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運命のつがいは鬼畜な上司  作者: 白井夢子
第一章

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26.変化


風邪を引いた後に変化があった。


毎朝、ナナミーの腕を掴んで引きずって歩いていたヒヨクが、ナナミーを背負ってくれるようになった。



風邪が治って初めて仕事に行く日の朝、「行くぞ」と言って屈んでくれたヒヨクの背中を見た時、ナナミーは思わず空を見上げた。


雨かと思った空は晴れていた。

優しい色の青空に朝の白い月が浮かんでいて、雨の気配など微塵もない爽やかに晴れた空だった。


ナナミーがヒヨクの肩に手を置くと、ナナミーを支えて立ち上がり、スタスタと歩き出した背中は、タッタカタッタカとリズムよく歩くベアゴー号とは違い、とても優雅な乗り心地だった。

見える景色はベアゴーより少し高い。


「病み上がりだし今日は無理するなよ。辛かったらすぐに言え。屋敷に送らせるから」


歩きながらかけられた言葉に、ナナミーはドキッとした。

体調は万全だったが、病み上がりの体を心配してくれる言葉に、それまで受けた鬼畜な所業は全て洗い流された。


『この人は確かに運命の人だ』と、目の前の背中にグッと心が惹かれた。



「体が辛いなら、たまった書類は屋敷で片付ければいい。今日の昼期限と、夕方期限と、明日の朝期限に分けてやるから、上から順番にこなしていけばいいぞ。無理するなよ」


―――続いた言葉に、秒で心が冷めてしまったが。



鬼畜な上司が病み上がりのナナミーに、「無理するな」と言いながら、たまった仕事はキッチリ片付けさせようとしていた。

洗い流したはずの過去の鬼畜な所業は、再びナナミーの記憶の中によみがえり、新たな鬼畜な言葉と共に心に深く刻まれた。


「お気遣いありがとうございます」と答えながら、『鬼畜な上司なんて、一生仕事だけの人生を送ればいい』と、ヒヨクの肩を掴む手にぎゅうっと力をこめてやった。


「おう。しっかり掴まっとけよ」と言われて、さらにギリギリと力をこめてやったものだ。




それでもその日は残業もなく定時に帰らせてくれた。


『やっぱりちょっと優しいかも……。私が運命のつがいだからかな?』


初めてのノー残業デーに、帰ってからドキドキが止まらなかった。

その夜はお風呂の鏡に映るアザを見なながら、『もしこの優しさが本物だったら、つがいを名乗り出る事も考えてみようかな』と思いながらときめいたものだ。


―――無駄なときめきだったが。


翌日からは、「もう大丈夫だろ。今まで休んだ分、しっかり仕事しろよ」と、どっさりと残業書類を渡されるようになって、過去の自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られた。


「気を引き締めろ!」と自分に喝を入れてやる。


こんな鬼畜な上司のつがいを名乗り出るなど、愚の骨頂だ。

優しさのカケラも持ち合わせていない男のつがいを名乗り出たところで、続く未来には社畜の自分がいるだけだ。

一生鬼畜な上司の側で、アリ族のように働かされるに決まっている。


『絶対に!永遠に!私は運命のつがいだなんて名乗り出たりしない!鬼畜な上司は一生独り身で、孤独な仕事人生を送るがいい!』


――そう激しく心の中で罵ってやった。



鬼畜な上司は、今も鬼畜のまま変わらない。

だけど腕を掴んで引きずるのではなく、背中に乗せて運んでくれるようになった変化は、今も続いている。







他にも変化があった。


その変化に気づいたのは、風邪が治ってからずいぶん経ってからの頃で、ある日庭園を散歩している時に気がついた。


池にいたはずの魚が姿を消していたのだ。

以前は確かに、池の中にはたくさんの小魚が泳いでいたはずだった。


沼に見せかけた池の水は、池底までも見通せるほどに澄み切っていて、以前は池を覗くと、揺らめく光の中に、スーッと優雅に泳ぐ可愛い小魚の群れが見えていた。


『いいな……あの魚は幸せそう。私も次の人生は、あの魚に生まれ変わりたいな。こんなキレイな水の中で、一生仕事をしないでのんびり暮らしたい』


泳ぐ小魚を見ながら来世に憧れたあの思いは、夢なんかじゃない。確かに魚はいた。


だけど今は澄んだ水の中にはユラユラと揺らめく光が差しているだけだ。

どこかに小魚が隠れる場所があるのだろうか。




池のふちにしゃがみ込んで、ヌウッと首を伸ばしてさらに池の中を覗き込むと、「ナナミー様、水は危険ですよ」と声をかけられた。


顔を上げると、いつの間にかユキが側に立っていた。


「あ、ユキお姉さん。魚がいなくなっちゃったみたい」

「そうですね。魚は怖いですからね」


可愛い小魚が消えた事をユキに報告すると、意外な答えが返ってきた。

ヒョウ族のユキが、「魚は怖い」と言っている。あの可愛い小魚は、実は危険な魚だったのだろうか。


確かに鋭い歯を持ち、動物までも襲う魚がいると聞いた事がある。あの魚がそうだったのか。

もしかしたら池のふちに立つ獲物を狙っていたのかもしれない。

あの小魚は、可愛い姿をした獰猛な生き物だったのか。


『一歩間違えれば食べられてたかも。そういえば熱にうなされていた時、魚に食べられる夢を見た気が気がする』


忘れていた夢を思い出してブルッと身を震わせたナナミーに、ユキは安心させるように「大丈夫ですよ。悪い魚はみんないなくなりましたからね」と、優しく声をかけてくれた。


「そうなの?良かった。みんな安心だね」とナナミーはホッとして笑った。

この森に足を踏み入れる者の安全は守られた事に安堵していた。







ユキは、笑顔を見せたナナミーに微笑みを返した。


「魚に食べられる」と夢に怯える繊細なナナミーを見て、ヒヨクはすぐに「池の魚を一匹残らず片付けろ」と庭師に言いつけた事をユキは知っている。


この屋敷の主人であるヒヨクは、「ユキ、ナナミーが水に濡れないように見ておけよ」、「もっと食べさせる工夫をしろ」とあれこれ指示を出している。


「アイツに休まれると仕事が遅れるからな」という傲慢な上司目線の言葉が、素直にナナミーを心配する言葉に変わる時が、ヒヨクが運命のつがいを捕まえられる時なのだろう。



「今日のオヤツはとても新鮮なキュウリですよ。朝採り卵で作った、特製マヨネーズを付けて食べましょうね」と、マヨネーズで食欲増進を図るユキは、屋敷の主人の指示も忠実に守れるプロフェッショナルな運命のつがい付き使用人だ。


ナナミーの知らないところで、食事のカロリーにも変化を見せていた。




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