10.不動産屋の裏事情
ナナミーがアパートを選ぶ時の条件は二つ。
一つは、どうしても行かなくてはいけない場所に近い事。
会社と市場に近い事は、なによりも外せない条件だ。
一分一秒でも早く自分の部屋に帰って、一分一秒でも長く眠りたい。
二つめは、お風呂の造りが浴槽付きである事。
毎日ぬるいお湯にゆっくりと浸かって、疲れと共に自分の気配も洗い流したい派のナナミーは、湯船付きのお風呂も絶対に外せない条件だ。
湯船は小さくても構わないが、シャワールームのみは許せない。
「だからね、ユキさん。気になってるアパートが、お風呂付きの部屋だったら、そこに決めようと思うの。
明日はハリエットさんのお店のオープン日だから、刺繍店に行く前に、不動産屋さんに寄ってみるつもりなんだ。お隣同士なんだよ」
週末に会社から帰ったナナミーは、オヤツを食べながら、明日の予定をユキに話した。
今日のオヤツは、スター社の有機栽培レタスだ。
瑞々しいしいレタスをペリッとめくって、シャクッ……シャクッ……と食べ進めていくのがとても美味しくて楽しい。
レタスを食べる時は、「お腹がいっぱいになる前に、どれだけレタスを小さく出来るか」とフードファイター気分で食べる事に集中しているナナミーは、ユキが黙り込んだ事に気が付かない。
「お料理をしないから、キッチンはなくてもいいけど、お風呂付きは大事だよね。前のアパートも、会社に近くて、部屋にお風呂が付いてたから決めたんだよ」
シャクッ……シャクッ……と食べながら、次の一枚をめくる事に集中するナナミーは、ナナミーの言葉を聞いて、静かにユキが部屋を出た事にも気が付かなかった。
ユキは足早に屋敷を出て、母親のスノウの元へと向かっていた。
「困った事があればすぐに相談するのよ」と、つがい付き使用人の先輩でもあるスノウは、いつでも駆け出しのユキを応援してくれている。
今こそが相談すべき時だろう。
ユキが生涯仕えるはずのナナミーが、ユキの元を離れようとしていた。
ナナミーに仕えてまだ数ヶ月だが、常に想像以上の弱小ぶりを見せてくる、ナナミーの一人暮らしなど受け入れられるはずがなかった。
些細な出来事で高熱を出して寝込むようなナナミーを一人に出来るはずがない。
ナナミーがかつてアパートで一人暮らしをしていた事は知っているが、よく無事に生き延びてくれたと思うほどだ。
レタス一枚めくるのにも力を入れる様子を見せるナナミーを思い出して、ユキの不安は膨らむばかりだった。
屋敷での残業がなくなってから、時間に余裕ができたナナミーは、毎日ユキにその日の出来事を話してくれる。
だからヒヨクのつがいに名乗り出たラニカが、普段ナナミーに何を話しているかも、どうしてナナミーがアパートを探しているかも、ユキはよく知っている。
運命のつがいの仮認定が、正式認定された時に備えているのだろう。
だけどユキにとってのヒヨクの運命のつがいはナナミーだけだ。
これだけ弱小な者は他にいない。絶対にヒヨクの運命のつがいに間違いないとユキは確信を持っている。
『すぐにスノウお母さんに相談しなくっちゃ。きっとレオード様が何とかしてくれるはず。相談して帰ったら、ナナミー様はレタスを食べながら眠っているはずだから、ベッドに運んであげて……』とこれからの事を考えながら、ユキはスノウのいるレオードの屋敷に急いだ。
翌日、休日の朝。
早朝に屋敷を出て、張り切って不動産屋に向かったナナミーは、現実は思い通りにならない事を、ここでも思い知らされていた。
気になっている物件は、ナナミーの希望する条件に合わなかったのだ。
「え……。建設中のアパートには、共同シャワールームがあるだけで、個室にお風呂は付いてないんですか?」
「そうなんです。あのアパートは、お風呂の充実より、キッチンを充実させた部屋の作りになっています。キッチンにはコンロがなんと!五つも付いているんですよ。
寝室は狭くなりますが、その分ダイニングキッチンスペースが広くて、大きな冷蔵庫も大きなテーブルも置けるんです。たくさんのお友達を呼んでホームパーティが開けますよ。賑やかな一人暮らしライフを応援する設計となっております」
不動産屋さんのお姉さんが、お目当てのアパートの間取りを、「いかがでしょうか?」とにっこりと笑ってお勧めしてくれた。
だけど違う。
賑やかな一人暮らしライフなど、ナナミーは望んでいない。ホームパーティなどナナミーには無縁の世界だ。
家は眠る場所であって、人を呼ぶ場所ではないと思っているナナミーには、合わないアパートだった。
「あの。この辺周りで、個室にお風呂の付いた物件は、何かないですか?」
「この辺りで」と地図の中の会社を指差しながら、お姉さんに尋ねてみたが、今はないようだった。
お風呂付き物件は、今は主流ではないのかもしれない。
『仕方がない。諦めよう』と諦めて、ナナミーは不動産屋さんを後にした。
早朝に屋敷を出たナナミーを満面の笑みで見送ったユキは、「そろそろ不動産屋に着いている頃かしら?」と時計を見た。
せっかく休みの日に早起きしてまで向かった不動産屋だが、ナナミーの求める物件を見つける事は不可能だという事を、ユキはすでに知っている。
昨日中にレオードが対策を取っているはずだ。
ナナミーが話していた建設中のアパートも、会社の周辺の浴槽付き物件も、全てレオードに買い取られているだろう。
「アパートの権利ごと買って、浴槽壊してシャワールームに変えとくか」とレオードは話していた。
あの辺りの物件は、これからシャワールームが主流になっていくと思われる。
「さすがレオード様だわ」と手際よく対応してくれたレオードに感謝しつつ、ユキはスノウからの言葉も思い出す。
「ユキ。すぐにここに相談しに来た事は、とても良い判断よ。レオード様も、よく知らせてくれたと話していたわ。ユキも立派なつがい付き使用人になったものね」と、スノウは誉めてくれた。
どれだけもどかしく思っても、運命のつがい同士を静かに見守ること。
―――それは運命のつがい付き使用人の心得だ。
『今回の判断は正しかったのね』とホッと安堵すると共に、ユキは仕事に対して確かな手応えを感じていた。
「あ〜今、浴槽付きの物件ってないんですよね〜。今の流行りはキッチン重視で、シャワールームだけの方がオシャレで人気あるんですよ〜」
笑顔で接客する不動産屋のお姉さんが知らない、裏側のお話。