レトロ映画館を猫だらけにしてみたら、町に笑顔が戻ってきた件【はじまりの章】
【1】
シャッター通りとなった駅前商店街に、午後の光がひっそりと差し込んでいた。
風の音すら遠慮がちで、閉ざされた店先のガラス戸に、ぼんやりと白い雲が映っている。
主人公の結城こはる、22歳。
農業大学の動物科学科で、伴侶動物学を専攻している大学生だ。
1年の春から保護猫活動に関わり、今ではその活動を“持続可能な仕事にできるか”というテーマで卒業研究に取り組んでいる。
猫とともに生きる道を探しながら、こはるにはもう一つの顔がある。
週末の彼女は、古びた映写機の音を聞くために全国を旅する名画座めぐりの愛好家。
とりわけ“猫の出てくる映画”が好きで、学生最後の夏、ネットで見つけた古い映画館の名に目を奪われた――名画座ヤマネコ。
訪れたその日、映画館はまるで時が止まったようだった。木の匂いの残るロビー、フィルムの焦げたような匂い、壁にかけられた古いポスターの猫の目が、こはるをじっと見つめていた。
そして入口横の掲示板に貼られた、一枚の紙――
「事業承継希望者 募集中
条件:20年以上 映画館を続けること。
面接試験あり。合格者には映画館+住居を100万円にて譲渡」
まるで昔観た映画のワンシーンのようだった。
こはるの胸が、小さく跳ねた。
館長との面接は翌日だった。映画について、猫について、そして商店街のこれからについて語った。夢物語だと笑われるかと思った「猫映画専門の名画座×猫カフェ」という提案に、館長は小さく笑って、言った。
「面白いじゃないか。ヤマネコにふさわしい」。
こうして、こはるの新しい物語が始まった。大学卒業までの1年間、彼女は古びた映画館の掃除から始めた。
「ぼろいは、磨き上げるとレトロになる」
埃にまみれた椅子、ネジの外れた看板、ガラスの曇り。ひとつひとつを丁寧に磨いていくうちに、ヤマネコは少しずつ息を吹き返し始める。
しかし、こはるの胸にはひとつの疑問がくすぶっていた。なぜ館長は、たった100万円でこの映画館と住まいを譲ることにしたのか。
ヤマネコに隠された過去、そして館長の本当の想いとは――
彼女の背後では、静かに尻尾を揺らす猫がひとり。
まだ名前もないその猫だけが、すべてを知っているかのように、こはるの足元から離れなかった。
小さな名画座と、猫たちと、そして映画に導かれて、こはるの物語は幕を開ける。
ここは「名画座ヤマネコ」。
今日も、まだ誰も観たことのない物語が始まる場所。
【2】
ほこりをかぶった椅子を一脚ずつ拭きながら、こはるはスマートフォンで一枚の写真を撮った。
日に焼けた赤いベルベットの座面と、奥に見える映写室の扉。
「#名画座ヤマネコ再生中」
「#猫と映画のいる日常」
投稿ボタンを押したその夜、小さな反応がいくつも返ってきた。
「懐かしい映画館だ」「応援したい」「手伝いたい」――。
次の週末、古びたロビーに現れたのは、まるで映画のワンシーンのように多種多様な面々だった。
地元の高校生、かつてこの映画館に通っていた元映写技師の老紳士、動物好きの主婦、DIYが得意だという若い大工。
「猫映画館、いいね」「掃除くらいなら手伝えるよ」
誰もが口々にそう言って、黙々と雑巾を握り、ペンキを塗り、折れた椅子を直してくれた。ヤマネコは、少しずつ息を吹き返していく。
同時に、こはるのもう一つの活動――保護猫たちの新しい居場所作りも、動き始めていた。
大学の研究室のネットワークをたどり、人馴れ訓練を終えた猫たちを預かる場所を探し、信頼できる保護主たちと連絡を取り、ヤマネコへの「引っ越し準備」を始めた。
猫たちのプロフィール、性格、好きな遊び、少し不器用な甘え方。全部を丁寧に記録し、未来の「出会い」に備える日々。
「人間に慣れてる子たちを優先して、映画館デビューさせるんですね」
「うん。まずは安心してもらえる場所を作りたい。猫にも、人にも」
こはるの声は静かだったが、その眼差しにはぶれない光があった。
