。あ・ま・が・さくん‼」


 僕のデスクを強く叩きつけ、顔を覗き込んできたその人は、何を隠そうこのWEBデザイン課の課長、である。この課長自分の仕事はこっちに丸投げする、サービス残業の強制、残業時間の改ざん等の指示を平気でやり、指導と称し長時間の自分が満足するまで続くお説教、気にいった部下に対する執拗な声掛けやスキンシップ、部署内での嫌がらせの主犯。部下の手柄を横取りして自分の手柄にする。それでいて、スタイルがよく、美人で世渡り上手、外面はよく上役たちに人気があり、誰も文句を言えない。自分の立場 をいいように使ういわゆる頭のいかれたパワハラ上司なのである。


「この度は、長くお休みをしてしまい、本当に申し訳ございませんでした。今後このようなことが起こらぬように精進してまいりますので何卒よろしくお願いします。」


 この言葉を待ってましたと言わんばかりに


「そう。反省してくれて私もうれしいわ。じゃあさ、さっそくで悪いんだけど、私の仕事代わりに今日中に仕上げといてね。あぁ~、そうそう、課長権限の奴は後でチェックするからさ~。デスクの上にまとめといて。まあ、雨笠君が分かるのはさ、もうチェックするだけにしててよ。じゃあ、私は社長の付き添いでゴルフの接待と、いろんな会社の社長が集まるパーティーに行ってくるから。くれぐれも後のことよろしくねー。」


 と意気揚々とその場を離れる課長。なんで僕がしないといけないんだと思いながら、ぐっと我慢して下を向き、歯を食いしばる。この理不尽に、同僚たちも気まずそうにこちらを見ている。なるほど…。ピリピリしていた空気の正体は、課長が僕の存在に気が付かないように、わざとピリついた空気を作ってくれていたんだなと気づき、みんなに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「みんなごめん。気を遣ってあの空気を作ってくれてたのに…。本当に済まない…。」


 涙ながらに謝る僕。一人の男が肩を叩きながら励ましてくれた。


「俺らもあんま上手にフォローできないかもだけどさ。手伝うよ。いつもお前ばっかやらされてるもんな。俺も半分やるよ。みんなも、ちょっとでいいから、手伝ってくれよな。同期だろ。頑張ろうぜ。俺は相変わらず仕事、昨日で終わらせたもんで。今日はデータ送るだけだし。」


 というこの男。同期の堀之内翔である。


スポーツ万能、頭脳明晰。非の打ちどころのないさわやかイケメンで周りのフォローもしっかりと出来るこの会社になぜ入って来た…というくらいの勿体ない人材である。でもたまに天然なところがある可愛い憎めないやつなのだ。


堀之内と同僚たちのおかげで就業時間までに終わらすことが出来た。残業もなく帰ろうとしたとき、堀之内から声をかけられる。


「なあ、雨笠。」


「どした?今日はありがとうな。」


「この後、時間あるか?話したいことがあるんだ。いつもの店で待ってる。」


「えぇ~。いつものとこって。まさか…。違うよな…。」


「俺らのいつものとこはあそこしかないだろ。じゃあ、待ってるからな。」


「はいはい。電話入れとくか?一応?」


「よろしく。」


 その会話の後、奴は予定済ましてから行くわーと言いながら、足早に去っていった。久々に話ができるのは嬉しいけどと思いつつ、ちょっと気乗りしない状態でそのお店に電話をかける。




プルルルルー プルルルルー ガチャッ




「お電話ありがとうございます。居酒屋ひなたです。ご予約でしょうか?」


「もしもし。俺だけど。今から二人いける?」


「なんだ。颯真か。お客さんかと思って歓迎ムード出して損した。なに?また翔君とくるんでしょう。いつもの席でいいね。それか二階ね。」


 昔は賑わっていたであろう商店街を抜け、自宅最寄り駅の狭い路地を歩いていくと、その店につく。店につくと物静かに座って男が待っていた。何か思いつめた顔をしながら佇む姿を見て近づかないでいると、


「やっと来た。こっちこっち。」


 その席から僕を呼ぶ声がした。その席に座りいつも通り注文しようとすると、


「はい。生一つとハイボール薄め。塩だれキャベツと焼き鳥十種盛り。後からだし巻き卵MIXとだし茶漬けの梅と鮭でしょ。ちょい待ちね。」


 店員がズバリと言ってその場を離れる。注文も聞かないでと思うかもしれないがいつものことだ。


「この店は三歳のころから変わらないな…。なぁ、颯真。」


「そうだなー。母さんが父さんと店を始めてからもう二十年以上か。」


「そんなこと言うとまたおばさんからどやされるぞ。」


「ほんとのことだろうが…。」


 話を聴いて分かる通り、この居酒屋は、僕の両親が、僕が小さいころ二人で始めた店だ。とある理由で今は母一人で切り盛りしている。こじんまりとした店だが、常連さんや観光客で賑わっている。小さいころから、二階の住居で暮らし、大学を機に家を出た。それから、何かあったら必ずといっていい程このお店で新年会やら忘年会をしている。母がやっている居酒屋だ。常連が凄くいい人が多くて毎日が楽しそうだ。そうなるまでに、いろいろとあったらしいが、僕はこの店と一緒に大きくなった。そのせいかどんな問題があったか良くわからない。


