09. スルメが導く場所
お昼休みにカリナが、「あ、そうだ。ナナミーちゃん知ってる?」と何かを思い出したように、お弁当のスルメから口を離した。
「この会社の近くに、新しいアパートが建つみたいよ。ほらあそこ」と、スルメで指した先に建設中のアパートが見えた。
「あんなに近かったら、朝もギリギリまで寝ていられると思わない?」と尋ねられて、ナナミーも「そうかも」と頷いた。
スルメで指されたアパートは、会社の裏側に位置するが、裏口から入れば隣も同然の場所にある。
ナナミーの足で歩いても、5分で着く距離だ。立地条件は悪くない。
ナナミーは『今日の帰りに、あのアパートの間取りとか家賃とかを調べてみようかな』と考えた。
いつラニカが正式につがい認定されて、いつナナミーが屋敷を出なくてはいけない日が来るか分からない今、引越し先を調べておくに越したことはない。
何も考えないままに、屋敷を出なければいけない日を迎えてしまったら、それこそラニカの社員寮を頼る事になってしまう。
ラニカが休憩時間に、楽しそうに寮生活を話してくれたが、ラニカの寮はナナミーにとって馴染めるとは思えない場所だった。
「得意な料理をみんなで持ち寄って食べるのよ」と言われても、ナナミーは一本まるまるのキュウリにマヨネーズを添える事くらいしか出来ない。
「みんなで夜通しおしゃべりしたりするの」と言われても、真っ先に寝てしまう自信がある。
「みんな上昇志向が強い子達なの。私達と同じよ」と言われても、絶対にナナミーと同じではないと言い切れる。
「うちのパルル会社ってパール専門店でしょう?パールコスメ部門の子もいるから、流行りのメイクも教えてもらえるわよ」と言われても、ナナミーは化粧をした事もない。
聞けば聞くほど不安が募っていくばかりだった。
ラニカの社員寮に頼るわけにはいかない。
良い物件が見つかり次第、屋敷を出るべきかもしれないと思い始めていたところだった。
『このタイミングでアパートの話を聞いたのも、何かの縁かもしれない』と思って、今日の仕事帰りに市場近くの不動産屋に向かう事にした。
もし条件が合うなら契約してもいい。
今日もラニカのおかげで残業書類なく定時に帰れたので、ベアゴーには不動産屋前まで送ってもらった。
不動産屋はまだ開いている。
早速入ってみようと扉に向かって歩くと、隣に新しいお店ができていた。
今週末オープンと書いてある。
「ハリエット刺繍店……?」
お店の看板を読み上げながら、ナナミーは友達のハリエットを思い出す。
ナナミーに「相談をしたい」と話していたハリエットとは、結局あれから会えていない。
協会で会ったあの日から、ナナミーは長い間寝込んでいたし、回復してから何度もつがい認定協会に寄っているが、あれからハリエットは協会に訪れてもいないようだった。
サイモンはナナミーがヒヨクの屋敷にいる事を伝えてくれたようだけど、一通の手紙も届いていなかった。
あの日相談に乗れなかったナナミーに失望してしまったのかもしれない。
何も言わずに帰ってしまった事を謝りたかったけれど、ハリエットの連絡先が分からなかった。
ハリエットのアザが、つがいの証ではなかった事が証明された時点で、ハリエットの情報書類は焼却されていたし、連絡の取りようがなかったのだ。
「まさかね……」と思いながら、ナナミーはまだ開店されていないお店を窓から覗いてみた。
「あ!ナナミーさん!」
覗いた窓から、ハリエットが見えた。
ちょうど窓の外を見ていたハリエットと目が合って、ハリエットが準備中のお店に招き入れてくれる。
「わ〜良かった!ここは市場前の通りだから、いつかナナミーさんがこの前を通るかもって、ずっと気をつけて外を見ていたの。やっと会えて嬉しいわ!
あのね、私このお店を開く事にしたの。あの日のナナミーさんが悩みを解決してくれたおかげよ。ありがとう」
うふふと嬉しそうに笑うハリエットは、ナナミーに失望して連絡をくれなかったわけではなかったらしい。
最強種族のヒヨクの屋敷に、手紙を届ける勇気が湧かなっただけのようだ。
確かに考えてみれば、ナナミーだって逆の立場だったら、そんな危険な場所に手紙など送りたくはない。
ナナミーだって、窓の外を見ながら偶然の再会を待つだろう。
だけどそれよりも気になるのは、ナナミーがいつの間にか相談に乗っていた事だ。
心当たりが全くない感謝の言葉に、ナナミーは戸惑った。
あの日のナナミーは、生の貝に魂を抜かれて、記憶は途中で消えている。
もしかしてあの時、空っぽの頭と心で相談に乗っていたのだろうか。あの時のハリエットは、お店を開く事を迷っていたのかもしれない。
『大事な相談だったのに、ちゃんと話を聞いてあげられなかったな……』と、罪悪感に胸が痛んだナナミーに、ハリエットが言葉を続ける。
「仕事に生きるナナミーさんを見ていたら、私も新しい世界に踏み出したいって思えたの。
あの日やっとナナミーさんに会えた時、サイモン様もヒヨク様もラニカ様も、ナナミーさんの仕事ぶりを認めていたでしょう?私もナナミーさんのように、仕事で高みを目指したいなって思えたのよ。
ナナミーさんはやっぱりすごいわ。相談する前に、仕事に生きる女性の背中を見せて、私の迷いを消してくれたのだもの」
―――違った。
ナナミーは記憶のない中で相談に乗っていたわけではなかった。誤解されて、悩みは解消されていたようだった。
だけどここで「誤解だよ」と、ハリエットの決意に水を差すわけにはいかない。
「そっかあ。応援するよ」と言葉をかけておく。
弱小種族は繊細だ。何気ない言葉でも傷ついて、しゃがみ込んで動けなくなってしまうものなのだ。
「ナナミーさん、今日も仕事だったんでしょう?お疲れさま。すぐにお茶を淹れるから、少しだけ話せない?」と声をかけられて、ナナミーは改めてハリエットに話を聞いた。
今週末に開店するこのお店は、布雑貨を販売する刺繍屋さんらしい。
ハリエットは子供の頃から刺繍が得意で、いつか刺繍のお店を開きたいと長年思っていたようだ。
だけど「お店を開きたい」と思うと同時に、「私のお店にお客さんなんて来るはずがないわ」と諦めてしまい、夢は夢のまま置いていたらしい。
ある日背中にアザがある事に気がついてからは、アザの事で頭がいっぱいになっていたようだが、ハリエットの持つアザがつがいの証ではなかった事で、またふとお店を開きたい思いに駆られたようだった。
「うふふ。あらかじめ刺繍を入れている商品が多いけど、オリジナル刺繍のオーダーも出来るのよ。見てて」
そう話すと、積まれている段ボールからハンカチを取り出して、目の前で刺繍を披露してくれた。
チクチクチクチクッ!と目にも止まらぬ速さで刺繍を終えると、「はい、ナナミーさんに。相談のお礼よ」と、ハンカチを差し出してくれた。
受け取ったハンカチには、可愛いナマケモノの女の子の刺繍が入っていた。
「うわぁ〜!!すごく可愛い!すごく素敵!すごいよ、ハリエットさん!もう絶対にこのお店は人気店になるよ!
ありがとう、ハリエットさん。このハンカチ大事にするね。お店のオープンの日も絶対お買い物に来るからね!」
わああああ〜!とハンカチに魅入るナナミーに、ハリエットが照れた笑顔で頷いてくれた。