01.名乗り出た運命のつがい
ヒヨクの隣に当然のように並び立った女性を前にして、ナナミーはただ彼女を見つめる事しか出来なかった。
「あなたは?」とナナミーに問いかける彼女は、つがいを名乗り出て、検査を受けて正式にヒヨクの運命のつがいに認定された女性だ。
〈運命のつがいは、世界中でただ一人だけ〉
それは誰もが知る明白な事実だと思っていたが、実は違った。
ヒヨクには、ナナミーの他にも運命のつがいがいたのだ。
つがい認定協会からその速達が届いたのは、午後の仕事が始まろうとしている時の事だった。
『お昼に頑張っても、どうせ帰りに残業書類を渡されるんだろうな……』と早くも憂鬱になりながら、デスクに座ろうとしたナナミーは、「ヒヨク様に速達です」と聞こえてきた言葉に、何気にヒヨクに視線を向けた。
「そこに置いてくれ」と顔も上げずに答えるヒヨクと、机に置かれた深緑色の封筒が見えて、『あれは……!』とナナミーは息をのんだ。
繊細な金のツタ模様が入った、生命力豊かな木々を表す深緑色ベースの封筒。
あの特徴のある封筒は、つがい認定協会のものだ。
協会から、仕事中のヒヨク宛に急ぎの封書が届いていた。
以前協会で、窓口受付係をしていたナナミーは、仕事中にも関わらず急ぎで送られる封書が、何を伝えるものかを知っている。
あの封筒の中には、名乗り出た者が正式な運命のつがいだった事を証明する、「つがい認定証明書」が入っているはずだ。
―――つまり。
運命のつがいの決定を知らせる通知書が届いたという事になる。
『……え?私?私がつがい認定されたの?』
ナナミーは混乱する頭でそう考えたが、よく考えてみれば―――いや、よく考えなくても、ナナミーはつがい検査を受けていない。
つがい認定協会から速達が届くはずがない。
あの封書はナナミーではない、別の誰かがヒヨクの運命のつがいとして認定された事を知らせていた。
ドクンと心臓が跳ねる。
――怖い。
ヒヨクの反応を見るのが怖かった。
――目を閉じてしまいたい。
だけどヒヨクから目を話す事も出来なかった。
仕事に区切りがついたのか、顔を上げたヒヨクが封筒を見て、片眉を上げた。
アザの登録者であるヒヨクは、届けられた速達が何を意味するのか知っていたのだろう。中の書類を取り出す手が急いでいる。
書類に目を通すヒヨクの顔に浮かんでいるのは、驚愕の表情だ。
「それはつがい認定証ですか?」と尋ねたいが、尋ねられるはずもなく、ナナミーはヒヨクを見つめる事しか出来なかった。
書類からヒヨクが顔を上げた。
一瞬―――ヒヨクと目が合った。
再び大きく心臓が跳ねる。
だけどすぐに目を逸らされて、「悪いが今日は帰る。お前ら!俺がいなくても、今日の仕事はキッチリ片付けろよ!」と部屋にいる者達に言い放ち、カバンを掴んで立ち上がった。
呆然と見つめるナナミーを置いて、ヒヨクは振り返る事もなく、急ぎ足で部屋を出て行ってしまった。
ヒヨクが去った後、心臓がバクバクと早鐘を打ち始める。
「ヒヨクのつがいの証を持つ者が他にもいた」という事実に、動悸が止まらなかった。
ナナミーは書類にペンを走らせながらも、去っていくヒヨクの背中が脳裏に浮かび、ただ同じ言葉だけが頭をめぐる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。
『どうしよう。運命のつがいの立場を諦める?』
―――このまま何も言わないまま?
『どうしよう。「私もそうだ」と運命のつがいを名乗り出る?』
―――負ける事が決まってるのに?
