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偏差値は戦である  作者: 受験孔明
第三部 決戦と開幕〜高校受験編
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第三部 第2話「不確定」

# 第三部 第2話「不確定」


 帰りの飛行機は、行きよりも静かだった。


 低いエンジン音だけが、機内に続いている。


 窓の外には雲海が広がっていた。


 白い雲。


 その上に、夕方の光が薄く乗っている。


 どこまでが空で、どこからが地上なのか、よく分からない。


 隣の席では、同じ英修館の生徒が参考書を開いていた。


 だが、ページはほとんど進んでいない。


 前の列では、疲れ切ったように眠っている生徒がいる。


 後ろの席からも、話し声はほとんど聞こえなかった。


 試験が終わった後特有の空気だった。


 騒ぐほど元気はない。


 安心するほど結果も見えていない。


 だから、全員が黙る。


 悠真は窓の外を見ていた。


 何も考えないようにしている。


 だが、考えてしまう。


(あの問題)


 最後から二番目の大問。


 一瞬だけ迷った。


 条件の切り方。


 別解の可能性。


 時間配分。


 見直しの順番。


 あそこで手を止めた数十秒。


 それが、頭の中で何度も戻ってくる。


(取れたか)


 分からない。


(落としたか)


 それも分からない。


 結局、何も分からなかった。


 だから厄介だった。


 明らかに取れなかった問題なら、切り替えられる。


 完璧に取れた問題なら、安心できる。


 だが、一番面倒なのは、取れたかどうか分からない問題だった。


 正解かもしれない。


 間違いかもしれない。


 部分点があるかもしれない。


 採点者に伝わらないかもしれない。


 その曖昧さが、思考を何度も同じ場所に戻してくる。


(……意味ないな)


 悠真は目を閉じた。


 考えたところで結果は変わらない。


 それは分かっている。


 だが、人間は分かっていても考えてしまう。


 とくに、結果がまだ出ていない時ほど。


 機体がわずかに揺れた。


 雲の下へ降りていく。


 窓の外の白が薄れ、地上の輪郭が見え始めた。


 海。


 街。


 道路。


 空港の灯り。


 飛行機が滑走路に触れる。


 衝撃。


 減速。


 体が前に引かれる。


 現実に戻された気がした。


 地元の空港。


 見慣れた案内表示。


 見慣れた言葉。


 見慣れた空気。


(戻ったな)


 そう思った。


 だが、本当は戻っていない。


 戦いは続いている。


 ただ、場所が変わっただけだった。


 翌日。


 学校。


 教室の空気は、拍子抜けするほどいつも通りだった。


「どうだった?」


「受かった?」


「難しかった?」


 何人かに聞かれた。


「分からん」


 悠真はそう答えた。


 実際、その通りだった。


 手応えはある。


 だが確信はない。


 悪くはない。


 だが安全ではない。


 合格している可能性もある。


 落ちている可能性もある。


 それ以上のことは、何も言えなかった。


「ふーん」


「でも行けたんやろ?」


「すごいやん、県外まで受けに行くとか」


 周囲はすぐに別の話題へ移っていく。


 部活。


 ゲーム。


 定期テスト。


 先生の雑談。


 昼休みの約束。


 普通の中学生の日常。


 その中にいる自分が、少しだけ不思議だった。


 昨日まで、県外の受験会場にいた。


 全国から集まった受験生の中にいた。


 灘、開成、東大寺、西大和。


 そういう名前を現実の受験生たちの会話の中で聞いた。


 附設やラ・サールを当たり前に受ける者たちもいた。


 青雲を押さえにする者。


 早稲田佐賀を日程で組む者。


 弘学館を確実に取りに行く者。


 九州の戦いだけでも広いと思っていた。


 だが、外には外の基準があった。


 それが、一日で教室の雑談に戻っている。


(変な感じだな)


