表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

婚約破棄された令嬢は工房で静かに笑う

掲載日:2026/04/14

【一 退屈の烙印】


 王宮の大広間に吊られた魔導式燭台が、微かな異音を立てていた。導力結晶の共振周波数がずれている。放置すればひと月で接点が焼き切れるだろう。


 それだけではなかった。東翼の回廊を照らす壁灯は三基が既に出力低下を起こしている。温水管の循環制御弁は前回の調整から四ヶ月が経過し、結晶の再定着時期をとうに過ぎていた。そして中央暖房炉——母が設計した、この王宮の心臓部——は、先月の定期調整で結界層の厚さが設計値の八割を切った。あと半年、無調整のまま放置すれば、結界の編み目がほどけ始める。


 この宮殿の生命線を支えている魔導具の大半が寿命に近づいていることを、この大広間で踊り笑う誰一人として知らない。


 イレーネ・フォン・ヘルダーリンは、舞踏会の華やかな喧騒の中で、王宮の静かな死を一人で数えていた。


 「イレーネ。話がある」


 第二王子ヴィクトルが、広間の中央で足を止めた。周囲の令嬢たちの視線が一斉に集まる。


 ヴィクトルの隣には、宝石をちりばめた夜会服の侯爵令嬢カミラが、完璧な微笑みを浮かべて立っていた。侯爵家の令嬢。後ろ盾のない自分とは、釣り合いが違う。


 父が死に、ヘルダーリン家が領地を失った日から、こうなることは分かっていた。


 「我々の婚約は本日をもって解消する。理由は明白だ。君は退屈だ。宴席で花を添えることもできず、いつも油の匂いを漂わせ、王族の伴侶にふさわしい教養も持ち合わせていない」


 大広間が水を打ったように静まり返った。


 次の瞬間、ざわめきが波紋のように広がる。同情、嘲笑、好奇心。さまざまな目がイレーネに注がれた。


 イレーネは、腰の袋に入れた小さな工具箱の角を指先で確かめた。母が遺した革張りの箱。中には精密工具が十二本、すべて母の手で研がれたものが収まっている。


 退屈。その一言で、五年間の婚約が終わった。


 確かに、イレーネは社交界の花ではなかった。


 夜会でドレスの裾をさばく代わりに、宮殿にある魔導具の整備記録を読み込んでいた。宝石細工を学ぶ代わりに、導力結晶の接合技術を独学で磨いた。毎月の茶会に顔を出す代わりに、老朽化した魔導具の改修図面を引いていた。


 ヘルダーリン伯爵家の女は、代々工具箱を持つ。母もまた、王都で指折りの技師だった。イレーネは幼い頃から母の工房で育ち、工具の名前を覚える前に、導力結晶の色で品質を見分けることを学んだ。


 母が病で倒れた後、父も後を追うように亡くなった。男子の後継がいないヘルダーリン家の領地は王家に返上され、イレーネには伯爵の名と、第二王子との婚約だけが残った。それが、イレーネを貴族社会に繋ぎ止める最後の糸だった。


 その糸が、今、断ち切られた。


 王宮で暮らす人々の生活を支える魔導具の大半——特に宮殿の中央暖房炉は、母シルヴィアが設計した結界型の特殊構造だった。母の死後、その維持と調整を引き継いだのがイレーネだ。婚約以来の五年間、設計図もなく、母から口伝えで学んだ知識だけを頼りに、たった一人で炎を守り続けてきた。そのことを、当の婚約者は知らなかった。知ろうともしなかった。


 ヴィクトルにとって、婚約者とは夜会の場で隣に立ち、適切に微笑み、王族の威信を飾る存在だった。工具箱を持ち歩き、宴席の最中に天井の燭台を数え上げるような女は、彼の世界には存在しないも同然だった。


 「何か言うことはあるか」


 ヴィクトルが促した。反論か、涙か、そのどちらかを期待している顔だった。


 イレーネは大広間の天井を見上げた。三番目の燭台が微かに明滅している。あれも、もうすぐ壊れる。直す人間がいなければ。


 懐から、布に包んだ小さな部品を取り出した。中央暖房炉の制御弁——修理の途中だったものだ。作業台に戻す機会は、もうない。


 「これを、お返しいたします」


 イレーネはその部品を、近くのテーブルの上に静かに置いた。


 「中央暖房炉の制御弁です。修理途中ですが、どなたか引き継いでくださる方がいらっしゃるかもしれません」


 深く一礼して、イレーネは広間を出た。


 背後でヴィクトルがカミラの手を取り、周囲から祝福の拍手が湧き起こるのが聞こえた。


 廊下を歩きながら、工具箱の角がかすかに腰骨に当たった。その硬い感触だけが、今の自分に確かなものだった。


【二 工房の灯り】


 辺境の町の外れに、母の工房はまだ残っていた。


 ヘルダーリン家の領地は、父の死後、王家に返上されていた。だが、母が技師として使っていた小さな工房だけは、近隣の金物屋の老主人が「シルヴィアさんの場所だから」と家賃を立て替えて守り続けてくれていた。


