05.変化
一週間以上仕事を休んだ後の職場に変化があった。
久しぶりに出勤した会社に、ヒヨクの仮の運命のつがいのラニカがいたのだ。
「あら、ナナミー。今日から仕事に復帰できたのね、良かったわ。療養後の初出勤なんだから、今日は無理しないこと。いいわね?」
書類から顔を上げたラニカの、まるでナナミーの上司のような声かけに、「長いお休みでご迷惑をおかけしました。おかげさまで良くなりました」と反射的に答えてしまう。
「いいのよ、気にしないで」と答えるラニカは、やはり自然な上司ぶりを見せている。
それはナナミーだけに対してではない。
「ヒヨクさん、今日は遅いんじゃない?部下より遅く出てきてどうするの?あなたはもう少し、上に立つ者としての自覚を持った方がいいわ」
今日はナナミーより遅れて部屋に入ったヒヨクにも、その自然な上司ぶりを発揮していた。
「………うるせえよ。それより今日からナナミーが復帰したんだから、もうラニカは自分の会社に帰って仕事しろ。
――っていうか、最初からテメェの手なんか要らねえんだよ。休むナナミーの代わりに、テメェがここで自分の仕事をしたところで、何の意味があるってんだ!」
凄みのあるヒヨクの声に、『ヒェッ』と慄いたナナミーは、静かに自分のデスクに座る。
この際、ヒヨクのデスクの隣に、パーテーションを隔ててラニカのデスクが置いてある事も、違和感なく受け入れる事にする。
『どうしてラニカさんの机が……?』なんて思いながらぼんやりラニカを見ていたら、確実に諍いに巻き込まれるだろう。
弱小種族の本能が、「ここは全てを受け入れるのだ」とナナミーに危険を告げていた。
今日もラニカはヒヨクに向かって、はあっとこれ見よがしにため息をついている。
「ナナミーが貝アレルギーだって知らずに、体調を崩させてしまった事は悪いと思っているわ。
だけど部下の休みで仕事に穴があいた時のフォローは、上司がするべきよ。分かる?ヒヨクさんの、上司としての義務なのよ。
―――なのにあなたったらどう?
あなた、ナナミーのいないこの一週間も、定時になると真っ先に帰っていたそうじゃない?残った部下がどれほどの残業を強いられていたか分かってるの?
私はヒヨクさんの運命のつがいとして、ヒヨクさんの怠りを見逃すわけにはいかないの。あなたが上司としての自覚を持つまで、私はここでお手本を見せていくつもりよ」
嫌でも聞こえてくるラニカの言葉に、ナナミーは『ヒェッ』と身をすくませる。
こんな時に自分の名前を出してほしくはない。
だけどヒヨクはナナミーが休んでいた間、定時で帰っていたという情報をつかめた。
怠惰を愛するナナミーとしては、上司の怠惰は大歓迎だ。定時になったら「俺も帰るからお前らも帰れよ」と声をかけてくれる上司は、ナナミーの理想とする上司だ。
『これからは残業書類もないかも』と思ったら、ナナミーの気分は上がっていった。
「フ〜ン、フ〜ン♪」と思わず鼻歌を歌いかけて―――
「ハッ、そうかよ。じゃあもうテメェの手本は要らねえよ。一週間仕事を早く切り上げたぶん、今日からしっかり残業するつもりだ。ナナミーの体調も戻ったしな」というヒヨクの言葉に、ナナミーはスッと冷静になった。
どうやら怠惰なヒヨクは昨日までだったらしい。
また今日から鬼畜な上司へと戻るようだ。
ナナミーはガッカリしながら、机の上に置かれた書類に手を伸ばした。書類はすでにナナミーの机の上に山積みになっている。
ヒヨクとラニカが諍いはまだ続いていたが、仕事をこなさなくては昼休みもなくなってしまう。
ナナミーはカリカリカリカリとペンを動かす事だけに集中した。
今日の書類は見慣れない分野の書類も混ざっていた。
会社はまた新しい分野に手を広げたのかもしれない。
『これから真珠のアクセサリーを扱うんだ……』と翻訳業務をこなしながら、ナナミーはふうんと呟く。
向上心のカケラもないナナミーとしては、目の前の書類を片付ける事だけが全てで、会社の業務計画などに興味はない。
何の疑問も持たずにカリカリとペンを動かしていた。
「最優先」と書かれたカゴの書類を片付けて、「最優先の書類が終わりました」とヒヨクのデスクに提出すると、「あ、それこっちよ」とラニカに声をかけられる。
「さすがね、ナナミー。噂どおり仕事が早いわね。チェックするから見せてみて」
当然のように声をかけられて、「あ……はい」とナナミーはラニカのデスク前に移動する。
書類に目を通したラニカに、「いいわ完璧よ。次の書類は、この書類があった隣よ。この調子で頑張って」と褒められた。
「おいラニカ!テメェなに勝手に俺の部下を使ってんだよ!病み上がりのコイツの仕事増やすなよ!
コイツは休んだ分の仕事の上に、これからの仕事もあんだぞ?もっと気遣えねえのか?!」
ヒヨクが唸るような声で、気遣いのカケラもない鬼畜な言葉をラニカにかけている。ナナミーは一週間分の仕事の上に、これからの仕事も課せられるらしい。
鬼畜な上司が、運命のつがい(仮)に、ナナミーの社畜な運命を告げていた。
はあっとこれ見よがしに、またラニカがため息をついている。
「ヒヨクさん。あなたねえ、部下の使い方が分かってないわ。
ナナミーは翻訳分野と書類作成分野に長けてるの。計算などは他の得意な者に振り分ければいいのよ。ナナミーの仕事は、カラクやゴルゴやベアゴーに振り分けといたわ。
私の真珠業の仕事も、ナナミーの得意分野に絞って渡しているのよ。
出来る部下はもっと大事にしなさいよ。私はナナミーに、ヒヨクさんの仕事でも残業をさせたりしないわ。決っしてね」
「ラニカ様―――!!!」
ナナミーはラニカを誤解していた。
『鬼畜な上司が二倍になった!』と職場の変化を嘆いたが、それは間違いだった。
ラニカはナナミーの救世主だったのだ。
一生付いていくしかない。
「まあ!ラニカ様だなんて。ラニカさんでいいって言ってるでしょう?ナナミーとはいい関係でいたいのよ」
ふふふと妖艶に笑うラニカは、都会的で洗練された大人の女性だ。
よく手入れされた艶のある髪も、バッチリメイクも、品質の良いスリムなスーツも、彼女の美しさを引きたたせている。
ヒヨクの運命のつがいとして隣に並び立っても、ナナミーよりも断然お似合いだ。
『ラニカさん、ス・テ・キ――!!!』
「ナナミーの残業なし」を宣告してくれたラニカに、運命のつがいへの未練など捨てて、ナナミーは心の中で叫ぶ。
「なに勝手に俺の部下の仕事を、他の部下に振り分けてんだよ!この一週間、他の奴等が今までより残業で遅くなったのは、テメェのせいだったのか!ふざけんなよ!」
ヒヨクの凄みにも、ラニカはケロリとした顔をしている。
ナナミーの分の仕事を振り分けられた同僚達は、気の毒に思うが、彼らは強い種族の者達だ。何の問題もないだろう。
ナナミーは気分を上げて、次の優先書類に手を伸ばした。
「フ〜ン、フ〜ン♪」と鼻歌が出てしまう。