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冤罪で王子に婚約破棄されたら、将軍閣下が本気出してきた件

作者: 宮永レン

「ユフィルナ・エルヴァリシア。国家反逆罪にて、貴様をこの国から追放する!」

 壇上から高らかに宣言したのは、このノルディア王国の王太子であり、ユフィルナの婚約者シルファンだった。


「国家……反逆罪?」

 ユフィルナはわずかに眉をひそめる。窓から入ってきた薫風が、亜麻色の長い髪をさらさらと撫でていった。


 春季叙勲式と呼ばれる、王国が主催する年に一度の名誉授与の儀式の最中である。大広間には受勲のために呼ばれた者やその家族、関係者がずらりと並んでいた。


 ユフィルナは、任務で王都を離れている王国軍元帥である父の名代として、この場に出席している。

 だが名を呼んだのが国王ではなく、突然席を立ってやってきたシルファンで、ユフィルナを名指ししたという時点で、違和感はあった。


 その場にいた全員の視線が、下段の床に立つ彼女に注がれる。


「元帥閣下の娘が国家反逆だと……?」

「由緒あるエルヴァリシア公爵家もここまでか……」

「いったいどんな悪行を……!?」

 彼らの勝手な憶測が耳に飛び込んでくるが、ユフィルナは顔色一つ変えない。


「私には、そのような心当たりはございません」

 まっすぐ婚約者を見つめる瞳は、父親譲りの澄んだ翡翠色をしている。


「素直に認めればいいものを。証拠をここに――ザネラ」

 鼻白んだシルファンは、壁際に控えていた侍女に声をかけた。


 呼ばれたザネラは小さく頭を下げ、しずしずとシルファンのそばへやってくる。


「殿下、失礼いたします。襟元が少し乱れておいでですわ」

 ザネラは囁きながら彼に身を寄せると、そっと彼の襟に触れた。


 丁寧に整えるその動作は、まるで主君を気遣う忠実な影のようだ。だが、その指先は不自然に長く留まり、指の腹で胸元をなぞるような仕草すら見せる。


「……ありがとう、ザネラ。君はいつも細かいところまで気が利くな」

 シルファンが照れくさそうに笑うと、ザネラは遠慮深そうに目を伏せた。


「殿下のご公務に差し障っては困りますから。それと──こちらが例の書簡ですわ」

 そう言って一通の手紙をシルファンに渡す。控えめな物腰を装いながら、シルファンの目が向けられるたび、艶やかな眼差しを彼に返す。


 ザネラがシルファンの側仕えとなったのは、半年前のことだ。その変化は急激だった。遠くに控えていたはずの彼女が、いつの間にか彼の私室の出入りを許され、やがて書類やお茶の準備まで取り仕切るようになっていたという。


 実際にユフィルナも王宮に招かれた際にはそれを目の当たりにしているし、社交界でもすでに噂になっている。


 ――王太子殿下は、あの女官に心を奪われているのではないか、と。


 下唇を噛みそうになって、ユフィルナは自身を律するため静かに息を吐く。


 シルファンとの婚約に互いの意思は介在していない。


 ユフィルナの父は軍人であるがゆえに、その妻となる者の不安や苦労もよく知っていた。だから娘の結婚相手には、穏やかで豊かな人生を共に送れる相手を望んだ。とはいえ適当な貴族の下へ嫁がせ、娘の才知が埋もれてしまうのはもったいないと、国王に相談した。その結果、彼女が十歳の時にシルファンとの婚約が決まったのだった。


 王家としても、軍閥貴族の筆頭であるエルヴァリシア公爵家を取り込めば、他の貴族も、より忠実に王命に従う土台ができると睨んだのだろう。


 完全なる政略結婚だ。はじめから彼はこちらを見ていなかった。その目が今さら別の女性に向いたところで、何になるというのか。


 ――感情に溺れ、我を失うのは愚かしいことだ。

 幼い頃から、父にはそう教えられてきた。心に波風を立てないように、ユフィルナは再び深く息をつく。


「この書簡には、軍の防備に関する情報が詳細に記されていた。そして、文末に貴様の名が署名されている」

 シルファンが封筒から取り出した白い便せんには、たしかにユフィルナの名がつづられていた。だが筆致も稚拙で、見慣れた自分の文字とは明らかに異なる。


「私のものではありません。いたずらにしては度が過ぎておりますね」

 真偽不明の紙切れ一枚で国家反逆罪とは、いくらなんでも強引だろう。


「だが貴様がこれを不審な男に渡しているのを、ザネラが目撃しているのだ。そして勇敢にもその男の後を尾けたが、気づかれて逃げられたという。そこに落ちていたのがこの書簡だ」