 鍵を受け取ったイレーネが扉を開けると、五年分の埃が舞い上がった。間口三間。壁の漆喰はところどころ剥がれ、床板は歩くたびに軋んだ。だが、母が使っていた作業台の脚は、まだしっかりと床に根を張っていた。


 イレーネは三日かけて工房を掃除し、棚を組み直した。作業台の天板だけを新しく張り替え、水平を取るために母の精密水準器を使った。


 看板も出さず、入口の扉を開け放しにして、作業台に工具を並べた。母がそうしていたように。


 最初の客は、壊れた街灯の魔導具を抱えた白髪の老人だった。


 「嬢ちゃん、この灯り、三年前から点かないんだ。町のギルド工房に持ち込んだら『型が古い。買い替えろ』の一点張りでな。死んだ婆さんが買ってくれたもんで、捨てるに捨てられなくて」


 イレーネは魔導具を受け取り、外装を外した。導力結晶と制御板の間を繋ぐ接合線が経年劣化で断裂している。制御板自体は生きていた。結晶も、表面に曇りはあるが、内部構造は健全だ。


 工具箱から〇・三ミリの精密ピンセットを取り出し、断裂した接合線の両端を慎重に露出させる。新しい導力線を切り出し、結晶の共振周波数に合わせて被膜の厚さを微調整した。


 接合部に魔力を薄く流し込みながら、線を結晶に定着させる。指先に伝わる微細な振動を頼りに、定着の深さを制御する作業は、息を止めて行う。母がいつも言っていた。「結晶が受け入れる瞬間は、指で聴くものよ」と。


 かちり、と小さな音がした。結晶が魔力を受け入れた合図だ。


 外装を戻し、起動した瞬間、柔らかな橙色の光が作業台を照らした。三年間眠っていた灯りが、ふわりと目を覚ました。


 老人の目に涙が浮かんだ。


 「……婆さんの灯りだ。三年ぶりだよ。ありがとう、嬢ちゃん」


 「接合線を交換しただけです。制御板も結晶もしっかり作られていましたから、本体はあと十年は持ちますよ」


 修理代は銅貨三枚。老人は何度も頭を下げ、翌日には近所の知り合いを二人連れてきた。


 その翌日には四人になった。一週間後には、朝の開店前から工房の前に人が並ぶようになった。


 持ち込まれるのは、ギルド工房が「修理不能」と突き返した古い魔導具ばかりだった。型が古い、部品がない、採算が合わない。ギルドの職人たちにとっては手間ばかりかかる厄介な仕事を、イレーネは一つ一つ丁寧に直した。


 湯沸かし器の導力回路を組み直し、織機の速度制御装置を再調整し、子供の玩具の音楽箱に新しい導力線を通した。


 看板を出す必要はなかった。シルヴィアさんの娘が工房に戻った、という噂が、辺境の町を駆け巡った。


 商人のグレン・ロウェルが工房の扉をくぐったのは、開業から一月が過ぎた頃だった。


 「導力結晶の接合素材、うちの商会で扱ってる。見てくれないか」


 日に焼けた肌に、旅慣れた風体。大柄だが物腰は穏やかで、使い込まれた革の鞄から小さな木箱を取り出した。中には、導力線の被膜に使う希少な合金片が並んでいる。


 「これは——」


 イレーネは合金片を一つ取り上げ、光に透かした。結晶構造の均一さが見て取れる。市場ではまず出回らない品質だ。


 「どこで仕入れたんですか、これ。精錬の精度が普通じゃない」


 「北の鉱山街に知り合いがいてな。冒険者をやってた頃の縁だ。品質は保証する」


 「冒険者を?」


 「昔の話だ。今は商人。——で、どうだ。定期的に納品できるが」


 「ぜひ。価格は品質に応じてきちんとお支払いします」


 グレンは短く頷いた。だが、商談が終わっても、すぐには帰らなかった。


 イレーネがそのまま次の修理に取りかかったからだ。導力結晶の接合部に魔力を流し込む工程——最も集中を要する作業に入っていた。


 イレーネの細い指先が結晶の表面をなぞり、微細な振動を読み取りながら、接合線を一本ずつ定着させていく。前髪が頬にかかるのも構わず、呼吸を浅くして、指先だけに意識を集中させている。


