第9話 私は、恋を定義しようとして失敗しました
結論から言うと。
私は、“恋”をまだ理解できていない。
理解しようとはした。
だが、失敗した。
「……再定義を試みます」
放課後。
自室の机に向かい、私はノートを開いていた。
ページの中央に、大きく書く。
《恋》
その下に、既存知識を書き出す。
・特定の相手への強い好意
・独占欲
・不安
・幸福感
・非合理的判断の増加
「……該当項目、多数」
冷静に見れば、条件は揃っている。
私は、レオンに対して――
明らかに、通常とは異なる反応を示している。
心が安定する。
近くにいたい。
他者と親しくされると、嫌だと感じる。
「……論理的には、恋です」
だが。
胸の奥が、納得していない。
「なぜでしょう」
この結論を下した瞬間、
何か大切なものを取り落とした気がする。
「恋=条件一致、ではない……?」
私はペンを止める。
問題は、ここだ。
私は“恋”を、
外部から観測される現象として定義しようとしている。
だが、恋は――
内部から発生する。
「……主観」
最も扱いづらい変数。
私は、深く息を吸う。
「再現性、なし」
「数値化、不可能」
「予測精度、低」
――最悪だ。
こんなものを、どう扱えばいい。
「……非効率」
そう呟いた瞬間。
コンコン、とノックの音。
「アリア?」
聞き慣れた声。
扉を開けると、そこにいたのは――リィナだった。
「少し、いい?」
予想外の来訪者。
「拒否理由は、ありません」
そう答えると、彼女は部屋に入り、周囲を見回した。
「へえ。いかにも、って感じ」
「どういう意味でしょうか」
「頭の中、そのまま部屋にしたみたい」
彼女は笑い、私のノートを見る。
《恋》
その文字を見て、すぐに理解したらしい。
「ああ……なるほど」
リィナは、私を見る。
「悩んでるのね」
「解析中です」
「失敗してる?」
「……はい」
即答だった。
リィナは、少し驚いた顔をしてから、肩をすくめる。
「そりゃそうよ」
「理由を、説明してください」
私は真剣だった。
「簡単よ」
彼女は、椅子に腰掛ける。
「恋って、“理解したら終わり”じゃないから」
理解したら、終わり。
「意味が、分かりません」
「分からなくていいの」
リィナは、指で机を叩く。
「恋はね、分かろうとすると逃げるの」
「……逃げる?」
「そう」
彼女は、少しだけ真剣な顔になる。
「だから、アンタみたいな天才は苦労する」
私は、黙った。
否定できない。
「アンタ、レオンのこと……好きでしょ」
直球だった。
心拍数が、跳ね上がる。
「……仮説としては、有力です」
「まだ認めてないのね」
「定義が、確定していません」
リィナは、はっきりと言った。
「定義なんて、いらない」
その言葉が、胸に刺さる。
「一緒にいたい」
「取られたくない」
「笑ってほしい」
「それで、十分でしょ」
私は、言葉を失った。
それらは、すべて事実だ。
だが、私はそれを“結論”として扱えない。
「……怖いのです」
私は、正直に言った。
「この状態を認めると、私は――」
制御できなくなる。
最適化できなくなる。
失敗するかもしれない。
「そう」
リィナは、即答する。
「恋って、そういうもの」
彼女は立ち上がり、扉へ向かう。
「忠告しておくわ」
振り返り、微笑む。
「アンタ、もう逃げられない」
扉が閉まる。
静寂。
私は、ノートを見る。
《恋》の文字が、滲んで見えた。
「……解析、放棄」
私は、ペンを置いた。
今日は、もういい。
理解できなくてもいい。
定義できなくてもいい。
それでも。
レオンの声を思い出すと、
胸の奥が、やはり温かくなる。
「……これは」
結論には、しない。
だが。
私は、はっきりと感じている。
この心の反応を、
失いたくないと。
それだけで――
今は、十分だ。