 彼は、わざとらしく紙切れをひらひらと振る。


「ザネラの見間違いということも――」


「最近、ハンカチをなくさなかったか?」

 シルファンに言葉を遮られて、ユフィルナの眉がピクリと動く。


「……はい。おそらく、先日、王宮に来た日だと思いますが」

 それは彼の言う通りだった。シルファンに呼ばれて王宮へ来て、少しだけ彼の部屋でたわいのない会話をした。なくしたことに気づいたのは、タウンハウスに帰ってからだった。


「そのハンカチが、書簡のやり取りをしていた現場に落ちていたそうだ」


「シルファン殿下は、その証言をお信じになられるのですか?」

 他に目撃者がいなければ、ザネラの虚言ということも考えられるだろう。


「それだけではない」

 シルファンは目を細め、別の紙をポケットから取り出して内容を読み上げた。


「機密文書のある保管庫から出てきた姿を目撃した衛兵がいる。個人的に親密に近づき、軍の動向を探られた兵士もいるという。貴様はその情報をどこに流すつもりだったのだ?」

 そう尋ねる瞳はとても冷ややかだ。


「その証言をした者たちに目通り願えますか?」


「質問に質問で返すな、無礼者。彼らの身の安全のため、直接引き合わせることはできん」


「それでは、お話になりませんね」

 ユフィルナはため息をつきたくなるのを堪えた。だが、周囲の空気は思わしくない。疑惑の眼差しが突き刺さってくるのを感じる。


 国王も沈黙したままだ。これは王家によるエルヴァリシア公爵家排除のための茶番なのだろうか。いや、これまで何代にも渡って国を守ってきた名家を、簡単に切り捨てるとは思えない。ならば、やはりシルファンの独断なのか。それとも――と、ユフィルナは彼の隣に佇んだままのザネラに視線を移す。


 目が合うと、彼女は不安そうにシルファンの背中に隠れた。それに気づいたシルファンが、撫でるようにザネラの肩を引き寄せる。


 か弱く、従順で、色香をまとえば、男性はこちらを見てくれるのだろうか。


 ――いえ、今そんなことを考えても無意味。

 ユフィルナは小さくかぶりを振った。


 父はすぐには戻ってこられない。任務先の領地からここまで馬で三日はかかる。まずこちらから早馬で知らせるとして、だいぶ先になってしまう。


 ――そもそも、人に頼るのが間違い。

 名門の令嬢としての誇りだけは失いたくない。家名を傷つけるわけにはいかない。

 どうしたらいいか、考えあぐねいているうちに、シルファンがにいっと唇を歪める。


「貴様のような裏切り者を、我が妃とすることはできない。よって、婚約も破棄だ! すぐにユフィルナを捕え、追放せよ!」

 彼がそう言い放った瞬間、大広間はどよめきに包まれた。


 令嬢たちは悲鳴を堪えるように顔を背け、貴族たちは距離を取るように後ろに身を引く。


 それでもユフィルナは、怯まなかった。

 張りつめた背筋をほんの少し伸ばして、王太子を見据える。

 なぜ謂れもない罪で貶められなければならないのか。


「私は、本当に何も――」

 キッと壇上を睨みつけた時、後ろから誰かがやってきて隣に立つのがわかり、途中で言葉を飲んだ。

 近衛かと思ったが、視界に揺れる紺青のマントが、その主の正体を明らかにする。


「お待ちください」

 深く、澄んだ声が空気を切り裂いた。


 漆黒の軍服に身を包んだ長身の男が、ユフィルナよりも一歩、前に出た。彼女は目を瞠ってその大きな背中を視界いっぱいに入れる。


「ゼルナーク・オルフィリス将軍か。なんだ、申してみよ」

 シルファンが顔をしかめながら、彼の名前を呼ぶ。


 二十八歳という若さで前線を任される将であり、ユフィルナの父の腹心だ。そして冷静な物腰と、灰銀の髪と深碧の瞳を持ち、軍人らしからぬ美貌を湛えた面立ち、さらには独身ということで王都の女性たちの憧れの的だった。