 グレンは扉の近くで足を止めたまま、その手元を見ていた。


 冒険者時代、辺境を歩き回り、各地の職人の仕事を見てきた。武器の手入れから魔導具の応急修理まで、腕のいい職人も下手な職人も、それなりの数を知っている。


 この女の手は、これまで見たどの職人とも違った。工具を握る指の力加減。結晶に触れる瞬間のわずかな息止め。定着が完了した時にふっと緩む口元。ひとつひとつの所作に迷いがない。


 イレーネが顔を上げたのは、作業が一段落してからだった。


 「あ、まだいらしたんですか」


 「……ああ。少し見てた。すまない」


 「いえ。集中すると周りが見えなくなってしまって」


 グレンは鞄を肩にかけ直し、扉に手をかけた。そこで振り返って、少し考えてから言った。


 「あんたの手は、本物だ。それだけ言いたかった」


 それだけ言って出ていった。イレーネは少し面食らった顔で、閉じた扉を見つめた。


 翌週、グレンは約束の素材を届けに来た。素材の他に、小さな包みが一つ余分に入っていた。


 「出先で見つけた。余りものだが、使えるかもしれない」


 中身は、通常の流通には乗らない希少な耐熱被膜材だった。北の鉱山街でしか採れない鉱物から精製されるもので、王都の市場で買えば金貨十枚は下らない。余りものではないことは、イレーネにも分かった。だが、グレンがそう言うのなら、そういうことにしておいた。


 その耐熱被膜材のおかげで、イレーネは難航していた修理を一つ仕上げることができた。近郊の農家が持ち込んだ、古い灌漑用の魔導具だ。導力回路の耐熱層が激しい劣化を起こしており、通常の素材では修理しても三日でだめになる。グレンの被膜材を使えば、十年は持つ。


 修理を終えて魔導具を返した時、農家の老婆はイレーネの手を握って離さなかった。「これが一つなかったら、今年の秋の収穫は半分になってたよ。嬢ちゃんのおかげだ」と。


 それから、グレンは納品日以外にも工房に顔を出すようになった。


 「取引先への道すがらだから」「新しい素材の見本を持ってきた」「この先の鉱山街で仕入れるものがあるか確認しに来た」。理由はいつも商売上のものだった。だが、用件が終わっても、入口の椅子に腰掛けてイレーネの仕事を黙って眺めている時間が、少しずつ長くなっていった。


 イレーネがお茶を出すと、グレンは「すまない」と一言だけ言って受け取り、黙って飲んだ。二人の間に、言葉の少ない、けれど穏やかな時間が積み上がっていった。


 ある雨の日、工房の屋根から雨漏りがした。天井板の継ぎ目から落ちる雫が、作業台の精密部品を濡らしかけていた。


 イレーネが慌てて部品を避難させていると、グレンが工房の裏手に回り、どこからか板と釘を調達して戻ってきた。雨の中で屋根に上がり、一時間後に「板を一枚替えた」とだけ言って降りてきた。


 髪から雫を垂らすグレンに「ありがとうございます。修理代を——」と言いかけたイレーネに、グレンは「商人の仕事じゃないが、客の工房が潰れたら困る」と返した。


 入口の横に、いつの間にか小さな花瓶が置かれるようになったのは、その少し後のことだった。白い野花が一輪、無造作に挿してあった。花瓶の持ち主に心当たりはあった。けれど、確かめないことにした。


 ある夕暮れ、イレーネは初めて「自分のため」に魔導具を修理した。


 母の工具箱の留め金が、長年の使用で摩耗していた。新しく鋳造した留め金を、母が使っていたのと同じ形に仕上げるのに三度やり直した。


 できた、と息をついた時、ふと手が止まった。


 これまでの修理はすべて、誰かの依頼だった。王宮のため。客のため。生計のため。


 けれど今、自分の手で、自分の宝物を直しているこの瞬間は——ただ、好きだ。


 母の工具箱を手のひらで撫でると、年月を経た革の表面が温かく馴染んだ。この手触りと、結晶が魔力を受け入れる瞬間の手応えと、直した灯りが点く瞬間の光。そのすべてが、好きだ。