舞台は整いつつあった。古い映画館に集まり始めた猫たちと、それを迎える準備をする人々。
かつて通り過ぎていた人々が、再びこの場所に目を向けはじめていた。
だが――夜、映画館の2階の住居で一人目を閉じるたび、こはるの胸には、ある予感のようなものがひそんでいた。
まるで、どこかでずっと見られているような感覚。
そして、館長の残したひとことが耳に残る。
「ヤマネコは、ただの映画館じゃない。…猫たちは知ってる。ここが“どういう場所”かをな」
まるでスクリーンの奥に、まだ誰も観たことのない“本当の物語”が隠されているかのように。
名画座ヤマネコは、猫と人と、そして記憶に宿る映画たちの交差点だった。
こはるの夢は、ただの夢では終わらない。
これから始まるのは、猫と映画に導かれた、不思議な再生の物語。
【3】
そして季節はめぐり、名画座ヤマネコは、静かに生まれ変わった。
磨き上げられた木の床、昭和の香りを残すシャンデリア、壁一面のポスターには、猫たちのしなやかな姿と、往年の名画のタイトルが並ぶ。
誰もが懐かしさと新しさを同時に感じる、不思議な空気がそこにあった。
こはるは、古びた看板の隣に、小さな手書きの札を下げた。
「本日開館 猫と名画のいる場所」
記念すべき最初の上映作品は、こはるが幼いころから大好きだった『長靴をはいた猫』。
扉を開けて最初に入ってきたのは、年配のご夫婦。
「この映画、昔、娘と観に来たんですよ」
つぎにやって来たのは、猫耳のカチューシャをつけた女子高生たち、カップル、家族連れ、保護猫活動を応援する動物好きの仲間たち……
開場からわずか30分で、客席は満席になった。座席数100。すべてが埋まった名画座の空間に、こはるは小さく息をのんだ。
上映が始まると、スクリーンの灯りに照らされて、猫たちがひっそりと現れ始める。
ふわりと舞うように歩く三毛猫。観客の足元で丸まる白猫。
とことこと通路を渡り、そっと誰かの膝に飛び乗る黒猫。
笑い声が漏れ、ため息がもれ、そして猫たちがその合間にふわりと寄り添う。
まるで、映画と猫が同じ物語の中にいるかのようだった。
こはるは最後列からそっとその光景を見守っていた。
夢だった。いや、これはもう、夢ではなかった。
上映後、拍手とともに立ち上がる観客のあいだを、猫たちがゆっくりと歩いていた。
「また来たいね」
「次はどんな猫映画ですか?」
問いかけに、こはるは微笑んで答える。
「来週は『こねこのミーシャ』です。もちろん、猫たちも出演しますよ」
名画座ヤマネコ。猫と映画と、そしてこはるの優しい時間は、静かに幕を開けたばかりだった。
そして誰も知らない、猫たちだけが知っている、もうひとつの物語も――この場所のどこかで、ゆっくり動き出していた。
【4】
名画座ヤマネコのリニューアルオープンから、三か月。
猫たちはすっかり映画館の主となり、毎週上映される猫映画の傍らで、自由気ままにくつろいでいた。
スクリーンの光を追いかけてじゃれる子猫。
映写機の振動音を子守唄に眠る老猫。
どこかで誰かの心を癒している、不思議な居場所。
その空間に新たな温もりを加えているのが、月に一度の「譲渡会」だった。
ロビーの一角に並べられた猫用ベッドと紹介カード。
こはるが大学の研究と連携して行っている保護猫の譲渡会は、初回から噂を呼び、いまでは毎回多くの人でにぎわうようになった。
「この子、おだやかでかわいいですね」
「映画の間、ずっと膝にのってくれてたんです」
そう言って、猫と目を合わせる人たちの表情が、ゆっくりとほぐれていく。
こはるは、書類を手渡しながら、猫の性格や好きな遊び、これまでの経緯を丁寧に伝える。
譲渡は一つの別れでもあり、始まりでもある。それを知っているからこそ、こはるの言葉にはいつも、未来への祈りのような静けさが宿っていた。
そして何より、この動きに町の人々が少しずつ巻き込まれはじめていた。
「ヤマネコがにぎやかになって、商店街も少し元気になったよ」
「うちのパン屋でも“猫の肉球クッキー”出したら、よく売れるんだわ」
