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【小説】音姫

掲載日:2025/12/19

 無断欠勤とはあまり縁のない同僚が会社を休んでもう一週間にもなる。

 休んだ当初はともかく、続けて一週間にもなるとその穴は地味に全体に響いた。

 しかし素行が悪い訳でもなく、何か急病や実家の都合だと考えると悪く言いにくい。

 オフィスを厭な空気が支配したある時、上席に呼ばれた。



 何となくは予感していたが、面と向かって「きみ、ちょっと様子を見てきてくれないか」と言われると少しげんなりする。

 あまりにも顔に出ていたのか、慌てて「帰りはタクシー使っていいから」と社印の入ったタクシー券を渡された。

 いまのご時世、上席者が部下を訪れたらどんな悪評を立てられてしまうか分からないのも理解できる。

 しかし社会人になってまでプリントを渡しに行く学生みたいなお使いをさせられるとなると行く前から疲れてしまう。

 帰りはコンビニで発泡酒じゃない、ビールを買って帰ろうと思った。




 教えられた住所にあったのは小ぢんまりとしたアパートだった。見上げた彼の部屋の窓には明かりがついており、在宅なのだろうと言う予想を立てられる。

 ひとまず報告用の写真を撮ってから階段をあがり、部屋の前までたどり着いた。

 あまり良い趣味とは言えないが、電気メーターは勢いよく回っているのを確認してから呼び鈴を押す。

 室内にインターホンの音が響き、部屋の中をよたよたと歩く音が聞こえた。

 顔見知りの同僚が出てくるだけだと言うのに厭に緊張する。

 どんな顔をすればいいのか迷っていると、ドアがガチャリと音を立てて開いた。



「……よう、大丈夫か」

 目に力の無い表情でこちらを見る同僚に、先に声を掛けた。

 同僚は頷くと

「あぁ、もしかして心配で来てくれたのか。ありがとう」

 と力なく笑った。

 笑った顔は初めて見るかも知れない。職場ではあまり冗談を言う方じゃなかった。


「入れよ、茶くらい出すから」

 通された部屋は整理されていて、同僚はすぐに座布団を出すと

「まぁ適当に座ってくれ」

 と言いキッチンに向かった。

 その背中に

「お構いなく、無事が確認できたからすぐに引き上げるよ」

 と声をかける。



 同僚は背中を向けたまま片手を挙げるとそのままコンロで湯を沸かし、やたら分厚い湯呑みで熱い日本茶を出した。

「来てくれてありがとうな。いや、本来は心配かけた事を謝るべきか」

「いや、無事なら良いんだ。本当に」

「うん、大丈夫だよ。連絡しなかったのは悪かったと思ってる」

 俺は熱い日本茶をひと口すすってから、顔を見て帰る訳にもいかないから仕方なしに訊いた。



「何かあったのか」

「いや、何って程じゃないよ。ただちょっと色々あって」

「なんかあったら言えよ、ってそんな仲でも無かったけど」

 会社員になってまで、学生みたいな関係を作るのは鬱陶しい。職場での関係性は職場で完結させたい。

 そう言ってはは、と笑うと同僚も愛想笑いを返した。


 会話は途切れた。

 室内にずず、とお茶を飲む音が響く。机の上に湯飲みを置くと、同僚はゆっくりと口を開いた。

「実は、彼女ができて」

 そこで区切ると、細く長い息を吐き出してから「寂しがるから、部屋を離れられないんだ」と言った。

 その言葉の続きを待ったが何もなかった。


 効きすぎた空調で肌寒い室内。

 目の前に出されたやたら暑い日本茶。

 仕事をサボった同僚。

 仕事帰りに様子を見に行かされている俺。

 挙げ句の果てに出された理由が彼女だと?


 俺は怒りとか疲労だとか困惑だとか、とにかく頭の中で虫のように跳ね回るそれらを体内から飛び出させないように気をつけながら訊いた。

「彼女……どういう事だ?そんな大学生みたいな」

「あぁ分かってる。でも本当に寂しがるから。今だって」

「いま?いるのか?いや、邪魔なら帰るがちょっと問題だぞ」

「うん。そうなんだけどね……」

「どこだ?プライベートに文句はつけないが、仕事は仕事だろう」


 どんな女だ?

 相手に仕事を休ませるなんて無職か大学生か、脳みそに添え木が必要なタイプか?

 俺は甘っちょろい大学生の恋愛みたいなものに巻き込まれてここまで来させられたのか?

 とにかくその彼女に一言、社会人は仕事をしなきゃメシが喰えないのだと言う当たり前のことを言ってやらないと気が済まない。


「それで、どこにいるんだよ」

 部屋を見回したところでひとの気配は感じられなかった。片付けられた部屋に隠れるスペースは見当たらない。

 おどおどする同僚を尻目に部屋を改めて回る。

 キッチンの戸棚、廊下の収納、風呂場。どこにもいない。

 

 しかし俺が最後にトイレのドアに手をかけると同僚は急に「やめろ!開けるな!」と叫んで俺に掴みかかった。

 しかしドアを開けたトイレの中には誰もいなかい。

 俺は同僚を振りほどいて「おい、誰もいないぞ」と言った。

 しかし同僚は真っ赤な顔で

「もう帰ってくれ、二度と来るな」

 と喚くと布団に突っ伏してしまった。



 このトイレに何かある。

 もしかしたら女じゃなくて薬物かも知れない。だとしたら面倒な事になった、通報するのが先か。それでも会社に迷惑がかかる。

 一度帰って上司に報告、相談するべきだろうか。

 何にせよ……

「わかった、帰る。帰るから便所を貸してくれ」



 布団に突っ伏してしまった同僚を尻目にトイレに入る。

 薬物でも隠してあるのかと水槽の蓋を持ち上げてみたが何もなかった。

 少し安心して便座に腰かけると、目の前に紐のついた小さなスピーカーが設置されているのに気が付いた。

 俺がその紐を引くのとトイレの外で同僚が「その紐は絶対に引くなよ」と言うのはほぼ同時だった。



 俺が紐を手放すとスピーカーから機械合成された森林的な音が流れた。

 その音と同時に目の前に女が現れた。

 美しい女だった。

 美しいとしか言えない、妖艶な雰囲気を持った女だった。

 服装がどんなだったとか、体型がどんなだったとか、そんな事は一切覚えていない。

 ただ美しい顔の、美しい目をした、美しい肉体の、美しい女だった。 



 外で同僚がドアをガンガンと叩いて何か叫んでいるが聞こえない。

 俺がは目の前の女から目を離せずにいた。

 そしてスピーカーから聞こえていた音が止むと、女も消えていなくなった。

 外で同僚が叫んでいる。

「おい、出ろよ!ふざけんな!やめろって言ってんだろ!」


 

 俺は同僚の絶期を無視して再び紐を引いた。

 合成の音が流れて女が再び現れる。

 俺はその女に手を伸ばして触れる。だが音が途絶えると女は消える。

 俺はまた紐を引いて女を出す。


 それを何回か繰り返しているうちに、俺は美しい女の美しい胸に顔を埋め、もうこのトイレからも出られないのだと理解した。

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