07.囚人ナナミー
「あら。今朝もヒヨクさんと一緒だったのね」
朝、ヒヨクの後ろに続いて部屋に入ると、顔を上げたラニカに声をかけられた。
「あ、はい。今日もヒヨク様に、お屋敷から運んでもらいました。おはようございます、ラニカさん」
「屋敷……?ナナミー、あなたヒヨクさんの屋敷に住んでるの?」
「え?あ、はい」
ナナミーがヒヨクの屋敷に住んでいる事も、ヒヨクに背負われて出勤している事も、皆が知っている事だ。
ナナミーはラニカの質問に頷いた。
だけど悪びれることなく頷いたナナミーに、ラニカが呆れたように、はぁと小さくため息をつく。
「ナナミー、あなたダメじゃない。つがいの証を持っていない者が、アザ持ちの男の家に住むなんて、国家の法に触れる事よ。あなた牢獄行きよ?」
「えっ!!」
「牢獄行き」という恐ろしい言葉に、ナナミーは目を見開く。ヒヨクに背負われて感じていた眠気は、一気に吹き飛んだ。
ナナミーの脳裏に、牢屋に入れられて泣く自分の未来が見えた。
薄暗くてジメジメとした牢屋。
配給される、小さなパンとコップ一杯の水。
カピカピのパンを狙って走り回るネズミ。
シマシマ模様の服を着た囚人ナナミーが、鉄格子をつかんで、「知らなかったんです」と看守に向かって泣いている。
『罪を犯してしまった』と思うと、涙がぶわっとこみ上げて、ナナミーは急いで俯いた。涙で床がゆらゆらと揺らめいて見えたが、涙を落とさないようにぐっと堪える。
「ラニカ!テメェ朝からいい加減な事言ってんじゃねえぞ。そんな法律あるわけねえだろ、勝手に作んなよ!」
ヒヨクが牙を見せて怒鳴ると、ラニカがこれ見よがしに、はあっと大きなため息をつく。
「……呆れた。あなた知らないの?『アザ持ちの者にちょっかいかけるなんて、法に触れるようなものだ』って世間では後ろ指をさされるものなの。悪く言われるのはナナミーの方なのよ。
ヒヨクさんって、本当に世間知らずよね。分かってないわ」
ラニカは「本当にしょうがない人」とまたため息をついた後、俯くナナミーに慰めの言葉をかけてくれた。
「ナナミー、泣かなくてもいいのよ。私がなんとかしてあげる。部下を守るのは上司の義務よ。
そうね……うちに来ればいいわ。私はシェアハウスタイプの社員寮に住んでるの。寝る部屋以外は共用だから、賑やかで楽しいわよ?
あなたは私の部下だから、寮への入居は問題ないわ。みんなに紹介するから、すぐに引っ越していらっしゃい?
うちは男女で仲がいいから、ナナミーもきっと―」
「待て」
ヒヨクが言葉を挟む。
「そのシェアハウスって、男も住んでるのか?」
「そうよ。当たり前じゃない。ナマケモノ族の男の子もいるから、ナナミーと話が合うと思うの。
ナナミー、その子すごく良い子なのよ。きっとすぐに仲良くなれるわ」
ふふふとナナミーに笑いかけるラニカに、ヒヨクが再び怒鳴る。
「お前ふざけんなよ!男女でシェアハウスの、どこが当たり前なんだよ。お前の寮は世間ズレしたもんの集まりかよ!
チッ!………しょうがねえ。お前も俺の屋敷に呼んでやるから、お前がこっちに越してこい。それなら問題ねえだろう?」
ヒヨクの提案に、ラニカが美しく揃えられた眉をひそめる。
「ええ?!あなた何言ってるの?問題だらけじゃない。
私達の関係はまだ「仮」なのよ?そんなに結婚を急がれても困るわ。私にも仕事があるって言ったでしょう?束縛しないでよ。
それに私はまだヒヨクさんの事、愛せていないの。つがいを名乗り出たのだって、国民の義務だからなのよ。分かってちょうだい?