 それは義務でも責任でもなく、初めて自分の内側から湧き上がった、純粋な望みだった。


【三 もう遅い】


 工房が軌道に乗り始めた冬の初め、王都から異変の噂が届いた。


 王宮の中央暖房炉が停止したという。


 あの暖房炉は、母シルヴィアが設計した結界型の特殊構造だ。一般的な魔導具とは根本的に異なる設計で、通常の修理手順では対処できない。設計図は存在しない。調整の手順も、結界の構成式も、すべて母からイレーネに口伝えで受け継がれたものだった。


 冬の王宮は石造りの巨大な建造物だ。暖房炉なしでは、広間も居室も寝室も、氷のように冷え込む。宮廷の技師団が総出で修理にあたったが、シルヴィアの設計した回路構造を解読できる者は一人もいなかった。


 ある朝、工房の前に王家の紋章を掲げた馬車が停まった。


 辺境の町では見たこともない豪奢な馬車に、通りの住人たちが足を止めて見上げる。御者が扉を開け、降り立ったのはヴィクトル自身だった。


 半年前の舞踏会で見た堂々とした姿とは打って変わり、目の下に深い隈を刻み、外套の留め具が曲がっている。第二王子としての体裁を整える余裕もないらしい。


 工房の中に足を踏み入れたヴィクトルは、壁一面に整然と並ぶ工具と、修理待ちの魔導具が棚に行儀よく収まっている光景を見渡した。作業台の上では、分解途中の魔導具の内部構造が精密に展開されている。入口の横には小さな花瓶が置かれ、白い野花が一輪挿されている。


 繁盛している。この辺境の、名もない工房が。「退屈」と断じた女が、自分の手で居場所を作っている。


 その事実が、ヴィクトルの表情を強張らせた。


 「イレーネ。単刀直入に言う。中央暖房炉が停止した。宮廷の技師では修理できない。君の設計だからだ。——王宮に戻ってくれ。報酬は出す。地位も回復する。望むなら、専用の工房も用意しよう」


 イレーネは作業台から顔を上げなかった。手元の魔導具の接合部に、精密ピンセットで導力線を通す作業を続けている。


 「お久しぶりです、殿下」


 「聞いているのか。宮殿が凍えている。侍女たちも、官吏たちも——」


 「修理のご依頼でしたら、正規の受付からどうぞ」


 イレーネは作業の手を止めず、壁際に置かれた帳簿を顎で示した。


 「あちらの帳簿に品名と症状をご記入いただければ、順番にお見積もりをお出しします。ただ現在、二週間待ちですが」


 声には怒りも恨みもなかった。


 ヴィクトルの顔が紅潮した。


 「ふざけるな。あれは王宮の——」


 「殿下」


 イレーネは初めて顔を上げた。その目は静かだった。


 「あの暖房炉は、母が設計し、私が五年間維持してきた結界型構造です。通常の魔導具とは根本的に違います」


 イレーネの声は、工房で客に修理内容を説明する時と同じ、淡々とした調子だった。


 「結界型の炉は、制御回路と結界層が一体化しています。結界層は生きた魔力で編まれたもので、維持者の魔力特性に同調して初めて安定する。母が編み、私が引き継いだあの結界は、私の魔力で五年かけて馴染ませたものです。半年間の無調整で同調が途切れれば、結界層は不可逆的に劣化します。表層の編み目から順にほどけ、内殻まで崩壊が進む。今はおそらく、全七層のうち第二層まで侵食が達しているはずです」


 ヴィクトルの顔から血の気が引いていくのが見えた。だがイレーネは続けた。


 「結界を組み直すには、まず残存する旧結界を完全に解除し、炉の内壁を洗浄し、新しい結界層を第一層から定着させ直す必要があります。定着には一層あたり四ヶ月。全七層で二年半。さらに新しい維持者の魔力との同調安定化に半年。合計で少なくとも三年です。その間、暖房炉は使えません。——そして、設計図はありません。構成式も、調整手順も、すべて母から私に口伝えで受け継がれたものです。この作業ができる人間は、私以外にいません」