でも、はっきり覚えていることがある。


それは、自分が中学三年の最後、自分が高校に合格した次の日。ささやかだがお祝いをしようと、父がスーパーに買い物に行った帰りの運転中、スピードの出しすぎでトラックが曲がり切れず、反対車線からスリップし横転。そのまま父の運転する車に衝突し、一瞬にして車は大破。トラックの運転手は奇跡的に命は助かった。父は車から逃げ出せずそのまま帰らぬ人となった。事故の後の警察の捜査で、トラックの運転手の呼気から、基準値の四倍以上のアルコールが検知されたとのことだった。


 運転手の運輸会社から何回もお詫びの電話が鳴る。運輸会社側は多額の慰謝料と示談金を提示し、事故を内密に処理しようと、こちら側に働きかけた。が、母はそれには応じず裁判を起こすことに。母はその日から寝ることも出来ずしまい。母の精神状態は日に日に悪化していき日々の活力もない状態になっていった。そんな時、母の支えになってくれたのが常連さんたちだった。母が働けなくなってるのを見て常連さんたちが毎日家に来ては母を励ましてくれた。裁判当日。母と一緒に常連さんたちと裁判所へ向かった。もちろん結果は言うまでもなく勝訴。運輸会社が提示していた示談金と慰謝料の倍の金額の請求、運転手に懲役二十年の実刑判決と百万の罰金の両方が課せられた。勝訴したものの、母は胸にぽっかりと穴が開いたようだった。そんな中で母を支えてくれたのはやっぱり常連さんたちの力だった。一人の人は無償でお店を手伝ったり、またある人は、毎回新鮮な野菜を届けてくれたり、またある人は、ずっと母の話を聴いて肯定してくれたり、辛いことを緩和することしかできないが一緒に頑張ろうと何度も何度も語り掛けて慰めて母の気力を保ってくれた。何とか事故のショックから少しずつ立ち直り今も居酒屋を続けている。まだ母は事故のことを思い出しては泣く事があるのだとか…。その時はその当時支えてくれた常連さんたちを思い出して奮起するのだそう。


今まで続けてこられたのは、『常連さん達のおかげ』この言葉が母の口癖だ。何がなんでもお客さんのためにを掲げて商売をしている。


「母さん。俺ら二階に行くからさ。後で呼んでな。」


「自分達でビールとハイボールは作って持っていきなよ。お代は母ちゃんの上の神棚のとこ置いときな。いつもの額だよ。一人四千円ね。」


「おばさ…。陽子さん。いつもありがとう。ちょっとこいつ借りてくね。」


「翔ちゃーん。今おばさんって言いかけてなかったかい?翔ちゃん追加のビールは自腹だよ。いいね⁉」


「ちぇっ。はーい。わかりました。」


「余計なこと言ったな翔坊。陽子ちゃん怒らしたら怖いもんな。俺なんか三時間ただ働きさせられたわ。ずっと洗い場。手が冷たくてしょうがねぇってな。わっはは。」


(やす)ちゃん。あんた奥さんに内緒でまた飲みに来てるの電話かけてばらすよ。あのキャバクラのことも話した方がいいかな~。」


「そりゃねえぜ。たくっ。そこは内緒にする約束だったろうに。軽口叩いてすんません。もう言わないから。なっ。なっ。許してくれよ。」


「そうだね。今日も食器洗いコース確定ね。お願いしますね。安さん。」


「ちぇっ。俺が墓穴掘っちまったい。はあぁ~。」


 その会話で周りのお客さん爆笑の渦へ。僕達は、自分達の飲み物を持って二階に動く。

下から呼び鈴が鳴り、頼んだ料理を取りに行く。そして、やっと今日の飲みが始まった。

どうせろくでもない話だろうと思っていたら何やら重々しい雰囲気で、


「俺さ…。やっぱり言うのやめるかな?悩むな~。」


「どうしたんだよ。いつものお前らしくない。なんだよ。もったいぶらずに言えよ。」


重い口を開けると翔は話し始めた。


「俺さ。社長から直々に課長にならないかって言われた。でもさ…。」


「でもさ…ってなんだよ。よかったじゃん。昇進じゃんかよ。断る理由がねえじゃん。何が引っかかってんだよ。ん……。ちょっと待てよ…。そしたらあのくそ課長どうなるんだよ。」


「そこなんだよな…。俺が昇進したら、降格かもしかしたら…。そんなことにはならないよな…。お前どう思う?」


「厳しいことを言うけど、十中八九後者はないと思う…。くそ課長が上に行ったら大変なことになるぞ。考えてくれるように言ったんだよな?もちろん。言ったと言ってくれ。お願いだから。」


「言えるわけないだろ。確定材料ないのにもっと仕事しづらくなるじゃんか。」


「それはそうだけどさ…。」


 無言の時間が続く。素直にこいつの昇進は嬉しい。辛いときに何回も支えになってくれた。そんな奴の昇進だ。嬉しくない訳がない。でも、奴が昇進することであのくそ課長がもっと上の立場になると今後の職場がもっと地獄になることに。どうすれば…。困っていると下から大きな声で、


「おーい。お代わりはー?」


 母の声につられていくと、カウンターの席に見覚えのある風格の老人が座っている。こちらを見ながらゆっくりと飲むその姿は、優雅に余生を過ごす老人だ。そんなことはさておき、早く飲み物持っていかないと…


「君はここの御子息かね?するとあの人はご友人?」


 急に話しかけてきた老人は、またもこちらに笑顔を向け話しかける。


「そうですが…。あなたはどちら様でしょうか?どこかでお会いしましたか?」


「なに、君たちの話してる声が少し聞こえてきたのでね。話しかけてみただけですよ。気にしないで。ご友人が待っておられるのでしょう。また会う機会がありましたらその時はよろしく。ママさん、こちらにお会計置いておきますね。」