 案の定、ゼルナークの凛々しい姿に、令嬢たちが色めき立つ空気をユフィルナも肌で感じる。


「王太子殿下。その断罪はいささか拙速にすぎませんか?」

 ゼルナークは落ち着き払った声で尋ねた。


「……なんだと?」


「ユフィルナ嬢を罪人と断ずるには、提示された証拠はあまりにも粗雑です。筆跡も、証言も、曖昧すぎる。偽装の可能性を排除できない以上、無実の可能性を検討するべきです」

 ゼルナークの冷静な声色が、混乱を鎮めるように場に広がる。


 王太子に楯突くなど、通常ならば死を意味するようなものだ。だが、彼の声は揺るがない。冷静で、毅然としていた。


「では貴殿は、ユフィルナ嬢の潔白を証明できるというのか?」

 重々しい声を発したのは、それまで黙って断罪劇の行く末を見つめていた国王だった。玉座からこちらを見下ろすその眼差しは、鷹のように鋭い。


 ゼルナークは、その視線を真っ向から受け止める。


「今は無実である確たる証拠がない以上、できると断言はできかねますが、彼女を真に知る者として、言わせていただきたい。ユフィルナ嬢は、陛下がお疑いになるような卑劣な人物ではございません」


「それで?」


「今ここで真偽を争うことは不可能。ですが、せめてこの場から彼女を遠ざけ、正しい裁きをお与えいただきたく」

 ゼルナークが朗々と語ると、国王はその言葉をしばし噛みしめ、やがてゆっくりと頷いた。


「……よかろう。ユフィルナ嬢の罪については、慎重に調査を進めるものとする。それでよいな、シルファン?」


「……御意に。ただし、婚約は破棄させていただきます。何を考えているのかわからない女との婚姻するのは気が進まない」

 シルファンが不満そうな視線をユフィルナに投げた。


「……ああ、致し方あるまい。エルヴァリシア殿には私から話そう」

 国王は深いため息をつく。


「『あなたの声を聞くたびに、心がふわりと浮きます。たとえ叶わない想いだとしても』――」


「ひっ!」

 唐突にゼルナークの口から零れたロマンチックなセリフに、ユフィルナはぎょっとして、喉の奥で悲鳴を上げた。


「オルフィリス将軍!」

 ユフィルナは慌てて彼のマントを掴み、引っ張った。


「あれほどの美しい想いを手紙にしたためられる女性が、国を裏切るなど笑止千万」

 彼は、それも意に介さず前を向いたまま、流麗に語る。


「手紙……?」

 国王が怪訝そうに白髪の混じった眉をひそめた。


「将軍閣下! それ以上は――」

 ユフィルナは急速に顔に熱が集まってくるのを感じた。


 ――冷静であれ、冷静であれ!

 呪文のように心の乱れを抑えようとするけれど、体中の血が湧きたつように激しく巡って考えがまとまらない。


「ユフィルナ嬢が罪に問われ、行き場を失うというのなら。私が婚約者として彼女の身柄を引き受けましょう。責任は――すべて私に」

 ゼルナークが壇上に向かって、はっきりと口にした。


 これには令嬢たちの口から悲痛な悲鳴が漏れ聞こえる。


 ――婚約者?

 ユフィルナは聞き間違いかと思ったが、周囲の反応を見るに、やはり「婚約者」と彼は発言したらしい。


 ――いったいどういうこと?

