31.究極の木のうろ
木のうろとは何と素晴らしいものだ。
「一度うろを経験すると、もう元の棲家には戻れない」という噂を聞いた事はあるが、その言葉の意味が今のナナミーには分かる。
今までナナミーはうろに入っている人を見て、『ちょっとくらい交代してくれてもいいのに』と羨ましい思いで遠くから眺めていたが、うろに一度入るとちょっとだって交代したくない気持ちになった。
とにかく落ち着くのだ。
太い木の幹に開いた空洞は、外から見るよりも中は広く、うろの中にこもる古い木の香りは、落ち着くお香の香りに似ていた。
スモーキーでスパイシーでウッディな香り。
―――それは心癒される高貴な香りだ。
それだけではない。
うろの中には柔らかな苔が敷き詰められていて、厚みのある苔は、低反発クッションのような座り心地だった。
―――いい。実に最高の座り心地だ。
腰かけた途端に、「ふぃ〜……」とため息が出る。
「お好きなうろを選んで、ナナミーちゃんの部屋にしていいのよ」とカメリアに声をかけられて、最初に入ったうろで「この部屋にしよう」と決めたが、カメリアにホホホと笑われた。
「もちろん、そのうろも素敵よ。だけど他のうろも色々試してごらんなさい。ナナミーちゃんにとっての、究極のうろが見つかるはずよ」と勧められて、あちこちのうろに入って、うろ心地を確かめた。
そして気がつく。
うろにも色々あるのだ。
木によって香りが違うし、うろの入り口の大きさも中の広さも違う。
最初に入ったうろは入り口もうろの中も大きかったが、色々試すうちに、入り口が狭くて外から見えにくく、中も狭くて体にキュッとフィットするうろの方がナナミーの好みに合っていた。
試しに試して、とうとう「これだ!!」と、ナナミーの体にピッタリフィットしたうろを見つけた。
『この部屋が私にとっての究極のうろだ!』と、うろに座った瞬間に、雷に打たれたような衝撃を受けた部屋だった。
うろの中でしゃがみ込んで、じっと外を見ていたら、差し込む日差しが少し眩しく感じた。
とても面倒だったが一旦外に出て、大きな落ち葉を見つけて拾い、入り口を閉じたら、もう外に出たくなくなった。
薄暗くなったうろの中で三角座りでしゃがみ込み、落ち葉で閉じた入り口をじっと見つめる。
明るい日の光で、落ち葉の葉脈が透けて見えた。
いく筋もの葉脈を目でたどりながら、ナナミーはゆるゆるにリラックスしていく。
落ち着く木の香りと、外でサワサワと風に揺れる木の葉の音に、ゆっくりと眠気に誘われる。
カメリアはカメリアのうろに入って休んでいる。
コフィもコフィのうろに入って休んでいる。
ナナミーもやっと自分のうろを決める事が出来た。
『このままうろで暮らしたいな……』と幸せな気分で眠りに落ちていった。
「……ここにもいねえ」
さっきよりも少し狭い木のうろを覗いたヒヨクは、空っぽの木のうろにチッと舌打ちをした。
探している部下が見つからなくて、焦りと苛立ちだけが募っていく。
「三人で森を散歩してくるわ。お昼ご飯までには戻るわね」と部屋を出た祖母と母親と部下は、お昼を過ぎても戻って来なかった。
「森は広いから、迷わないように私にちゃんと付いてきてね」とカメリアが二人を誘った時点で、こんな事になるんじゃないかという予感はしていた。
だけどコフィとナナミーに頼もしそうに見つめられて、誇らしげに先頭を歩くカメリアに、ヨウもレオードも付いて行くのを諦めたようだ。
『俺が見ておくか』と立ち上がりかけたヒヨクを、二人の男に鋭い目で制されて、ヒヨクも付いていく事が出来なかった。
「俺が行けねえのに、お前が行くな」と二人の男の目が語っていた。
相手が二人ではさすがに分が悪いので、つい引いてしまったが、全盛期をとっくに過ぎた相手に引くなんて間違いだった。
付いていくべきだったのだ。
『狭量なジジイどもめ。本気であのトロくさい三人で行かせるつもりか?三人ともそのまま戻って来ねえんじゃねえか?』というヒヨクの不安は、そのまま見事に的中してしまった。
「まあいつもの散歩コースだろう。危険はねえよ」というヨウの言葉に安心したのも間違いだったし、「そういえば今度の事業計画は上手く進んでるのか?」と、続いたヨウの話に乗ったのも間違いだった。
レオードに会社を譲ったヨウだが、ヨウも会長として、会社の運営には関わっている。
昔は仕事人間だったらしいヨウは、カメリアがいない時にだけ仕事に絡もうとする、ヒヨクにとって面倒くさい上司だ。
休日は家の仕事を手伝うヒヨクは、意識を仕事に向けてしまった。
――仕事の話は時間が溶ける。
なんだかんだで仕事の話に熱が入り、気がついた時には、お昼をとっくに回っていた。
「もう昼を過ぎてのたか。そろそろ迎えに行くか」と腰を上げたヨウとレオードと共にヒヨクも森に出たが、部下だけがどこにもいない。
カメリアとコフィの眠るうろの周りを探してみるが、どのうろを覗いても部下は見つからなかった。
ヒヨクは行方不明になっている部下を、苛立ちながら探し続けているところだった。
「おい!!起きやがれ!!!」
どこかにいるはずの部下に向かって怒鳴ってやると、「うるせえ!カメリアを起こしちまうだろ!」「黙れ!コフィの目が覚める!」とヨウとレオードに殴られて、ヒヨクはチッと舌打ちをした。
ヨウもレオードも、つがいだけが全ての視野の狭い奴等だ。部下探しに協力しようともしない二人の態度が、さらにヒヨクを苛つかせる。
「おい、じいさん部屋作りすぎだろ。何なんだよこのうろの数。三人いるなら三個あれば十分だろうが。
俺の部下がいねえんだよ。他にどこに部屋作ったんだよ」
「さあな。部屋になりそうな木全てに部屋を作ったから、いちいち覚えておられんわ。うるせえ男だな。
この森に危険はねえって言ってんだろ。部外者がこの庭園に足を踏み入れた瞬間、命はねえからな。セキュリティ対策は万全だから安心しろ」
苛立ちをヨウにぶつけてみたが、カメリアの眠るうろの前から動こうともしないヨウは、肩をすくめるだけで何の役にも立たなかった。
レオードもコフィの眠るうろの前に立ちながら、「みっともねえな。騒いでんじゃねえよ」と蔑んだ目を向けてくるだけだ。
いつもカメリアやコフィの姿が少し見えなくなっただけで大騒ぎする奴等だけに、ヒヨクの苛立ちが増す。
「全く役に立たねえジジイどもだな。こんなジジイどもを頼ってもしょうがねえか。
……チッ。無駄に快適な部屋作りまくりやがって。
もっと奥を探すか。―――いや。このバカみたいに広い森を探すよりも、匂いでおびき出した方が早えな」
ヒヨクは急いで屋敷に戻り、使用人達にすぐにバーベキューの用意をするよう指示を出す。
「干し芋とニンジンとりんごとトウモロコシと……」と、ヒヨクは自らも高級食材の中からナナミーの好物を厳選していく。
―――その姿は、つがいの姿が少し見えなくなっただけで大騒ぎする、レオードとヨウの姿と同じものだった。