 静かな声だった。怒りも恨みもない。ただ事実を述べているだけだった。


 「殿下。あの炉は、私を追い出した夜に死んだのです。殿下ご自身が、そうお決めになった」


 ヴィクトルが声を詰まらせた時、入口から影が差した。


 グレンが、商品の木箱を抱えて戻ってきたのだ。ヴィクトルを一瞥し——王家の紋章のついた外套を見ても、表情は変わらなかった——木箱をイレーネの作業台の横に置いた。それから何も言わず、入口の椅子に腰を下ろした。


 大柄な商人が、腕を組んで静かに座っている。言葉は一つもない。だが、その沈黙が、この工房が誰の場所であるかを無言で示していた。


 通りに面した扉の向こうから、最初の客だった白髪の老人が顔を覗かせた。その後ろに、隣の仕立屋の主人と、金物屋の老主人が並んでいる。


 「嬢ちゃん、変な馬車が来てたから心配で来たよ。——もう帰ったかい?」


 ヴィクトルは、その人垣を避けるように馬車に戻った。


 辺境の町の人々は、イレーネが元王族の婚約者であったことを知らない。知っているのは、壊れた灯りを直してくれるシルヴィアさんの娘がこの工房にいるということだけだ。それだけで十分だった。


 車輪の音が遠ざかった後、グレンが低い声で聞いた。


 「大丈夫か」


 イレーネは深く息を吐いた。工具を持つ手が、わずかに震えていた。集中していたから気づかなかった。


 「ええ。ありがとうございます、グレンさん」


 五年間、あの人のために図面を引き、暖房炉を調整し、一度も感謝の言葉をもらわなかった。それでもいいと思っていた。けれど今、この工房で、銅貨三枚を払って「ありがとう、嬢ちゃん」と言ってくれる老人がいる。雨の日に屋根を直してくれる商人がいる。花瓶に花を入れてくれる誰かがいる。


 振り返らなくてよかった。本当に。


 「——この素材、前回より品質が上がっていますね」


 「鉱山街で新しい精錬師を見つけた」


 「これなら高出力の導力回路にも使えます」


 イレーネが素材を光に透かして目を細める横で、グレンの口元がわずかに緩んだ。


 「お茶、入れますね」


 「……ああ。頼む」


 イレーネが奥の棚から茶葉を取り出している間に、入口から老人が次の修理品を抱えて入ってきた。金物屋の老主人は帳簿を開き、「次の予約はいつだい」と聞いている。仕立屋の主人は「うちの糸巻き機もそろそろ調子が悪くてな」と言いながら帳簿に記入を始めた。


 何事もなかったかのように、工房の午後が続いていった。


 グレンは入口の椅子でお茶を飲みながら、その光景を黙って見ていた。王家の紋章をつけた馬車が去った後、この工房にはもう何の影も残っていない。修理を待つ魔導具と、それを直す手と、お茶の湯気だけがある。


 それでいい、とグレンは思った。


【四 壁のない場所】


 冬が深まった朝。工房の窓から差し込む淡い光の中で、イレーネは作業台を拭いていた。


 開業から半年が過ぎた。工房の評判は辺境の町を越えて近隣の都市にまで届き、予約は常に二週間先まで埋まっている。壁の棚には修理を終えた魔導具が整然と並び、入口の横には、あの花瓶が変わらず置かれていた。花瓶の中身は季節ごとに変わる。冬の今は、干した白い実の付いた枝が一本。誰が入れ替えているのかは分からない。分からないままでいいと思っている。


 行商人から、王都の噂が耳に入ることがあった。


 中央暖房炉の停止をきっかけに、ヴィクトルの派閥は宮廷内での支持を急速に失いつつあるという。「退屈な女」と公衆の面前で婚約破棄を宣言した相手が、実は王宮のインフラを支えていた唯一の技師だったという事実が広まり、第一王子の派閥からは「見る目がない」と嘲笑され、カミラの家からも距離を置かれ始めたらしい。


 もう一つ、気になる噂もあった。王宮の技師団が暖房炉の修理素材を求めて各地の商会を回っているが、北方鉱山街のルートを持つ商会が軒並み「在庫なし」と回答しているという。高精度導力線も、耐熱被膜材も、希少合金も——およそ結界型魔導具の修理に必要な素材が、まるで申し合わせたように王都の市場から消えていた。