 理解が追いつかなくて、思考がぐるぐるとただ回る。


 もしかしてゼルナークも混乱していて自分の言っていることがわからないのかもしれない……いや、そんなわけないだろう。


 自分で自分にツッコミを入れたものの、本当に意図が読めない。


「貴殿は変わっているな、反逆罪の嫌疑をかけられている淑女を婚約者にしたいとは」

 国王の言葉に、ユフィルナも小さく頷いた。


「しかしながら今回の一件は我が国にとって由々しき事態だ。真相が明らかとなるまでユフィルナ嬢は自宅での謹慎を命ずる。婚約は認めるが、貴殿には正しき調査と監視を求める」


「謹んで、拝命いたします」

 ゼルナークは片膝をつき、恭しく首を垂れた。


「では、下がるがよい」

 王のその言葉にゼルナークがゆっくりと立ちあがり、こちらに振り返る。


「参りましょうか」

 彼にそう言われても、ユフィルナはすぐには動けなかった。


 何も言い返す間もなかった。

 人々の視線が刺すように注がれる中、気丈に顔を上げようとしながらも、情けないことに足が震えているのだ。


 ゼルナークはそんな彼女にそっと手を差し出した。

 ユフィルナはハッとしてその手を取る。手袋越しにもわかる、彼の鍛えられた指先、体温――それらを感じた瞬間、心の緊張が解けた。


「はい……」

 小さく頷いたユフィルナは、静かに歩き出し、彼と共に大広間を後にしたのだった。


******


 待機していた馬車に乗り込むと、「ユフィルナ嬢」とゼルナークに名を呼ばれた。


 陽光の下で翻る藍銅鉱(アズライト)色のマントは、いかなる混乱の只中にあっても揺るぎなく、彼の青の瞳はどこまでも澄んでいて力強い光が宿っている。


「明日、改めてあなたの家に伺います。エルヴァリシア元帥閣下にも、今回の件は連絡が行くことでしょう。閣下が王都に戻られるまでに、あなたの潔白を証明するための手立てを整えますのでご安心ください」

 ゼルナークは微笑を浮かべた。


「オルフィリス将軍まで巻き込んでしまい、なんとお詫びを申したらいいのか……」

 膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめ、ユフィルナは目を伏せた。


 きっとあのまま話が進んでいたら自分は反論する機会も与えられないまま、護送されていたかもしれない。それを止めるために、ゼルナークは婚約者などと突飛な提案をしたのだろう、という結論にユフィルナはいたっていた。