そうだ負けるに決まっている。
今までナナミーは、誰かに勝った事がない。
力が全てのこの世界では、欲しいものはみんな他の人の物だ。
弱小種族の中でも力の弱いナナミーは、いつだって何も手に入れる事が出来ない側の者だし、いつだって戦わずして負けてきた。
諦める事には慣れている。いつもの事だ。
ヒヨクに他の運命のつがいがいるならば、いつものように諦めればいい。
悩んだ末に『しょうがないよね』と、いつものように諦める事を決めた。
だけど決めたはずなのに、未練が出てナナミーの決断を引き止める。
連休中のヒヨクを思い出すと、胸が苦しくなるのだ。
あの時のヒヨクはとても優しくて、一緒にいると安らげた。
二人で流される川は楽しかったし、ナナミーのために焼いてくれるごはんは格別に美味しかった。
お昼寝の後、うろの外でヒヨクが本を読む姿が見えると嬉しくなった。
これからのヒヨクは、ナナミーではない他の誰かと、あの安らげる時間を紡いでいくのだろうか。
『あの時間が他の誰かのものになってしまう』と考えたら、ギューッと心臓を掴まれた気がした。
考えただけで、耳を塞いでしゃがみ込んでしまいたくなる。
『つがい検査を受けてみようかな』
―――ふとそんな考えが浮かぶ。
運命のつがいは勝負で決めるわけではない。つがいの証であるアザが一致するかで決まる。
つがい認定された女性も、走るヒョウのアザを持っているかもしれないが、ナナミーだって同じアザを持っている。
『「先に名乗り出た者勝ち」なら負けてしまうけど、もし先着順じゃないなら、今から名乗り出てもチャンスがあるかも……』
そんな事を思いながらも、誰かに勝つなんて奇跡が想像出来なくて、決断がつかなかった。
ナナミーは悶々としながら書類にペンを走らせ続けた。
終業時間が来て全ての仕事を片付けた時、今日は残業書類を渡されていない事に気がついた。
屋敷に帰ってするべき仕事がないなら、今日は急いで帰る必要はない。
こんな日は初めてだ。
今日つがい認定協会に寄れる時間があるという事は、今日協会に寄るべきだと運命が告げているのかもしれない。
『帰りに協会に寄って、検査の申し込みをしようかな』と、ストンと気持ちが落ち着いた。
つがい検査の書類作成は慣れたものだし、検査の流れも知っている。
協会から歩いて帰るとしても、暗くなる前までに屋敷に帰れるはず。
『検査を受けよう』と決心して、今日はベアゴーの送りを断って、ナナミーはつがい認定協会へ向かった。
ドキドキと緊張しながら、つがい認定協会の扉をそうっと開けると、「あ!ナナミーさん!」と懐かしい声に名前を呼ばれた。
「あれ?ハリエットさん?」
以前、窓口受付係をしている時に友達になった、ハリネズミ族のハリエットが、受付窓口前のソファーに座っていた。
ナナミーを見て、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「ナナミーさん、会いたかったわ!私、ナナミーさんに相談したい事があるの。
ナナミーさんがここの仕事を辞めちゃった事は聞いたけど、プライバシーもあるから、ナナミーさんが今どこにいるのかまでは聞けなくて……。
ここで待っていたら、そのうち協会に遊びに来てくれるかも、って思ってずうっと待っていたのよ」
「やっと会えたわ」と嬉しそうに笑うハリエットは、いつ来るか分からないナナミーを、毎日ここで待っていてくれたようだ。
協会のスタッフに、ナナミーの居場所を聞いて手紙を送ってくれればいいようなものだが、弱小種族のハリエットに、大型種族のスタッフに話しかける勇気はなかったのだろう。
「バカな事を言うな!それはプライバシーの侵害だぞ!」と大きな声で怒られるのを恐れたのかもしれない。
弱小種族のナナミーには、弱小種族の考えはお見通しだ。ハリエットがナナミーの居場所を聞けずに、このソファーで待ち続けていた理由を瞬時に理解した。
「そっかぁ……。辞めたの急だったから、挨拶も出来なくてごめんね。あのね、今日は―」
「ナナミー?お前こんなところで何してんだ?」
ナナミーを呼ぶヒヨクの声に、ハッと顔を上げる。
「今日はつがい検査の申し込みをするから、次の休みにゆっくり話を聞くね」と言葉を続けようとしたナナミーは、変わらない調子でナナミーを呼ぶヒヨクの声に、ホッとしながら振り向いた。
振り向いて―――凍りついた。
ヒヨクは一人ではなかった。
ヒヨクの隣には、寄り添う女性がいた。
その距離の近さに、ナナミーの心臓がひときわ大きくドクンと跳ねる。