「毎度どうもありがとうございます。千円です。」


「君と話せてよかった。また会いましょうね。」


 颯爽と店を出ていく老人の後姿を見ながら


「はぁ~。」


 と困り顔で立っていると、


「何突っ立ってんの?さっさと二階に戻りな。」


 と母に言われ二階に戻る。二階に戻ると静かに携帯を見ながら待っているやつの方に酒を運んだ。


「なんか変な爺さんに声かけられてさ。待ったろ。はい。ビールな。」


「ありがと。明日さ、やっぱ社長のとこに行って話してくるよ。昇進断りに。」


「なんでそうなるんだよ。じゃあ俺も明日社長のとこに一緒に行ってやるよ。昼休みでいいか。」


 その話を境に会社の話は出なくなった。彼女ほしいだの。金もっと増えねかなだのろくでもない話をして楽しく飲んだ。飲み終わり酔った翔をタクシーに乗せタクシーの運転手に、


「この住所のとこまでお願いします。はいこれ。」


と携帯で住所を見せ、お金を渡し無事に家まで送り、自分は居酒屋に戻る。さっきの老人のことが気になったので、


「ねえ。さっき俺に話しかけてきた爺さんって誰?どこかで見たことあるんだけど…。」


「あぁ~。あの人ね。冴島さんって言ったかな。私も詳しくは知らないけど古くからの常連さんでね。あまり自分のこと話されない人なんだけど…。そういえば、どこかの社長さんって言ってたかな。それ以外は知らないわ。母さんも。そんなこといいから。今日泊まっていくんでしょ。片づけ手伝いな。」


「うん。分かったよ。暖簾しまうね。食器は洗うから。」


「ありがと~。助かるわ。それ終わったら寝ていいから。じゃあ母さんはほかの事して寝るから。おやすみ~。」


 そういうと母は、他の片づけをしに行った。 僕は頼まれた片づけをして、戸締りをした後、二階に戻り布団を敷き、目覚ましをかけ床に入った。冴島さん…。どこかで聞いたことあるような…。明日も何か波乱の予感がする。


 翌朝、珍しく目覚ましが鳴る前に起きることが出来た。布団を畳んで押し入れにしまい、仏壇に手を合わせ、一階に降りると厨房から良いにおいがしてきた。


「いつもは、起きてくるのぎりぎりなのに。今日は珍しく起きてくるの早かったのね。朝ごはん出来とるよ。」


「おはよー。母さん。ごはんありがとー。朝ごはん食べたらすぐ出社するわ。」


「分かった。じゃあ、朝ごはん食べよう。はい、座って。いただきます。」


「いただきます。」


 食卓を母と囲み、久しぶりのちゃんとした朝食。炊き立ての白いご飯に、焼き鮭、ほうれんそうのお浸し、いつもの甘い卵焼き、キャベツとわかめの味噌汁。温かな母の料理を食べ、朝のニュースを見ながら、小さな朝のひとときを母と過ごし、僕もこんな時間を一緒に過ごせる人が出来たらなと少し思った。


「ごちそうさまでした。はぁ~。美味しかった。」


「あんたもこんなご飯作ってくれる人捜しなよ~。フフッ。そんな人いないの~?」


「朝からそんな話…。もう会社行くから。朝飯ありがとう。また来るから。」


 食器を片付け、テーブルを拭き、出社の準備をして、玄関を出る。


「じゃあ、行ってきます。母さん体に気を付けてね。」


「キャンプ場で倒れた人に言われたくないわ。フフッ。嘘よ嘘。そうね。あんたより体丈夫にできてるから大丈夫よ。心配してくれてありがとう。急に連絡してくるんじゃなくて、余裕持って連絡よこしなさいよ。」


 商店街を抜けて、最寄駅から電車に乗り、会社に出社。デスクに座り、同僚たちに挨拶、翔の所に行き、


「おはよう。昨日はありがとうな。で、結局社長のところ行くのか?」


「おはよう。今日の昼休みな。」


 そう言っていると、


「おっはよーございます。」


 元気な声であの課長が出社して来た。さては昨日、ゴルフ接待うまくいったな。その後、パーティーとはいいように言ってたけどあれは打ち上げだったなとみんなが察した。


「おはようございます、課長。今日はやけにご機嫌ですね。何かあったんですか?」


さすが出世頭。翔が切り込んで聞いてくれた。みんな聞きたくないことを聞いてくれてサンキューと思いながら仕事に就く。


「聞いてくれる?昨日さ。ゴルフあったじゃん。接待の。その後のパーティーでさ。社長も行くはずだったんだけど、急な用事で社長が行けなくなって、私だけ参加することになって。いろんな社長さんとお話しできて良かったなって。」


「そうだったんですね。良かったですね。」


「それでね。いろんな社長さんから名刺貰っちゃった。社長さんに渡してくださいって。社長にあのあと渡しに行こうとしてたんだけど忘れてて。明日でいいやって。なんか私がもらったことにしようってなった。」


