鬼畜な石拾いコーチ
うろはいい。
隙間なく体にキュッとフィットするうろは特に最高だ。
みちみちにナナミーで詰まっているうろは、危険が忍び込む隙をも与えない。
そこには守られているような安心感がある。
しかもうろの内側に貼られた、天女の羽衣のフワ………ッとした極上の肌触りの生地が、心もフワ………ッと軽くしてくれる。
更に、だが。ナナミーのうろは香りがいい。
ユキが焚いてくれるのか、その時々によって変化するアロマのような香りは、いつだってナナミーの疲れた心と体を癒してくれていた。
今日の香りはグレープフルーツの香りだ。
すぅぅぅぅっと深呼吸すると、胸いっぱいにグレープフルーツが広がった。
ほどよく苦みを含んだ爽やかな香りが、穏やかで幸せな気持ちにさせてくれて、数日前の過酷な石拾いの疲れも溶けていくようだ。
「ふぃ~………………」
長い長い溜息に乗って、体中の疲れも流れ出ていく。
ああ、もう外に出たくない。
このままうろと一体化して、森の中に立つ一本の木になってしまいたい。
―――今日のうろも、そんな思いに駆られるくらいの心地よさを見せていた。
トロトロと意識が溶けていくと、心地よいまどろみの中で思い浮かぶのはヒヨクのことだ。
ナナミーはぼんやりとヒヨクについて考える。
ヒヨクは仕事に一切の妥協を見せず、部下にも完璧を求める鬼畜な上司だ。
そんなヒヨクは石拾いにも一切の妥協を見せなかった。
何度ナナミーが川底から石を拾って渡しても、「違うだろ?」と間違いを指摘していた。
その姿は鬼畜な石拾いコーチの姿そのものだった。
もちろんナナミーだって、間違いには気づいていたし、正解は若草色の石だと知っていた。
だから、力尽きて川の流れに足を取られて、「わぁ〜」と叫ぶ間もなく流されるまで頑張った。
すぐに石拾いコーチが危険に気づいて助けてくれたので事なきを得たが、川に流された時に石拾いへの情熱も流されてしまったようだ。
屋敷に運ばれてお医者様に診てもらう頃には、ハートの付いた若草色の石への未練はきれいさっぱり消え去っていた。
今はむしろこれでよかったのかもしれないと思えるくらいだ。
可愛いハート模様が付いた若草色の石は、本当に特別な石だった。
「ヒヨク様が大好きです」という告白も、「結婚してください」というプロポーズも、「私はヒヨク様のつがいですが、残業はお断りします」という、ナナミーの心からの願いまでをもハッキリと伝えてくれる石だった。
更にはヒヨクの鬼畜な石拾いコーチぶりを見せることによって、社畜だった頃のナナミーの記憶さえも蘇らせた。
今なら冷静に判断できる。
ヒヨクはやると決めた仕事は、必ずやり遂げる男だ。
「名乗り出たつがいに残業をさせる」と決めたからには、必ず残業をさせるに違いない。
もしあのとき特別な石を拾って、「つがいです」などと石がヒヨクに告白してしまっていたら、今頃ナナミーはこうして石拾いの疲れを癒すこともできないまま、今日も会社で残業をさせられていたに違いない。
ナナミーは、鬼畜な上司じゃないヒヨクが好きなのだ。
特別な石に勝手に告白されて、社畜に戻るわけにはいかない。
もう石なんて要らないから、このうろの中でヒヨクの帰りを待って、今日こそは一緒にジュースを飲もう。
―――そう心に固く誓う。
石拾いから数日経った今でも疲れが残っているのか、ナナミーは会社から帰ると、うろで深く眠ってしまうようになっていた。ユキは何度も声をかけてくれているみたいだが、体が重くてどうしても目が覚めないのだ。
目覚める頃にはいつも夜は更けていて、ナナミーはもう何日もヒヨクと一緒にジュースが飲めない日が続いている。
『川で流されそうになった時、ヒヨク様はスーツのまますぐに助けてくれたな……』
鬼畜な石拾いコーチのヒヨクはゴメンたけど、優しいところは『やっぱり好きだな……』とナナミーは思う。
ゆらゆらと揺らめく意識の中、ヒヨクのことを想いながら眠りに引き込まれていく。
「ナナミー?寝てる……………のか?」
急いで屋敷に帰ってきたつもりだが、今日もナナミーはうろの中で眠っていた。
眠るナナミーを見て、ヒヨクは焦りを募らせる。
会社帰りにナナミーとの時間を過ごせなくなってから、何日も経っていた。
以前はヒヨクが帰宅すると必ず執務室に来てくれていたのに、今はヒヨクの帰りを待つことなく眠ってしまっている。
ナナミーはうろの中でしゃがみ込んだまま顔も上げてくれない。
『もしかしたら』とヒヨクは考える。
危険な川遊びを続けるナナミーを見ていられず、翌日に「水を入れ替えるから」と川の水を抜いてしまったことを怒っているのだろうか。