 悠真は机の上の教科書を見た。


 数学。


 英語。


 国語。


 何も変わっていない。


 だが、自分の中だけが少しずれている。


 授業中、黒板の文字を見ていても、ふと問題文が浮かんだ。


 あの条件。


 あの図形。


 あの選択肢。


 あの一行。


 結果が出るまで、思考は完全には自由にならない。


 昼休み。


 スマホが震えた。


 英修館のグループだった。


『むずかったな』


『理科死んだ』


『算数いけたかも』


『国語の記述どう書いた?』


『最後の条件、あれ罠やろ』


 通知が流れる。


 悠真は少しだけ笑った。


 会場では知らない顔ばかりだった。


 だが、同じ問題を解いた者同士には共通言語がある。


 問題番号だけで通じる。


 「あれ」で通じる。


 「最後」で通じる。


 悠真は短く打った。


『分からん』


 すぐに返信が来た。


『それな』


『全員同じ』


『結果待ち』


『手応えほど信用できん』


 少しだけ肩の力が抜けた。


 不安なのは自分だけではない。


 みんな同じだ。


 藤堂優駿からも、短い返信が来た。


『評価不能』


 悠真は画面を見て、少し笑った。


 いかにも優駿らしい。


 勝ったとも負けたとも言わない。


 良かったとも悪かったとも言わない。


 結果が出るまでは、評価不能。


 その一言が、一番正確だった。


 放課後。


 塾。


 英修館の教室へ入る。


 数人の顔を見た瞬間、空気が少しだけ緩んだ。


「おつかれ」


「おう」


「昨日、帰り死んでたな」


「お前もな」


 それだけ。


 だが十分だった。


 戦場を共有した者同士の距離感。


 説明はいらない。


 昨日の会場。


 昨日の問題。


 昨日の疲労。


 全部を言葉にしなくても分かる。


 高橋蓮が椅子にもたれながら言った。


「俺、帰ってから自己採点しようとしたけど、無理やった」


「何が」


「記憶が信用できん」


 蓮は苦笑した。


「できた気がする問題ほど怪しい。逆に、死んだと思った問題が合ってることもあるやろ」


「ある」


 悠真は頷いた。


「手応えは信用できない」


「それ、先生も言いそう」


 蓮が言った直後、教室の扉が開いた。


 担任だった。


 全員の姿勢が少しだけ変わる。


 担任は教壇に立つと、出席簿を置き、教室を見渡した。


「昨日受けた者」


 何人かが顔を上げた。


「お疲れ」


 それだけ言って、担任はすぐに黒板へ向かった。


 チョークで短く書く。


 評価保留


 教室が静かになる。


「結果が出るまでは、評価するな」


 担任は言った。


「手応えで浮かれるな。手応えで沈むな。今のお前たちの感覚は、ほとんど当てにならない」


 蓮が小さく笑いそうになり、すぐに口を閉じた。


 担任は続ける。


「試験直後の記憶は歪む。解けた問題は不安になる。解けなかった問題は大きく見える。周囲の感想を聞けば、さらに歪む」


 悠真はノートを開いた。


「だから、結果が出るまで評価不能だ」


 優駿と同じ言葉だった。


 担任は黒板にもう一つ書く。


 次の一手


「では、何を考えるか」


 チョークの音が止まる。


「次の一手だ」


 教室の空気が少し締まった。


「今のお前たちに必要なのは、感想会ではない。反省会でもない。準備だ」


 担任は視線を動かした。


「県外の難関校を受けた者もいる。全国型の問題を解いた者もいる。だが、それで終わりではない。九州の受験はここからまだ続く」


 附設。


 ラ・サール。


 青雲。


 早稲田佐賀。


 弘学館。


 その名前が、悠真の中に順番に浮かぶ。


「次に何を受けるかで、準備は変わる。問題の質が違う。時間の使い方も違う。合格最低点の考え方も違う」


 担任は黒板に線を引いた。


 私立難関


 公立トップ


 その二つを並べる。


「私立難関は、六割で勝負が決まることがある。全問正解を狙う試験ではない。取る問題を取る。捨てる問題を捨てる。難問に引きずられない」


 次に、もう片方を指す。


「公立トップは九割勝負になる。落としてはいけない問題を落とさない。内申も含めて、崩れないことが大事になる」


 悠真はペンを止めずに書いた。


 六割の戦。


 九割の戦。


 同じ受験でも、勝ち方が違う。


「だから準備も違う」


 担任の声が少し低くなる。


「ここを混ぜると、両方落とす」


 その言葉だけが、重く残った。


 両方落とす。


 私立に引きずられて、公立を落とす。


 公立に寄せすぎて、私立で戦えない。


 全部をやろうとして、全部が中途半端になる。


 それが一番危ない。


「森岡」


 突然、名前を呼ばれた。


 悠真は顔を上げた。


「はい」


「昨日の試験、どうだった」


「分かりません」


 正直に答えた。


 担任は頷いた。


「そうだろうな」


 即答だった。


「だから考えるな」


 一拍も置かない。


「手応えは捨てろ」


 短く切る。


「結果が出るまで評価不能。今見るのは、次の準備だ」


「はい」


「次はどこだ」


 悠真は答えた。


「九州の伝統校です」


 担任は頷いた。


「なら、そこに合わせろ」


 短い。


 だが、明確だった。


「県外の問題を引きずるな。全国型の難問を追いかけすぎるな。次の学校で取るべき問題を取れ」


「はい」


「ただし」


 担任の視線が鋭くなる。


「逃げるな」


 悠真は黙った。


「全国を見た後に、九州へ戻る。これは楽になるという意味ではない。基準を上げたまま、目の前の学校に合わせるということだ」


 その言葉に、悠真は少しだけ息を止めた。


 基準を上げたまま、合わせる。


 それは難しい。


 全国の上位を見てしまうと、全部を追いたくなる。