 はぁ~。何言ってんだ。このあほ上司は。後で鉄拳制裁くらえと思いながら、仕事に没頭した。昼食の時間になり、翔の所に行くと決意の表情で待っている。


「ほら、行くぞもう。」


「あぁ。分かったよ。よし。行くぞ。」


 エレベーターに乗り社長室のある階まで行き、社長室までの長い廊下を歩いて向かう。

社長室の前につき、


「はぁ~。緊張してきた。大丈夫かな。」


「何がだよ。決意固めたんだろ。ノックするぞ。」


=コンッ コンッ=


「失礼します。社長今よろしいでしょうか?」


「どうぞ~。」


 ガチャッ。意を決して、社長室のドアを開け中に入る。社長室の椅子にはなんかどこかで見たことある人が座っている。誰だったかなーと考えていると、


「社長。お休みの所失礼いたします。WEBデザイン課 堀之内です。本日は昇進のことでお話がありまして。今お時間よろしいでしょうか。」


「同じくWEBデザイン課 雨笠です。社長にお話がありまして同行させていただきました。」


「はいはい。堀之内君ね。昇進の件でお話ですか…。」


「はい…。アポも取らずに申し訳ございません。」


「そっちの君は、雨笠 颯真君だったかな?お母さんの店はいいお店ですね。毎回うかがわせていただいてますよ。昨日はお話してくれてありがとう。」


 その言葉を聞いて思わず、


「ああ~。昨日のダンディーな感じのおじいさん。」


「お前社長に対して失礼だろ。てか社長と気づかずに話してたのか。」


「だって人の名前とか覚えるの相当苦手じゃん。俺。」


「限度ってものがあるだろうが。この馬鹿。」


「バカとは何だバカとは。この唐変木。」


「なんだとー。」


「なにをー。」


「面白い二人ですね。はっはっは。ところでそんな二人が僕に何の用かな。話次第では厳しいことになるよ。この後会合があってね。手短に頼むよ。まぁ、大体の予想はつくけどね…。」


 温厚そうな雰囲気の中にどこかキリっとした威厳のある空気が流れている。その中で翔は話し始めた。如月課長のパワハラ・モラハラ・セクハラの数々。自分が昇格した後の部署の雰囲気や課長がするであろう愚行をツラツラといい始めた。最初は驚いていた社長も段々と納得しながら話を聴いてくれていた。話している翔の方ではなくこちらを見て社長はこう言った。


「君はどうしたいんだい?何か私に伝えたくて来たんだろう?話してほしい。」


「僕は、堀之内に昇進はしてほしいです…。でもあの課長がこのままこれ以上のポストに行くのは我慢できません。僕はあの人に散々いろんなことをされてきた人間です。僕さえ我慢すればと思ってやってきました。でも、僕が休んでもあの人は他の奴にも目を付けて自分のやりたい放題でした。そんな奴は、僕としてはもう従いたくありません。あの課長、社長あての名刺も懐に入れて…。僕の処分はどうなっても構わないです。堀之内だけは昇進させてやってください。」


「ちょっと待ってくれ。昨日の話かねそれは?この前の会合の時も何か不自然だったんだよ。犯人は如月君か。他会社の社長さんから何度連絡しても社長に繋がらなくてと相談されててね。なるほど。いい話を聴いたよ。」