かつてシャッターの閉まっていた店が、ヤマネコの上映スケジュールにあわせて営業時間を調整するようになった。
小さな喫茶店がチケットの半券で割引を始めたり、手芸屋のご婦人たちが、猫型の手作り座布団を寄贈してくれたりもした。
「昔のヤマネコが戻ってきたみたいだなぁ」
「いや、前よりずっといいよ。笑い声が絶えないし、猫たちまでいるんだから」
そう言って、常連客の白髪の男性が、ひざの上のトラ猫をそっと撫でた。
こはるは、映写室からロビーを見下ろしながら、ふと思う。
猫たちの命の灯りが、映画のように、たしかに誰かの心を照らしている――と。
映画のラストシーンのように、ふわりと風がカーテンを揺らす。
名画座ヤマネコ。ここでは、今日もまた新しい物語が、誰かと猫のあいだに始まっている。
【5】
夜の帳がゆっくりと街を包むころ、名画座ヤマネコの灯りが一つ、また一つと消えていく。
上映が終わり、客が帰り、こはるも2階の住居で眠りについたあと――映画館には、猫たちだけの時間が流れ始める。
スクリーンの下、赤い絨毯のうえに、一匹の黒猫が静かに姿を現す。
名前はまだない。けれど、みんな彼女を「シネマ」と呼んでいた。
どこからともなく現れて、いつからともなくここにいる、不思議な猫。
彼女の合図に、壁の隙間や階段の影から、次々に猫たちが集まってくる。
三毛のコトラ、白黒のユキ、耳の折れた長老猫ノラじい……。
やがて、猫たちはいつものように観客席に並び、しんと静まりかえった館内に向かって、誰もいない映写室をじっと見つめる。
すると、からん……とひとりでにフィルムが回り始める。
スクリーンに映るのは――“この映画館でかつて暮らしていた人々と猫たち”の記憶だった。
かつて映写技師だった老夫婦が夜な夜な猫を膝に抱いて映画を観ていた光景。
商店街の子どもたちが、小さな猫に名をつけて、ポップコーンを分けあっていた日々。
震災の夜、避難所代わりに扉を開けたヤマネコに、猫たちが人間を寄り添うように見守っていた記録……。
猫たちは、その映像をただ黙って見つめる。
静かに、静かに、そこに映る“人と猫の物語”を思い出すように。
そして、すべてが終わると、黒猫のシネマは、最後列の空席にそっと飛び乗り、そこに座っていた誰かに、頬を寄せる。
――その“誰か”は、もうこの世にはいない、かつての館長だった。
猫たちは知っている。
この映画館が、ただの建物ではないことを。
ここが、記憶と祈りが交差する、小さな魂の灯台であることを。
こはるが夢見るように語った「猫と映画に囲まれた暮らし」は、実はずっと昔からここに存在していた。
ただ、それを知っているのは、スクリーンの光を見上げていた猫たちだけ。
夜が明けるころ、猫たちはそれぞれの定位置に戻る。
朝の一番列車の音が遠くから響く。こはるがゆっくりと階段を降りてくる。
「おはよう、みんな」
猫たちは何も言わず、ただ彼女の足元に集まっていく。
今日もまた、一本の映画と、ひとつの小さな奇跡が、名画座ヤマネコで始まろうとしている。
そして誰も知らない。
この映画館の夜に、もうひとつの“上映会”があることを。
それを知っているのは――猫たちだけ。
【6】
ある曇りの日の午後。上映が終わってしばらくしたころ、小さな女の子が、母親と一緒に名画座ヤマネコのロビーにやって来た。
母親は少し戸惑いながら言った。
「実は…うちの娘、数か月前におばあちゃんを亡くしてから、あまり言葉を話さなくなってしまって。
でも、昔おばあちゃんと一緒に観た“猫の映画館”の話を、ずっと覚えていて…それが、ここだったみたいなんです」
こはるは、ああ、と静かにうなずいた。
「よかったら、ゆっくりしていってください。今の回が終わったら、ロビーで猫と遊べますよ」
女の子は言葉もなく、こくんとうなずいた。
母親と並んで座った赤いソファに、やがてふわりと、灰色の長毛の猫が飛び乗った。いつもは気まぐれで人見知りな子――ノエルだった。