 ふと、以前に宮廷技師団からこの工房に直接、在庫の問い合わせがあったことを思い出す。あの時の彼らの切羽詰まった声と、市場の不自然な欠落。


 イレーネは作業台の上に目を落とした。グレンの商会から毎週届けられる木箱には、それらの素材が過不足なく揃っている。一度も欠品したことはない。


 ふと、先日のグレンの何気ない言葉が蘇る。

 『大口の取引先が見つかってな。北方の生産ラインは、すべてそこの専属に切り替えた』


 その時、彼は工房の棚一つを満たす程度の小さな木箱を、事もなげに「大口」と呼んでいた。商売の理屈を装って素材を囲い込み、音を立てずに王宮への流通を塞いでこの小さな工房だけを確実に守ろうとしているのだと、イレーネは静かな確信とともに理解した。


 イレーネはその噂を聞いても、特に何も感じなかった。溜飲が下がるわけでも、罪悪感が湧くわけでもない。ただ、あの暖房炉のそばで働く侍女たちや、寒い廊下を歩く官吏たちのことが、少しだけ気にかかった。


 帳簿には、王宮からの修理依頼が一件、正式に記帳されていた。筆跡はヴィクトルのものではなく、宮廷技師団長のものだった。丁寧な敬語で書かれた依頼文には、「ご都合のよい時期にご検討いただければ幸甚です」とあった。イレーネはそれを、他の依頼と同じ順番で処理する予定だった。客は客だ。


 扉が開いて、冷たい空気と一緒にグレンが入ってきた。


 いつもの商品の木箱ではなく、手ぶらだった。


 「イレーネ」


 名前で呼ばれたのは珍しかった。いつもは「おはよう」か、黙って素材を置いていくかのどちらかだ。


 「うちの商会なんだが……隣の通りに支店を出そうと思ってる」


 イレーネは手を止めた。グレンの商会は三つ先の通りにある。隣の通りなら、工房まで歩いてすぐだ。


 「商路の管理上、ここに拠点があった方が効率がいい。この辺りは素材の需要も——いや」


 グレンは言葉を切り、視線を逸らした。日に焼けた手で後頭部を掻く。冒険者時代の古傷が残る手だった。


 「……そばにいたいだけだ。商売の効率の話じゃない。はっきり言わないと、伝わらないと思ったから」


 イレーネは母の工具箱に目を落とした。自分で取り付けた新しい留め金が、冬の朝日を受けて鈍く光っている。


 この工具箱を母から受け取った日から、ずっと一人で握りしめてきた。一人で直し、一人で磨き、一人で生きてきた。それが自分の強さだと信じていたし、今もそう思っている。


 けれど。


 一人で立つことと、誰かが隣にいることは、矛盾しない。


 グレンはイレーネの手から工具を取り上げたことは一度もない。修理の手順に口を出したこともない。ただ、良い素材を届け、黙ってそこにいた。それだけだった。それだけで、十分だった。


 「支店を出すなら、うちの工房と素材の受け渡しが楽な場所がいいですね」


 グレンが顔を上げた。


 「隣の通りより、もう少し近い方が効率がいいんじゃないですか」


 「……どれくらい近ければいい」


 「例えば——壁一枚くらいの距離とか」


 グレンが目を見開いた。イレーネが笑った。


 「もう少し早く言ってくれてもよかったんですよ。納品日以外にも来ていること、最初から気づいていましたから」


 グレンは耳の先まで赤くなった。日に焼けた頬がこんなにも容易く崩れるものかと、イレーネは少し驚き、少し嬉しくなった。


 工房の窓から朝の光がまっすぐに射し込み、作業台の上の工具と、母の工具箱と、グレンが届けた素材の木箱を等しく照らしていた。


 通りの向こうから、辺境の町の朝の喧騒が聞こえ始める。パン屋の煙突から白い湯気が上がり、金物屋の老主人が店の扉を開け、どこかの子供が笑いながら走り去っていく。


 イレーネは工具箱を開き、精密ピンセットを取り出した。今日最初の修理依頼は、隣町の製粉所の魔導具だ。


 入口の椅子で、グレンがお茶を受け取った。いつもの場所。いつもの朝。


 ただ、今日の朝だけが少し違って——イレーネの口元が、いつもより柔らかかった。


—— 了 ——

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!


自分を必要としてくれる「壁のない場所」を見つけたイレーネと、商売の理屈を装って彼女を全力で守り抜くグレンの不器用な関係を楽しんでいただけたなら嬉しいです。

王宮側も、魔力同調や結界層の仕様といった「技術的な事実」で淡々と追い詰められる展開にしてみました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
第二王子だけでなく、母親の代から引継ぎの手続きを疎かにしていたのだから他の王族も同罪に思える。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