「違います。あなたは私が望む未来に、どうしても必要な人なのです」

 鮮やかな瞳の奥に、燃えるような色が見えた気がしたのは気のせいだっただろうか。


「え――?」

 ユフィルナが顔を上げた時、ゼルナークが無言で馬車へと乗り込んでくる。


 思わず後ずさる彼女を、逃がすような間合いで見つめたかと思った瞬間、彼の手が彼女の頬を捉え、唇が重なった。はじめは優しく、まるで反応を見るかのように。


 ――な、な、何これ⁉

 恥ずかしくて目を閉じたものの、これが夢でも幻でもないことは、乗せられた体の重みとぴったりと吸いついてくる彼の熱が証明していた。


 ゼルナークが彼女の細い肩を片腕で抱き寄せ、もう片方の手が腰へと回される。


「待っ……」

 彼を押し返そうとしたが、逃げるには狭すぎて身動き一つとれなかった。


「んんっ……」

 重なり合う唇から、吐息が漏れる。


 瞼を震わせ、抗おうとするユフィルナの意思など、彼の強引な愛し方の前ではいともたやすく崩れていった。


「……恋文の返事は、これでよろしいでしょうか?」

 ようやく腕の力を緩め、唇を離した彼は微かに吐息混じりの声で囁く。


「へ、返事……?」

 心臓が飛び出しそうなくらい、激しく打ちつけていた。恐る恐る目を開け、震える声でそう答えるのがやっとだった。


「あなたはさきほど私が読み上げたものを聞いて、動揺された。中身を知っていなければできない反応です」

 彼は、国王に対してすらすらと言ってみせたロマンチックな一節のことを言っているのだ。熱っぽい視線にじりじりと焼かれて、ユフィルナの体温が上がっていく。


「あ、あれは……ですね、友人に頼まれて、言葉がおかしくないか、見てほしいと言われて……」

 とにかく彼を遠ざけたい一心で嘘をついた。


 そう、ここで嘘をつかなければ友人に申し訳が立たない。


 ゼルナークが言うように、あの手紙はユフィルナが書いたものだった。ただし「友人に頼まれて」だ。

ユフィルナは、数日前、友人である男爵令嬢のリザから、恋文の代筆を依頼されたのだった。



『ゼルナーク様に告白したいの! でもお会いできる機会なんてほとんどないし、そもそも身分も釣り合わないのよね』

 リザは元気に悩みを告白してきた。その勢いで想いを伝えればいいのではと言ったら、睨まれてしまった。


『でもね、手紙でなら告白できると思うのよ』

 すればいいじゃないと返答すると、黙って紙を渡された。


『私、文才ないし、字も下手だからユフィルナが書いてくれないかな?』

 そういうことは自分でしなければと諭したが、捨て犬のようなつぶらな瞳で見つめてきたので、了承してしまった。


『あなたの声を聞くたびに、心がふわりと浮きます。たとえ叶わない想いだとしても……か。さすが、ユフィルナね。どうしたらこんなに素敵な文章が書けるようになるの?』

 リザは素直に感心していたが、ユフィルナは曖昧に笑うだけだった。


 世間一般では、ユフィルナは国軍総司令官――元帥の娘で、表情が乏しい、誰に対しても冷然とした対応で近寄りがたい、あるいは王太子の婚約者ということでお高く留まっているのではと、やっかむ者もいた。そんな中でもリザだけは親しげに話しかけてきて、タウンハウスを行き来するような仲だった。


 数少ない友人を失うわけにはいかなかったから、断れなかった。

 たとえ、それがユフィルナも密かに想いを寄せている相手に対する恋文だったとしても。


 すでにシルファンの婚約者でもあったし、父も軍人は絶対にだめだと言うので、ずっと心に秘めたままの想いだった。


 何を書いてもいいというから、ユフィルナは燻る思いのたけをすべて紙につづった。


 初めて会った時から胸が切なく高鳴ったこと、ゼルナークのことを知れば知るほど想いは深くなっていったこと。けれど隣に並ぶにはあまりにも遠い存在で。

自分の気持ちなど重荷にしかならないだろう。それでも伝えずにはいられなかった。この恋が叶わないと知りながらも、それでもあなたを想わずにいられない私をどうか笑わないでほしい。お慕いしている。ずっと、あなただけを追いかけている――。


 中身を確認してもらい封をしたうえで、リズの名前を書き、彼女に渡した。

 ――それなのに、どうして?


「あれは、どう見てもあなたの筆跡でした」

 ゼルナークは彼女の背中に手を回したまま微笑んだ。


「どこで私の筆跡を? 私……オルフィリス将軍に手紙を書いたことなど一度も……」


「元帥閣下――お父上には何度か出されていたでしょう? 遠征先で、閣下は嬉しそうにそれを他の者にも読ませてくれましたよ」

 彼は、くすりと笑みを漏らした。


「な……っ」

 ユフィルナは目を丸くした。


 軍事郵便は検閲が入るから、おかしなことは書けない。誰に読まれてもいいように日常の出来事や体調を気遣うような内容しか書いていなかったが、まさか部下にまで読ませていたとは――!


 任務先から戻ってきたら、問い詰めなければ。いや、その前にこちらが今回の件で問い詰められるかと思うと気が重い。


「手紙が届くと、閣下は珍しく笑顔を見せるんですよ。ですが、それもわかります。あの美しい文字はたしかに心が安らぐのです」


「それで……あの恋文も私が書いたもの、だと……?」


「ええ。それに、リザ・エーデルライン嬢にも、あれが代筆だったと回答をもらいました」

 ゼルナークは目を細める。


「あなたが嘘をつけない性格だということは、元帥閣下から聞いております。たとえば本当は具合が悪いのに元気だと書く時、嫌なことがあったのに楽しいと書く時、決まって文字が揺れたり、インクが滲んだりすると」