ノエルはすぐに、女の子の足元に丸くなり、そっと頭を彼女の膝に預けた。
女の子はおそるおそる、小さな手でその毛を撫でる。ザラついた舌で返されるぺろりとした返事。
そのとき、彼女の目から、ぽろりと一粒、涙がこぼれた。
「……おばあちゃんちの猫に、そっくり」
小さな声だった。けれど、それは確かに、久しぶりに発せられた“彼女のことば”だった。
母親の目が、そっと潤む。こはるも気づかないふりをして、受付の帳簿をそっとめくるだけだった。
そのあと、女の子は言葉を取り戻し、再びヤマネコに通ってくるようになった。猫たちは、まるで最初からそうなることを知っていたかのように、彼女のそばに寄り添い続けた。
ノエルは、彼女の特等席を知っていて、いつも上映開始の少し前に、そこで丸くなる。映画が始まると、女の子はノエルの背に頬をくっつけながら、スクリーンを見つめる。
そうしてまた一人、猫と映画に癒される人が、名画座ヤマネコに居場所を見つけた。
どこか懐かしく、やさしく、あたたかな光の中で。
その夜。
誰もいない映写室で、猫たちだけの夜の上映会が始まる。
スクリーンには、言葉を取り戻したあの女の子と猫の姿が、淡い光のように映っていた。
猫たちは知っている。
ほんとうに大切なものは、スクリーンの中ではなく、
スクリーンの前で交わされた、ささやかな奇跡の中にあるということを。
そしてそれは、きっと明日も、またひとつ生まれる。
名画座ヤマネコで。
【7】
春の風が、商店街の古いアーケードを抜けて、名画座ヤマネコの木製扉をそっと揺らした。
こはるは、その音に気づいて顔を上げる。今日の上映は『こねこのミーシャ』、3回目の上映がちょうど終わったころだった。
ロビーには、映画を見終えたお客さんたちがゆっくりと談笑していた。
「猫っていいねえ」「心があったかくなるなあ」
「次はなんの映画かな?」
その合間を縫うように、猫たちが歩いていく。
ノエルはあの女の子の足元に寄り添い、コトラはソファのひじかけでのびをしている。
みんな、ここが自分の家だというような顔をしていた。
こはるは、受付台の下にしまっていた小さな箱を取り出した。
それは、初めてこの映画館に来た日に拾った、小さなフィルム缶だった。ラベルはかすれていたが、なんとなく捨てられず、大切に取っておいたもの。
ふと気になって、館長が遺した古い映写機にそのフィルムをかけてみることにした。
映写室に入ると、窓から春の柔らかな日差しが差し込んでいた。
カタン、カタン。
フィルムがゆっくりとまわりはじめる。
スクリーンに映し出されたのは、――見知らぬ猫と、見知らぬ人々の映像。
昭和の商店街、まだにぎわっていたころ。名画座ヤマネコの前で、笑う人々と猫たち。
若いころの館長の姿もあった。白黒のその映像のなかで、猫と寄り添う彼の笑顔は、どこか今のこはると重なるものがあった。
やがて画面に、筆書きのような文字が浮かびあがる。
「この映画館が、だれかの心の中に灯をともしますように」
こはるは、ふっと息をのんだ。
ああ、この映画館は、ずっとずっと、そういう場所であり続けてきたんだ――と。
自分はただ、それを受け継いだだけなのだ。
猫たちと一緒に、人の心に寄り添う、やさしい場所を守るために。
階下に戻ると、上映を待つ人たちの輪の中に、初めて見る若いカップルがいた。女性の手には、譲渡会のパンフレット。
その傍らには、小さな黒猫がちょこんと座っていた。
「その子は“シネマ”って呼ばれてるんです」
こはるがそう紹介すると、黒猫はまるでわかっているかのように、小さく喉を鳴らした。
名画座ヤマネコ。
ここでは、映画が終わっても、ほんとうの物語は終わらない。
スクリーンの光と、猫たちのぬくもりと、人の心が重なり合って、小さな灯がともる――そんな奇跡が、今日もまた一つ、生まれていた。
そして、それはまだ始まったばかり。
第1章は、ここまで。
名画座ヤマネコの物語は、これからも続いていく。静かに、あたたかく。猫たちの足音とともに。