ナナミーは「川の石は、水が流れる川にあるからこそ価値がある」と考えているのだろうか。だから水がなくなった川に見向きもしなくなったのだろうか。
―――余計なことをしてしまったのかもしれない。
数々の心当たりに不安が深まっていく。
『………………俺は失望されたのか?』
ふとよぎった可能性に、心臓がドクンと跳ねた。
ドクドクドクドクと激しい動悸が続いて、息苦しくなる。胸元を握る手が震えた。
「違う!川の水を抜いたのは、安全に石拾い遊びをしてほしかっただけだ!」と、今すぐナナミーを起こして説明をしたかった。
だけどスウ………スウ………と、聞こえてくる穏やかな寝息を邪魔したくない。
どうすればいいのか分からないが、絶対に嫌われたくない。
失望されたくない。
心配しているだけで、誰よりもナナミーを応援していることを、今すぐ行動で示さねばならない。
ナナミーが望むならば、ナナミーが納得できるまで石拾いを続けさせなければならない。
焦る思いでヒヨクは頭を回転させた。
「おうヒヨク、ここにいたか。今度の休みまでにこの書類を―――って、お前何してんだ?」
書類の束を手渡すためにヒヨクの屋敷を訪れたレオードは、ナナミーのいるうろに背を向けて座り込み、一心不乱に何かを書き続けているヒヨクを見て言葉を止めた。
近づいてヒヨクの手元を覗き込む。
「ナナミー強化トレーニング計画表………?ヒヨク、お前何考えてんだ?」
何をとち狂ったのか、ヒヨクがナナミーの筋力トレーニング計画表を作っていた。森の走り込みやスクワットなど、朝晩のスケジュールがみっちりと書き込まれている。食事内容も、筋トレ肉食メニューに変えるようだ。
こんなものを本気で実行させようものなら、ヒヨクは運命のつがいに一生恨まれるだけだろう。
追い詰められた顔をしているヒヨクは、自分が大きな過ちを犯そうとしている事に気がついていないようだ。
二人に何があったのかは分からないが、ここは親心を見せてやるべきだろう。
レオードがヒョイと紙を拾い上げて計画表を破り捨ててやろうとした瞬間―――これまでにない素早い動きでヒヨクに奪い返された。奪うついでにレオードの手も、バシッ!と殴っていきやがった。
「お前どれだけ必死なんだよ。――とにかくそんな意味のないことすんじゃねえぞ」
レオードはヒヨクの態度にイラッとしながらも、冷静に声をかけて大人の対応を見せてやる。
「ああ?意味ねえわけねえだろ?あいつには足腰の強化トレーニングが必要なんだよ!川の流れにもぶれない筋力つけねえと、見てられねえんだよ!ナナミーの目が覚めたら、早速今日からみっちり鍛えこむつもりだ。
……………っつーか静かにしろよ。テメエが騒ぐから、起きたんじゃねえか?寝てる時くらいゆっくり休ませてやれよ」
チッと舌打ちをしながらヒヨクが振り返ると、ナナミーは顔を伏せていた。
ふうと憂いたようにため息をついたヒヨクが、「………とにかく納得できるまで付き合うつもりだ」と言って、また更なるトレーニングを書き足していっている。
「……………」
レオードは、そんな二人の様子をずっと見ていた。
―――そう。
レオードがヒヨクに声をかけたとき、ヒヨクの背後にいたナナミーは顔を上げていた。
仕事をしていると思っていたのか、邪魔しないようにうろの中でじっとしていたようだが、ヒヨクの「あいつには足腰の強化トレーニングが必要なんだよ!」という言葉で、顔をこわばらせていた。
ヒヨクが振り返ろうとした瞬間に、それまで顔を上げていたナナミーが、これまでにない素早さで顔を伏せて寝たフリをしていた。
よほどヒヨクの立てたトレーニングをしたくないのだろう。
「納得できるまで付き合うつもりだ」なんて、誰が納得するまで何に付き合うつもりか知らないが、
「テメエが冷静にならない限り、テメエの前でナナミーちゃんが目を覚ますことはねえだろうよ」と言ってやりたい。
さらに言うなら、「テメエは親心を見せてやった俺の手を払いやがったな、オラ!」と殴り飛ばしてやりたい。
だけど愛する妻に似た娘のようなナナミーの前で、そんな乱暴なところを見せるわけにはいかない。
ナナミーに嫌われたくはない。失望されたくはない。
一心不乱に計画を立て続けるヒヨクに、レオードは「そのまま空回りしておけ」と放っておくことにした。
今日もつがい付き使用人のユキは、遠くの木の陰から二人を見守っている。
「ヒヨク様!そんな言い方では、「ヒヨク様が納得するまでトレーニングに付き合わされる」と、ナナミー様が誤解してしまいます!」という、ユキの心の叫びはまだヒヨクに届かない。