 それを聞いて、ユフィルナはぽかんとしてしまった。


「私に届いた恋文の文字は迷いがなかった。つまり、あれはあなたの本心ということで合っていますよね?」


「ち、ちが……」

 震えるように紡いだ否定は、再び唇を塞がれたことで呑み込まれた。


 今度は、もっと深く、容赦なくユフィルナの体を自身に引き寄せ、深く、熱を込めて唇を奪われる。


「は……っ」

 眩暈がしそうなほど、呼吸を奪うような口づけの最中、彼の指が彼女のうなじに絡まり、後頭部をそっと支える。


 ──返事は言葉ではなく、態度で見せてほしい。

 そう告げているような、濃密な時間だった。


 やがて唇が離れた時、ユフィルナは赤く染まった頬で、ただゼルナークを見上げるしかなかった。


 彼女が息を整える間もなく、彼は囁くように言った。


「あなたは私のものだ。たとえ国全体が敵に回ろうと──誰にも手出しさせない」

 そう告げて彼は、名残惜しそうにもう一度軽く啄むように口づけてから、静かに馬車を降り、扉を閉める。


「それでは、また明日」

 ゼルナークはそう言ってから、前方にいる御者に合図を送った。


 馬車が動き出してもなお、ユフィルナの胸は早鐘のように打ち続けている。


「私……どうしたら……」

 そっと唇に触れ、そのまま顔を覆って馬車の座面に突っ伏した。


 ――冷静であれ。


 ――そんなの、無理。


******


 ゼルナークとの最初の記憶は、すみれの香りとともにある。


 まだ少女だった頃のユフィルナは、タウンハウスの中で迷子になることがよくあった。あの日も、使用人に呼ばれて父のもとへ向かう途中、まちがえて応接間の扉を開いてしまった。


 そこにいたのが、ゼルナークだった。まだ若き将校だった彼は、父との軍務の打ち合わせを待っていたのだろう。端然と椅子に腰掛けた彼が、まるで一幅の絵画のように、静かに一つの菓子をつまんでいた。


「――すみれの砂糖漬け!」

 ユフィルナは、ぱあっと目を輝かせた。大好きな菓子だったからだ。


 しかし、目の前の冷然とした雰囲気の青年が食すにはあまりにも意外で、ユフィルナは部屋を間違えたことも忘れ、その場に立ち尽くしてしまった。


「……どうかされましたか?」

 ゼルナークの低く穏やかな声に、彼女は慌てて首を振る。


 彼はふっと目を細めて、掌に乗せた紫の花をユフィルナに渡した。


「これは秘密、ということで。軍人が甘いものを好むなんて、知られたくないので」

 彼が少しだけ照れくさそうに唇を綻ばせる。その様子に、ユフィルナの胸がことんと初めての感情に揺れた。


 それから数年が経過――。

 ユフィルナはシルファンの婚約者として振る舞うことを求められ、社交界の中心に据えられていった。

ゼルナークと顔を合わせることもほとんどない。けれど、彼の存在がすみれの花の香りとともに心に残り続けていたことに、彼女はずっと気づかないふりをしていた――あの日までは。


 貴族学校の卒業式の日。

 シルファンは来なかった。式典の最後、卒業生代表としてユフィルナが舞踏会のファーストダンスに立つことになっていたにもかかわらず。


「なんてこと……」

 途方に暮れる彼女の前に現れたのは、ゼルナークだった。


「華々しい舞踏会に相応しい代役とは思えませんが、ひと踊り、お付き合いいただけますか?」

 彼はすでに元帥に次ぐ優秀な将軍として名を馳せており、式典軍装の代わりに深い紺色の礼服に身を包んでいた。その姿に、場の誰もが息を呑んだ。


「よろしく……お願いいたします」

 差し出された彼の手におずおずと手を重ね、ユフィルナは大広間の中央へ進む。


 楽団の演奏が始まったが、目の前の端麗な青年に見惚れてダンスの振り付けがすっぱりと頭から抜け落ちてしまっていた。


 足が震えて、どうしたらいいかわからない。


「大丈夫です。うまく見せるのは、私の役目ですから」

 ゼルナークは囁くように告げた。


 低音の甘い響きに、鼓動が大きく跳ねる。目が合うと、吸い込まれそうな青の中に微かに揺蕩う別の光が灯っているように見えた。不思議な色合いの瞳だと見つめている間に、自然と足が動き出した。