「いい話といいますと…。」


「まぁまぁ、隣の秘書室に少し隠れてなさい。う~ん。そうだな。40分ってとこかな?」


「はい…。」


秘書室のドアを開けようとすると、


=コンッコンッコン ガチャッ=


「失礼します。冴島社長。あら、お話し中でしたか…。コーヒーをお持ちしようかと思いまして…三人分でよろしかったですか。」


「いいところに来たな。コーヒーは大丈夫だ。ありがとう。 長谷川。二人を秘書室に。」


 長谷川さんに連れられ、社長室を出て隣の秘書室に隠れる。二人で何が始まるのかそわそわしながら隠れていると、第一秘書の長谷川さんが、


「私も秘書室から聞こえておりました。後は社長に任せて、 こちらで紅茶でも飲みながらお待ちください。」


 この後何が起こるのか予想出来ているかのようにこちらに語り掛け、ゆっくりと と最高級茶葉の紅茶を入れてくれた。社長室から何か聞こえる。


 =プルルルルー プルルルルー=


 社長がどこかに電話をかけている。誰にかけているんだと思った瞬間、


 =ガチャッ=


『はい。こちらWEBデザイン課。課長 如月美織が承ります。』


「如月君かね。私だよ。冴島だ。昨日は接待ご苦労様。」


『社長。いえいえこちらこそご一緒できて良かったです。どのようなご用件でしょうか?』


「今からちょっとだけ社長室に来れないかな。少し君に話をしたくてね。日ごろお世話になってるから。どうかね。」


『わかりました。今からお伺いいたします。』


「急がなくていいから。では後ほどね。」


=ガチャッ ツー ツー ツー=


電話が切れた。素早い動きで長谷川さんはモニターを設置。電源を入れ、何かを確認しモニターから繋がっているイヤホンを僕と翔に渡す。するとにっこりとした表情で、


「多分そろそろだと思いますので…。こちらを付けてもう少々お待ちいただけますか。」


=ガチャッ=


秘書室と社長室をつなげているドアが開き


「長谷川。急ぎで頼む。よろしく。」


長谷川さんは何か小さなものを手に持ち、


「はい社長。早急に。いつもの所に設置しますので…。後はお願いします。」


大きな観葉植物の鉢に何かを置く長谷川さん。去り際に社長が、


「分かってるよ。そっちも頼むよ。」


「はい。承知しました。」


 長谷川さんが帰ってきて


「いつもながらよく社長室が片付いてますね。手なんか降っている場合ですか。あの社長。」


翔が訊かずにはいられなかったのだろう。重い口を開き、


「あの~。もしかしてカメラですか。監視カメラ。」


言葉がおかしくなってるぞ~っと、ここまで言いかかってた言葉を飲み込み自分も聞こうとすると、


「ええ。防犯カメラですよ。防犯カメラ。社長の身に何かあってからでは遅いですからね。一応念のためです。何かあったら、こちらも即座に動くことが出来ますしね。」


「あの社長に限ってそんなことはないと思いますが。あの方柔道帯持ちですし。あんなに小柄ですけど。モニターでも見て紅茶をどうぞ。」


一瞬の出来事に何があったか分からず仕舞いの僕たちを置き去りにして、モニターの奥で何かはしゃいでる社長。子どもみたいな人だなと思い三人で顔を見合わせて少し笑ってしまった。これから何が始まるのだろうか。不安いっぱいの気持ちでモニターを見ながら待つことにした。

それから数分後課長の嫌味なヒールの音が社長室のドアの前で止まる。


=コンッコンッコン= 


「如月君かな。はいりたまえ。」


=ガチャッ=


「失礼します。社長何かございましたでしょうか。」


「いやいや。特に話はないのだが…。まぁ、かけたまえ。」


「はぁ…。」


何のことで呼ばれたか分からない様子で椅子に腰かける課長。


「話というのはだね。君の昇進についてなんだが…。君の代わりに私は堀之内君と雨笠君を課長と課長補佐にしようと思っている。それでだね。君の意見を聴こうと思ってここに呼んだんだ。」


「そうだったんですね。私の昇進はどうなるのでしょうか?」


「それはだね。もちろん。昇格しようと思ってたよ。デザイン部の統括部長にね。ある社員たちが勇気を出して君の事を教えてくれなかったらね。」


「何のことでしょうか?私にはさっぱりでして…。」


 冷や汗をかきながら話をする課長。淡々と課長は話を続けた。


「月一でね。情報収集を兼ねて警備部と人事部と一緒に社内の防犯カメラを見る機会があってね。昨日の朝の映像なのだが…。一緒に見ようか。」


社長はパソコンを開き、防犯カメラの映像を映し出した。それは昨日の朝課長が僕に対して暴言を吐いている場面、その後無理な業務を行わせている場面だった。


「2か月以上前にやめた白井君。君は覚えているかね?君の課にいた新卒で入った今年2年目の可愛らしい女の子。その子が辞める2か月以上前、相談をしにわざわざ有休をとり、私の自宅に電話をして訪ねてきてくれてね。教えてくれたんだ。君の事を。毎日課長に何もしていないのに怒られていますって。最初は疑ったよ。君はそんなことはしない人だって。でも、そのあと何回も私の家に来ては録音した音声等を聞かせてくれてね。でも、彼女は裁判はしたくないとの事だった。この会社が好きだからって。僕はね、決定的な証拠をつかむまで待ってほしい。そう言って彼女に次の職場を紹介し、会社のお金ではなく自分の預貯金から謝罪として受け取って貰って和解した。こんなことが起こらないようにって。」


「さぁ、何のことでしょう?それと私の人事と何が関係あるのでしょうか?」


 開き直った様子で社長に食らいつく如月課長は平然とした様子でまるで自分は何もしていないようなテンションでそこに立っている。

僕はいてもたってもいられなくなりそうになり、秘書室の扉を開け、社長室に入ろうとしたところを、長谷川さんに止められた。何でこんな奴がのうのうと仕事が出来ているんだ。沸々と怒りが込み上げてくる。


「我慢できない気持ちはお察しいたします。もう少々お待ちください。」


 長谷川さんに引き止められ座っていたソファーに座り込む。


「あと、君は私宛の沢山の名刺を僕に渡していないね。残念だよ。そんな善悪の区別がつかない者に、課長を任せていた。僕はなんと愚かな男だったか。」


 そういうと社長は大きな溜め息をつきながらこう続けた。


「人事と何が関係あるのかと君は言ったね。君はまだ自分の立場をよく分かっていないようだ。僕の口からハッキリと言わせていただくよ。君は今日限りでこの会社を解雇とする。また、このようなことをした人間をこの業界にのさばらせる訳にはいかない。他の会社の社長にもこのことは僕から伝えておく。以上だ。去りたまえ。今日はそのまま帰宅しなさい。体調不良ということにしておくよ。君の私物は後で秘書に郵送させるから。」


