25.雨の日の夕方
大雨の日の夕方、ナナミーは風邪を引いた。
あの日は一日中雨で、ナナミーの定時が来ても止むことはなかった。
「ナナミー、帰っていいぞ。この書類濡らすなよ」と渡された書類を守るために、書類を入れたカバンをレインコートに包んでおいたのがいけなかった。
行きが濡れることなく会社に着けたからといって、帰りが同じとは限らない。
ベアゴーはいつものようにナナミーを背中に乗せて、傘もベアゴーが差してくれたが、あまり意味はなかった。
走るように歩くベアゴーの背中にいても、傘の中に雨は吹き込むし、ベアゴーはバッシャンバッシャンと嬉しそうに水たまりの中を豪快に入っていくので、ナナミーは屋敷に着いた時には全身ずぶ濡れになっていた。
「もっとゆっくり歩いてよ!」「水たまりに入らないで!」とベアゴーを怒ってやりたかったが、傘に吹き込んでくる雨に、背中に顔を埋めて息をするのがやっとだった。
屋敷に着いてから、ずぶ濡れになっているナナミーに気づいたベアゴーに、「ごめんね、ごめんね」と謝られたが、ナナミーの記憶はそこまでしかない。
そのままパタリと倒れて高熱を出して寝込んでしまった。
寝ている間、とても怖い夢を見た。
一応は泳げるはずのナナミーだが、川に落ちて溺れる夢だった。川の水は冷たく、「流される、もうダメだ」と、ナマケモノ族らしく抵抗を止めて流されていると、大きな魚が口を開けていて、「食べられる!」と思ったところで目が覚める、という夢だった。
当然そんな状況になったら、やっぱり諦めて食べられるしかないのだが、それでも怖いものは怖い。
繰り返す夢に眠るのが怖くなって、「寝たら魚に食べられるの」とユキに泣いて訴えると、ユキがずっと側に付いていてくれた。
喉が渇いたナナミーが、パカッと口を開けるだけで、何も言わなくても口元に美味しいジュースを運んでくれる。
ナナミーは目を瞑ったまま、口元に持ってきてくれたストローで冷たいジュースを飲むだけでいい。
『王様になったみたいだな……』と思ったら、今度は王様になる夢を見た。
強い種族の者たちがナナミーを恐れて平伏し、ヒヨクまでが「何か食べたい物はあるか?」とナナミーに声をかけてくる。
ナナミーは王様らしく、「アイスを頼む」と伝えた後で、「種を取ったサクランボも頼む」と威厳を持って答えてやった。
―――最高の夢だ。
ヒヨクは熱で顔を真っ赤にした部下が、「アイスを頼む」と目を瞑ったまま偉そうに答えてきて、イラつきながらも、返事が返ってきた事にホッとした。
今まで「大丈夫か?」と何度声かけても答えなかったナナミーが、「何か食べたい物はあるか?」と尋ねて返ってきた答えがそれだった。
「美味いサクランボもあるぞ」と声をかけたら、「種を取ったサクランボも頼む」と、また偉そうな返事が返ってきた。
「薬も飲めよ」と声をかけたら、「薬は要らぬ」と答えてくる。
「今度はどんな夢見てんだよ」と言ってやりたいが、熱にうなされているナナミーに言ったところで無理だろう。
夢を見るのか、「「魚に食べられる」とうなされながら泣くので、側を離れられない」とユキから報告を受けて、連日仕事を早めに切り上げて、夕方からはユキに代わって、部下の側に付いてやっている。
「俺も本当に面倒見のいい、良い上司になっちまったもんだな」と呆れるくらいだ。
「魚が…」とうなされるたびに、「魚は食ってやるから寝ろよ」と返しているが、そもそも魚は食うものであって食われるものではない。
どれだけ弱いヤツなんだと呆れを越えて驚きしかないが、これというのも、あの雨の日にベアゴーにナナミーを任せたのが間違いだった。
あの雨の日、ナナミーを送らせたベアゴーが、しょぼくれて部屋に戻ってきた。
「ナナミーちゃんが雨に濡れて倒れちゃったんです」と報告されても、「雨に濡れて倒れるって何だ?」と何のことか分からず、とりあえずヒヨクは仕事を切り上げて屋敷に戻ってみた。
帰りなら多少濡れても、すぐにユキが何とかするだろうと思っていたが、どうやら弱小種族の中でも特に弱いナマケモノ族の部下は、多少でも雨に濡れると倒れてしまうらしい。
――後に「多少」の濡れ具合じゃなかった事を聞いて、ベアゴーの奴は締め上げてやったが、それを思い出すとまたイライラと気持ちが波立った。
『ベアゴーには「雨の日は背負うんじゃなくて、しっかり持ち上げろ」と言っておくか』と思ったが、ナナミーを抱え上げるベアゴーを想像すると騒つく胸に、『やっぱりベアゴーじゃ信用ならねえな』と考え直す。
「薬は要らぬ!水を下げろ!息が出来ぬ!」
突然主張し出した声に、ヒヨクはナナミーを見つめた。
う〜んう〜んとまたナナミーがうなされ出している。
「薬はいいから、ジュース飲めよ」と声をかけると、「桃ジュースを頼む」とまた偉そうに言ってきた。
「コイツ……」とは思うが、涙が滲んでいるところを見ると、またよく分からない怖い夢を見ているのかもしれない。
「俺がコイツを見ておくから用意してやれ」と、ヒヨクはユキに指示を出して、なかなか熱が下がらないナナミーにため息をついた。
『どうしてヒヨク様は運命のつがいの存在に気付けないのかしら?』
ナナミーのためのジュースとアイスとサクランボを用意しながら、ユキは首をひねった。
あの雨の日の朝、ヒヨクがナナミーを抱えて歩く姿は、雨の日にレオードがコフィを抱えて歩く姿と同じだった。
ナナミーが濡れないように、細心の注意を払って雨の中を歩くうちにヒヨクは運命に気がつくかと思ったが、夕方にベアゴーが屋敷に向かって歩いてくるのを見て、「気が付かなかったのね」と状況を悟った。
それでもあの日はナナミーが倒れた事を聞くと、ヒヨクはすぐに帰って来たし、それからも毎日早く帰ってきて、ナナミーの側に付いている。
ヒヨクは甲斐甲斐しくナナミーの世話を焼いている自分に、違和感を感じないのだろうか。
『本当にシロおばあちゃんと、スノウお母さんが言ってた通りね……』と、代々この家の運命のつがいに仕える家系であるユキはため息をつく。
ユキはナナミーがつがいの証を持っている事を知っている。
コフィに仕えている母のスノウから、「機会を見つけてマグネットシートを渡してあげなさい。きっとお使いになるはずよ」と助言を受けていたし、実際お風呂の鏡にマグネットシートは貼られている。
それに雨に濡れた服を着替えさせる時に、ナナミーの持つアザも見てしまった。
だけどユキはそれを誰にも話すつもりはない。
なぜなら、シロおばあちゃんも、スノウお母さんも言っていた。
「どれだけもどかしく思っても、黙ってお二人を見守りなさい。お二人の運命を静かに見守れる者が、プロフェッショナルな運命のつがい付き使用人というものなのよ」
ユキは運命のつがいに仕えるユキの家系を、とても誇りを持っている。だから決して運命の二人に、助言などはしたりしない。ただ静かにお二人を見守る事に徹底するつもりだ。
傲慢な男と、社畜な運命のつがいと、誇りあるつがい付き使用人。
この三人によって、遅い気づきとなるつがいの運命も、代々引き継がれていっている。