 音楽に合わせ、彼の動きに合わせているうちに、ぎこちなさが取れていく。


「……よくお似合いですね。食べてしまいたくなります」

 ゼルナークが顔を寄せて二人にしか聞こえないように呟くから、ユフィルナは頬が熱くなるのを止められなかった。


 彼女の髪には、すみれの花を模した髪飾りが留められていたのだ。もちろんこれは彼のことを想って職人に作ってもらったものだ。


 自分の気持ちを彼に知られたらどうしようと、ドキドキしながら最後まで踊り切った。


「……ありがとうございました」

 曲が終わり、ユフィルナは美しいカーテシーをとった。


 ――大丈夫、気づかれていないはず。

 いや、気づかれたところで、ゼルナークはこちらのことを何とも思っていないだろう。上司の娘が困っていたから手を差し伸べただけだ。


 家に帰ったら、すみれの砂糖漬けを食べよう。

 彼への想いを飲み込むように――。


******


 その後、ユフィルナにかけられていたスパイ容疑は、ゼルナークの尽力と、友人の協力、そして彼女自身の冷静な分析によって覆された。


 黒幕は、かつてユフィルナの父に仕えていた軍関係の貴族だった。その男は、出世を阻まれた逆恨みから、私生児である娘・ザネラを使ってユフィルナを陥れようとしていた。


 ザネラは貧困の中で育ち、見返りとして「認知と王太子との婚約」を約束され、手を汚したのだ。


「私は生きるために必死だったのよ! あんたみたいに、何もかも恵まれて育ったお嬢様にはわからない!」

 ザネラの叫びに、ユフィルナは淡々と答えた。


「私は毎朝、父の代理で領地の帳簿を見直し、税と収穫の動きを確認し、民の訴えに目を通しています。時には地形図の読み方も学んでいます。それが、あなたにできますか?」


「な……そんなの、私にだって……」

 ザネラは悔しそうに唇を噛むが、それ以上は言葉にならなかった。


 国王はユフィルナに公式の謝罪を述べ、シルファンは冤罪と婚約破棄の責任を問われて廃嫡となった。


 ほどなくして、ユフィルナの父が帰還。娘がゼルナークと正式に婚約したと知ると、一瞬だけ厳しい表情を見せたが――。


「軍人など、とは思ったが……ユフィルナが選んだのであれば、正しいのだろう」

 複雑そうな顔をしていたが、それでも静かに頷いた。



 そして迎えた初夏の夕暮れ。窓辺のレースのカーテンが柔らかな風に揺れている。

 そのユフィルナの部屋にはゼルナークがいた。


 静寂の中、ゼルナークは彼女の左手を取り、指先をなぞるようにして銀の指輪をはめる。


「ようやく、この日が来ましたね」

 彼の声音は穏やかで、けれどその奥にある熱に、思わず息を止めた。


「ありがとうございます」

 嬉しくて、頬を染めてにこりと笑みを浮かべる。


「誰にも触れさせない。誰の前でも、そんな顔を見せないでほしい」

 そう言って、彼はユフィルナの手を強く握った。


 温かいというには熱すぎて、まるで――決して手放さぬよう、鎖で繋ごうとするような。


「……でも、大丈夫ですね。あなたはもう私のものですから」

 耳元に落ちる囁きに、ユフィルナは顔を赤くして俯く。


 胸が、きゅうと締めつけられる。

 奪われた唇。熱に溺れた時間。あれが、夢ではなかったと、今また彼が確かめるように囁く。


「あなたの涙も、吐息も、甘い声も、全部知っています。今さら手放しはしません」

 冗談のように笑いながらも、その瞳にはほんの少し狂気の光を孕んでいた。


 ユフィルナが誰かに微笑んだだけで、簡単に壊れてしまいそうなほど――彼の想いは、深くて、重いことを、ここの日に至るまでに思い知られた。


「あなたを守ることも、奪うことも、すべて――私だけの特権です」

 額に落ちたキスに、そっと目を閉じた。


 ――心が満たされていく。

 ――この人は、私を決して裏切らない。

 ――彼の愛は絶対だ。


「愛しております、ユフィルナ。あなたをこの腕に閉じ込めていたい」


「私も、お慕いしております、ゼルナーク様」

 彼に強く抱きしめられて自然と、笑みが零れた。


 ――どうか、いつまでもそばにいて。

 ユフィルナもまた、彼から離れる気など、さらさらない。


 二人は見つめ合い、想いを重ねるように口づけを交わした。






最後までお読みいただき、ありがとうございました!

恋文の日、キスの日に合わせてお話を考えていたのですが、時間がなくなってしまい、途中を簡略化しています。

まあキスシーンが書きたかったので、いいです。

良かったらブクマ、評価よろしくお願いいたします!!

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