「ちょっとお待ちください。なぜですか。社長。納得できません。ちゃんとした説明をお願いします。」


「説明か~。うん。じゃあ、記者会見を開くことにするよ。この映像と一緒にね。それで文句はないかな。如月君。」


社長が指をさした先には大きな植木鉢。その中には小さな監視カメラがあった。それを見た課長もとい元課長、如月美織は青ざめた表情。


「……そんなはずは……。」


先ほどまで余裕を浮かべていた表情が崩れていく。


額から流れる汗を隠そうとするように、如月は震える指で髪を耳にかけた。


口から魂を出してその場に座り込んだ。


 =ガタンッ=


大きな音が鳴り響く。


「こんなの嘘だー。肖像権の侵害で訴えてやる。」


 その言葉が聞こえた途端に、長谷川さんとほかの秘書が、社長室に続く秘書室の扉を開け中に入る。


「お客様。お話はお済みでしょうか。これ以上大きな声を出されますと、不法侵入及び業


務妨害として、こちらも警察を呼ばないといけませんが…。」


如月は両腕を長谷川さんに掴まれ、覚えてろよと捨て台詞を吐き、連行されその場を後にした。僕と翔は、その場に留まる事が出来ず、社長室に駆け込んだ。


「社長。お怪我はありませんか?」


「痛いところとかはありませんか?」


 僕たちが、社長の心配をしていると後ろから


「あれほど。秘書室で待っていてくださいとお伝えしましたのに…。あなた方は…。」


冷ややかな目で話しかけてきたのは長谷川さんだった。物音もなく背後にいたその人に驚きを隠せないでいると。


「いいじゃないか。僕のことを心配して駆けつけてくれるのは嬉しいことじゃないか。


感心出来る行動ではないがね。ところで長谷川、あの困ったさんはどうしたのかね。」


「社長。お話してもいいので…。」


「二人のことは気にせず話しなさい。彼らにも一応、知る権利はあるのだから」


「はい。では。話させて頂きます。警察の方が到着されるまで別室でお待ちいただいていたところ、疲れが出たのか眠ってしまわれまして。 ご自宅だとお気づきになられた際に、ちょっとこちらに不都合なことをされかねませんので、社長の知り合いの警察の方にご協力を頂きまして、今は、拘留という形になっております。」


 淡々と説明する姿に、感心と恐怖の二つの感情が芽生えたのは言うまでもない。


「はぁ~。またお前はことが大きくなりそうなことをしてくれたな。まぁ、そうなるだろうとは薄々思っていたが…。長谷川。誰に言った?署長か?それとも…あいつか?」


「その件に関しましてですが。後でご自分で確認を。社長。その話はまた後程でこちらのお二人にその後のお話をされてはいかがでしょうか?」


「こやつめ~。ぬけぬけと。」


 普段の社長はもっとフランクなんだなと二人の様子を見て思った。


「君たち、待たせてしまって申し訳ない。ということで何だったかな。これで君たちが昇進することの不安材料もなくなったわけだ。安心して昇進してくれるかな?」


「僕の昇進は初めてあの課長…。」


「元課長です。もうこの会社には関係ございませんので。」


 コホンッ。小さな咳払いをして長谷川さんが訂正する。


「僕の昇進はあの~如月さんとの会話で初めて伺ったのですが…。」


「あの時決めたからね。冗談だよ。君がやつの仕事をカバーしていたことを沢山の人から聞いていたものでね。堀之内君含めね。昇進するいい機会だと思ってね。堀之内君にはあらかじめ言っておいたんだ。内緒にしておくようにって。お母さまにも話は通してね。」


「そうだったんですか…。」


 翔の方を向くとこっちを見てニコッと微笑み返してくる。母も母だ。何がよく知らない人だよだ。そこまで話知ってたんだったら教えてくれてもよかったのに。一人で静まり返っていると。


「だから先にお伝えした方がよかったって言ったじゃないですか。」


「そうは言ったってだな。お母さまから聞いていた性格だと断られる可能性の方が大きかったからであってな。聞いているのか。(よし)(てる)。」


「聞いています。聞いていますよ。父さん。あっ。失礼しました。社長。」


 なんと、この二人親子だったのかーッと驚きを隠せずにいると切り込み隊長がここぞとばかりに切り込む。


「お二人は親子だったんですね。苗字が違うような。込み入った話を聴くようで申し訳ないのですが…。」


「こいつはな。亡くなった女房の苗字を使っているんだよ。まぁ、その方が楽だそうだから別に私も気に留めていないが。一緒に住んでいるしな。」


「そうですね。四六時中一緒ではありますね。っと、そんなことはどうでもよくてですね。この方々の昇進の話ですよ。社長。」


「そうだな。一か月後堀之内君は課長へ。そして雨笠君。君は課長補佐に昇進。元課長は解雇ののち、裁判を執り行い刑の執行だ。これでこの話は終わりだ。以上。それと明日から課長代理で義照が業務に入る優秀な男だ。何でもさせて構わないからね。」 


あんなに悩んでた問題が颯爽と解決した。


まるで突風が吹き荒れ、巨木を飛ばし、何事もなかったかのように。その場に嵐の後の静けさが残る。その後の対応は迅速であった。緊急記者会見がその日の二十時過ぎには行われどういった経緯で何人もの優秀な人材が辞めていったか、どうしてそのようなことが起こりえたのか、すると、他の重役たちにも火の粉がかかった。社長は煙も立たないような方なので、ひたすらに、会社に残る社員のために頭を下げ続けた。その姿勢にメディアも、辞任を迫ろうとするようなことは何一つなかった。


 翌日から、すごく働きやすいWEBデザイン課に生まれ変わった。定時退社は当たり前、無理な業務はなく、自分たちのペースで仕事が回り、楽しく仕事が出来ていた。一か月で改革がとてもスムーズにされ、業務もたまらない、この課本来の姿となった。僕たちが昇進してからも、継続的に長谷川さんは色々と知恵を貸してくれた。そんなWEBデザイン課の姿を見て、ほかの課や部にも改革が起こった。ほぼほぼ、秘書課の長谷川さんによる改革だ。新たなマニュアルの作成や、業務の効率化、リモートワークの推奨、WEB会議への切り替えなど様々な改革が行われた。会社全体がみるみる改革されていった。


 月日は流れ、早くもあの改革から二年が過ぎようとしている。如月元課長は強要罪、脅迫罪、名誉棄損罪、侮辱罪などいろんなものが余罪として多数あり逮捕。無期懲役とまではいかないが、執行猶予のつかない実刑判決が課され、 被害者一人一人に数十万から数百万の損害賠償と慰謝料の請求があった模様。まぁ、僕にも数十万の入金があった。