 難問を解きたくなる。


 もっと上の教材に手を出したくなる。


 だが、次の戦場で必要なものは、それだけではない。


 学校ごとに、勝ち方がある。


 日程ごとに、意味がある。


 合格を取りに行くのか。


 経験を取りに行くのか。


 押さえを固めるのか。


 勝負をかけるのか。


 配置を間違えれば、実力があっても崩れる。


 担任は資料を閉じた。


「毎年いる」


 静かに言った。


「一つ目の結果が出る前に止まる者。終わった試験の感触に引っ張られる者。合格発表まで何もできなくなる者」


 教室は静かだった。


「そういう者から落ちる」


 悠真のペンが止まる。


「戦いは、結果発表の日に再開するんじゃない」


 担任は黒板を軽く叩いた。


「結果を待っている間も、続いている」


 授業後。


 悠真は担任に呼ばれた。


 教室の外。


 廊下の端。


 掲示板の横。


 そこには、次の模試日程と、各校の入試日程が並んでいた。


「森岡」


「はい」


「公立は」


 悠真が口を開きかける。


 だが、最後まで言う前に、担任が答えた。


「間に合う」


 即答だった。


 悠真は少し驚いた。


「毎年いる。私立が終わってから切り替えて、公立トップに受かるやつはいる」


 担任は続けた。


「ただし、切り替えができる者だけだ」


「切り替え」


「そうだ。私立の六割勝負から、公立の九割勝負へ移る。難問を切る頭から、標準問題を落とさない頭へ移る。これは別の競技に近い」


 悠真は頷いた。


「お前は私立難関を主戦場に置いている。それはいい。だが、公立と内申は土台だ。土台を崩すな」


「はい」


「保険は逃げじゃない。戦うための足場だ」


 母との会話を思い出した。


 保険は、戦うためにも必要。


 同じ言葉ではない。


 だが、同じ意味だった。


 担任は最後に言った。


「不確定な時ほど、配置を崩すな」


 面談は終わった。


 廊下を歩く。


(不確定な時ほど、配置を崩すな)


 その言葉が残る。


 夜。


 机に向かった。


 部屋は静かだった。


 外からは、車の音が遠く聞こえる。


 机の上には、昨日の問題冊子。


 今日の授業ノート。


 次の学校の過去問。


 そして、白紙のノート。


 悠真はノートを開いた。


 ペンを走らせる。


 一戦目 評価保留


 結果 未確定


 手応え 信用しない


 修正点 一瞬の遅れ


 次戦 九州の伝統校


 方針 基準を下げず、問題に合わせる


 少し考えて、さらに書く。


 私立難関 六割の戦


 公立トップ 九割の戦


 保険 逃げではなく足場


 短い。


 だが十分だった。


 まだ何も終わっていない。


 まだ何も決まっていない。


 合格も。


 不合格も。


 全部が不確定だ。


 だから、前に進むしかない。


 悠真は昨日の問題冊子に手を伸ばしかけた。


 だが、止めた。


 今見るべきものではない。


 結果が出てからでいい。


 今は、次の学校の過去問だ。


 机の上の配置を変える。


 昨日の問題冊子を端に寄せる。


 次の過去問を中央に置く。


 それだけで、少し頭が切り替わった。


 その時だった。


 机の端に置いた昨日の問題冊子が、かすかに開いた。


 風はない。


 手も触れていない。


 開いたページは、最後から二番目の大問だった。


 悠真は動きを止めた。


 あの問題。


 機内で何度も思い出した問題。


 取れたかどうか分からない問題。


 ページの上に、薄い影が落ちていた。


 人影ではない。


 文字の影でもない。


 雲のような。


 地図のような。


 どこか遠い戦場の、霧のような影。


 悠真は瞬きをした。


 影は消えた。


 ただの問題冊子だった。


「……疲れてるな」


 小さく呟いた。


 最近、そればかりだった。


 数字が揺れて見える。


 紙に影が落ちる。


 誰もいない場所に、誰かの気配を感じる。


 それでも、見えたものはすぐに消える。


 だから、気のせいで済ませられる。


 済ませるしかない。


 悠真は過去問を開いた。


 だが、ペンを持つ前に、ふと内側で言葉が落ちた。


(戦は、続いている)


 静かな声。


 聞こえたわけではない。


 耳ではない。


 記憶でもない。


 だが、確かにそこにある。


 悠真は小さく笑った。


「……分かってる」


 返事はない。


 だが、否定もない。


 その時、廊下で足音がした。


 軽い足音。


 心太だった。


 ドアの前で止まる。


「兄ちゃん」


「なに」


「また、誰かとしゃべってた?」


 悠真はペンを止めた。


「しゃべってない」


「ほんとに?」


「独り言」


「ふーん」


 心太の声は、やはり納得していない。


「最近さ」


「なに」


「兄ちゃんの部屋、たまに変な感じする」


 悠真はドアを見た。


「変な感じ?」


「うん。なんか、静かなのにうるさい」


 意味の分からない言い方だった。


 だが、不思議と笑えなかった。


「気のせいだろ」


「かもね」


 心太はそれだけ言うと、足音を遠ざけた。


 悠真はしばらくドアを見ていた。


 そして、机に視線を戻す。


 問題冊子。


 過去問。


 ノート。


 書きかけの文字。


 評価保留。


 未確定。


 次の一手。


 何もおかしなものはない。


 何も見えない。


 それでも、胸の奥だけが少し熱かった。


 悠真は目を閉じた。


 次の会場。


 次の問題。


 次の戦場。


 もう見えている。


 結果が出る前に。


 次の戦いは始まっていた。


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