――もう。男女でシェアハウスに住んでるからってヤキモチ焼かないでよ。みんなそういう関係じゃないの。本当にアザ持ちの男は嫉妬深いわね」
「テメェ………」
ヒヨクが激しい怒りを滲ませて、ワナワナと体を震わていた。
二人のやり取りに、『怖い……』と恐怖に震えるナナミーに出来ることはただ、周りの空気に溶け込んで気配を消すことだけだ。
「とにかくコイツはオ・レ・の・部下だ。テメェの社員寮だけには行かせねえぞ。コイツが俺の屋敷にいるのが問題だってんなら、テメェがこっちに来い!」
ナナミーを指差してラニカに言い放ち、ヒヨクはパーテーションの向こうの席にドカッと音を立てて座り、そこから黙ってしまった。
これ以上話を続ける気はないのだろう。
ナナミーも静かに席についた。
「もう……すぐ拗ねるんだから。ヒヨクさんって本当に子供よね。
ナナミー、ごめんなさいね。すぐにでもナナミーを私の寮に呼んであげたいけど、今は無理ね。ヒヨクさんが嫉妬してるもの。
寮の男の子達とは、本当にただの友達関係だって分かってくれたら、ヒヨクさんの私への執着も落ち着くと思うの。だからそれまでうちへの引っ越しは待ってくれる?」
「あ、はい」
ナナミーは大人しく頷いた。
ラニカの話すとおり、寮の子は良い人達なのかもしれないけど、会いたいとは思えない。
賑やかな生活は苦手だ。
しかも男の子に好意を向けられると胸がムカムカして気持ち悪くなるので、あまり近づきたくなかった。弱い種族の者に、なぜか好意を向けられる事が多いのだ。
だから寮に行けなくなった事に、内心ホッとしていた。
「ナナミー。当分はヒヨクさんのお屋敷に住むのはしょうがないけど、ヒヨクさんに背負ってもらうのは止めなさい。じゃないと牢獄に―」
「ナナミー!早くこの書類を取りに来い!」
ラニカの話の途中で、鬼畜な上司が朝イチの仕事を怒鳴り声で言いつけてきた。
ナナミーはサッと素早く立ち上がり、ヒヨクの元へ書類を受け取りに行く。
機嫌の悪い最強種族の上司ほど厄介なものはない。
八つ当たりされて怒られないように、今日は素早く、丁寧に仕事をこなさなければならない日だろう。
ナナミーは気を引き締めて、書類にペンを走らせ始めた。
「ねえユキさん、知ってる?つがいの証がない女子が、アザ持ちの男の人に近づくと、捕まっちゃうんだよ」
「え?」
仕事から帰ってきたナナミーが、オヤツのキュウリを食べながら、暗い顔を見せていた。
「捕まっちゃう……?そうなんですか?」
「うん。牢獄行きなんだって」
誰がそんな馬鹿げた話をナナミーに話したのかは分からないが、信じているのか、キュウリを持つナナミーの手が小刻みに震えていた。
牢獄に連れて行かれる事を恐れているのだろう。
『捕まるもなにも』とユキは思う。
強い種族の中でも種族の血を色濃く引き継ぐ男が、関係のない女を近くに置くはずがない。
つがいの証を持たない女が、アザ持ちの男に近づく事は不可能なのだ。
そんな馬鹿げた話は、つがいの証と全く縁のない者同士が、お酒でも飲みながら面白おかしく話す噂話だ。
つがいの運命の絆というものを知らなすぎるだろう。
ユキはもどかしい思いでいた。
もし仮にその話が本当で、ナナミーが捕まったとしても、投獄前の身体検査でつがいの証が見つかって、すぐに釈放されるだろう。ナナミーを捕まえた者が、ヒヨクに地獄に落とされるだけだ。
そもそも「証を持ってます」の一言で解決する話なのだ。
『おばあちゃん、お母さん。ただ見守る事しか出来ないって、こんなにもどかしい事なのね』
代々つがい付き使用人を務める家系のユキは、もどかしい思いを抱えながらも、ヨウ夫婦とレオード夫婦を静かに見守ってきた、偉大な祖母と母を誇りに思った。