 会社の中であったことといえば、社長が会長に就任。第一秘書であった長谷川さんが異例の出世で、専務になり、その後社長へ。白井さんのWEBデザイン課への復帰。翔はデザイン部統括部長に。僕はWEBデザイン課課長に昇進。面白い変化といえば会長と職場外で飲み友達に。母さんは相変わらず元気で居酒屋を経営している。母はアルバイトを2名雇った。新しくひなたに入ったバイトの子たち育斗君と陽菜ちゃん。最初、育斗君はビールの注ぎ方も分からず、料理も運ぶことしかできなかったが、料理も徐々に作れるようになり、常連さん達からも『あの子は元気がいいね』『見ていて気持ちがいいね。』と褒められること嬉しいと言って笑ういい子だ。陽菜ちゃんは、以前も居酒屋でバイトをしていたのか初日から違和感なく接客できる子で常連のみんなから『働き者だね。』と褒められると、恥ずかしいのか顔を真っ赤にしてキッチンに逃げ込むこともしばしば。育斗君とは正反対で淡々と仕事をこなす完璧人間。声は小さいがよくお客さんのことを見てくれるいい子だ。ちょくちょく自分たちも店に顔を見せるため仲良くなることが出来た。常連さんたちが育てた二人に母もご満悦の様子。バイト達よ母を支えてくれ。



ここまでこれたのは会長のおかげだと思い頑張って仕事をこなす日々。そんな日々を過ごしているうちに翔から飲みの誘いが来る。会長も飲みに行こうとのことで声をかけとくようにと言われた。いつも通り母さんの店を予約。三人で土曜夜八時に集合だと伝えると、翔から四人に変更してほしいと言われ四人に変更。会長に、四人に変更になったことを伝えると五人に変更してほしいってことだったので五人に変更と母に電話で伝える。すると母は何か企みがわかっている様子で電話を切った。


 当日夜八時前に、店につくといつもの常連さんたちが早速よろしくやっていた。僕がちびちびハイボールの薄目を飲んで待っていると、翔と翔の影に隠れて小さな可愛らしい人がひょこっと見えた。あの白井さんだった。そういう事かと薄々感じてた僕は席に二人を呼び静かに座らせた。その後、会長さんも到着し、なんと長谷川社長まで来てしまった。「育斗君。俺はいつものセットね~。(ふう)() はどうする?何か軽めのもの頼むか。」


「私が先じゃないでしょ。会長とか社長とかが先でしょ…バカ。社長、会長ごめんなさい。お先にどうぞ。この馬鹿がすいません。」


 いつも俺が突っ込むやつを、と思っていたら会長が。


「颯真君のいつもの奴とられちゃったね。はっはっは。じゃあ私は、板わさと芋焼酎の黒霧島水割りかな?義照は何にする?」


「そうですね。颯真さんがいつも言うのとっちゃいましたね。フフッ。僕はですね。颯真さんと同じくハイボール薄めで。食べ物は鶏の唐揚げとみんなでつまめるサラダを。」


「そうなんですか。すいません。初めて皆さんと飲むので緊張してて。最後私ですね。じゃあ、レモンサワーと食べ物はえっと何がいいかな。うーんと。あっ。揚げ出し豆腐で。」


「えっと、翔さんがいつものセットで。冴島さんが板わさと黒霧島の水割り。長谷川さんがハイボール薄めで鶏の唐揚げと何かサラダ的なものですね。じゃあ、シーザーサラダでどうですかね?」


「それで僕は大丈夫ですよ。皆さんもいいですか?」  


 みんなの承諾を得て注文の確認が進んでいく。


「それと楓香さんはレモンサワーと揚げ出し豆腐ですね。少々お待ちください。」


「オーダー入ります。生ビールと塩だれキャベツと焼き鳥十種盛り。だし巻き卵MIX。黒霧水割り、板わさ。ハイボール薄め、鶏の唐揚げ、シーザーサラダ。レモンサワーと揚げ出し豆腐。颯真さんはハイボール薄めお代わりです。」


「はいよ~。育斗君飲み物お願いね。」


育斗君が伝え終わると、中で陽菜ちゃんと母が料理を作る。


料理と酒を待つ間に 翔と白井さんが話し始めた。いつもの奴かと社長と会長が顔を合わせる。


「いつもそれじゃんかよ。」


「何文句でもあるの?陽子さんに昨日のこと言うわよ。いいのね?」


「ごめんて。それだけは勘弁。」


「なに?楓香ちゃんまたこいつなんかしたのかい。はい、料理お待ち。」


「お待たせしました。たくさん食べてくださいね。」


 料理を運んでくれる陽菜ちゃん。 自然と会話に入っていく母親。この人は二人のこと知ってて俺に言わなかったな。社長と会長もなぜか知ってるみたいだけど。俺だけ知らないのかい。フーン。蚊帳の外かい。フーン。じゃあ、翔が呼んだ理由はそう言うことじゃないのか。何で重要な話がここかな。もっと場所あったろうに…。そう思っていることが母に伝わったのか僕の方を見て…。


「フンッ。悪かったね。こんな店で。あんたを驚かそうと思って。この二人が企んだんだよ。こっそりと冴島さんたちにも協力を仰いでね。」


「陽子さんそれは内緒の方向だったのに…。」


「ごめん、翔ちゃん。ビール一杯おごるからさ。許して。」


 もう…と言わんばかりの空気が流れる。育斗君も溜め息をついて母を見ている。その空気を変えるように冴島さんと長谷川さんが口裏を合わせたように口を開いた。


「あのですね。今日ここに集まったのは、堀之内君と白井さんから何か報告があったみたいで。ねえ父さん。」


「そうだな。そうなのだよ颯真君。三人だと話しにくいというから私たちも同席したのだよ。」


 そういうと、翔の方に目で合図をする二人。


翔が何か言おうとしているのを遮り、口を開いたのは白井さんだった。


「颯真さん。今日はお伝えしたいことがありまして…。」


「楓香。ありがと。この先は俺から言うわ。俺たち今年の秋に結婚することになりまして…。改まって言うと恥ずかしいな。どうやって伝えたらいいか。冴島さんと長谷川さんに相談したら、ここがいいんじゃないかって。それで陽子さんに連絡して土曜日にここで話ができるように席をとっててもらったんだ。で、俺が予約すると何か企んでるんじゃないかって、お前が勘ぐって気を遣うんじゃないかって。だからお前に予約取るようにして貰ったんだ。」


「薄々わかってはいたけどな。まあ、お前白井さんが職場に戻ってきたときそわそわしてたもんな。また、悪い癖出て言い出せなかったんだろうけど。緊張しすぎだぞ。」


ホッとしたのか翔は涙を流してありがとうを連呼していた。それを笑顔でなだめている白井さん。温かな表情で見守る社長と会長。やっと言えたのかいという表情でこっちを見ている母。常連さんもおめでとうと祝福してくれていた。ひとしきりお酒と母が作ってくれた料理を食べ、落ち着いたころ会長と社長がお開きにしようと言いお会計をしようとしたとき、ここのタイミングだ。やっと話せると思い話すことにした。


「僕からもちょっとご報告があって…。実はこの会社辞めて、フリーでWEBデザインやロゴ制作の仕事をしようと思いまして。」


「まじか…。お前やめるんか…。」


「そうなんですか…。悲しいです…。」


「なぜ辞めるのかは聞きませんが…。何かあったら連絡してくださいね。」


「わしと一緒に新しい会社でも作るか?冗談だよ冗談。その気になったら連絡してくれよ~。」


 みんな唐突な僕の言葉に驚きながらも、しっかりと受け入れ、反対することもなく自分の決めたことに賛同してくれた。自分も含めいつも以上に酒を飲み、食事をし、楽しく騒いで今日の飲み会を各々楽しんだ。一番に伝えたい人たちに自分の進退について伝えることができたことに対してすごくほっとしている自分がいた。


 次の日。辞表を提出しに社長室へ。誰よりも足早に。誰よりも早く。社長室に入ると昨日の飲み会のメンツが揃っていた。母さんまで…。辞表を提出しようとすると長谷川社長が口を開いた。


「さて。一応辞表は受け取りますが…。本当にこの会社を辞めてしまわれるのですか?」


「はい。長い間自分みたいな人材を雇っていただきありがとうございました。自分はこの会社を辞めてフリーのWEBデザイナーになりたいと思います。この決意は揺るぎません。」


「そうですか…。だそうです。女将さん。冴島会長。」


「そうなのねー。結局お前は決めたことは曲げないんだから…。」


 あきれた声で話す母。それを見て重い口を開く会長。


「そうか。雨笠君辞めちゃうのか。残念だ。私の顔を覚えてもいなかった青年がねー。まあ君が決めたことだ。こちらが止める理由はないな。」


 なぜ?なぜだ?何でお前がそこにいる。堀之内に、白井さんよ。確か二人有給だったよね。


「あぁ~。翔ちゃん。本当に颯真さん辞めちゃうよ。とめなくていいの~。うえ~ん。」


「楓香泣くなよ。一緒にやってきたんだぞ。いろんなこと…。止めたいけど…。あいつが自分で決めたんだから…。うわぁ~ん。」


二人とも泣き始めて収拾がつかなくなり、みんな涙目になるも、重い空気を押しのけて社長が口を開く。


「えっと早速人事の話なのですが…。雨笠WEBデザイン課課長。辞令を言い渡します。今年の9月をもって退職とし新たなあなたの旅路を祝福します。そして新しいWEBデザイン課課長には白井楓香さんにお願いしますね。」


 急な発表にその場は騒然とした。泣いていた二人も涙が引っ込み、驚いたのか大きな声で。


「えぇ~。何で私が後釜みたく決定してるんですか?何か悪いこと企んでます?社長。何かおっしゃってください。」


「この人事はですね。一番適任者は誰かと私と会長そして理事が判断して決めました。何か問題でも?」


 しれっと人事が決まり唖然と立ち尽くす。翔もだろうなと言わんばかりのまんざらでもない顔。それを温かく見守る周り。


「翔ちゃん。さては知ってたな。何でそういう大事なことを黙ってるのかな?ねぇ、翔ちゃん聞いてるの。もうっ…。分かりました。辞令受け取らせていただきます。 」


 渋々、人事を受け入れる新課長。周りから祝福と笑いが贈られる。それから退職する月までしっかりと業務の引き継ぎと自分の新しい仕事に向けての準備を行い9月を迎え退職することとなった。退職の日。みんなに見送られて花束までもらい少し涙があふれた。


 さてと、心機一転。そうだ。長らくあそこに行ってないな。お酒と何か手土産持って近況報告に行こう。元気にしているかな。

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