19.ヒヨクの母コフィ
休みの日の午後、窓から気持ちのいい風が入ってきた。
ナナミーは眺めていたシール帳から顔を上げ、フワリと舞うカーテンを見る。
今日は部屋から一歩も出ないでのんびりするつもりだったが、こんなに気持ちのいい風が吹く日なら、外を散歩してもいいだろう。
ナナミーは眺めていたシール帳を手に持って、屋敷の庭園を散歩する事にした。
ヒヨクの屋敷にはよく手入れされた庭園がある。
美しい木々が立ち並ぶ、森のような庭だ。
まるで森に自生したかのように咲き乱れている季節の花々は、ガーデニングデザイナーにより綿密に計算されて植えられているのだろう。色の配置が美しい。
本物の森を知るナナミーには、この森がどれだけ洗練された庭園であるかを理解しているつもりだ。
この森はきっと運命のつがいのために用意された庭だ。
運命のつがいを持つ者は、つがいのために家を作ると言われている。
だけどせっかく用意された庭に、ヒヨクの運命のつがいが立ち入る事は永遠にないだろう。
ここに立ち入るのは、昨日終業後に「明日休みたければ今日中にこれを片付けろ」と分厚い書類を渡される、社畜な部下くらいだ。
あんな鬼畜上司なんかに、運命のつがいが名乗り出る訳がない。
気が向いて庭園に来てみたが、やっぱりこの森はとても素晴らしい。森の良いとこどりなのだ。
一見生い茂っているように見える藪は、チクチクしない草木で構成されている。ついうっかり草木に触れて手を引っ掻かれる事もないし、肌触りが柔らかいので藪をベッド代わりにして眠る事も出来るだろう。
沼に見せかけた池も、水が澄んでいる。
池を覗くと池底までも透けて見え、光が反射してキラキラと揺らめきながら輝いている。
幻想的な輝きを見せる池は、じいっと眺めているだけで眠たくなるほどだった。
使用人の優しいお姉さんが、「庭に咲く花がキレイですよ」「庭には可愛いテーブルとイスもありますよ」と、たびたび誘ってくれるので、出不精のナナミーもたまに庭を散歩するようになっていた。
森の中には、可愛い木製の小さなテーブルとイスが置いてある。
―――木の香りがするテーブル席は、ナナミーのお気に入りの場所だ。
ナナミーはイスに座って、テーブルの上でシール帳を開くと、いつものようにシールに付いた高級な野菜や果物の残り香が、ふんわりと優しく辺りに漂った。
『良い香り………』
シール帳を開くたびに幸せな気持ちになるので、ナナミーは屋敷にいる時はシール帳を手放す事なく持ち歩いている。
今もシール帳の香りが、木のテーブルの香りとマッチして、うっとりとナナミーは目を閉じた。
目を閉じると、幸せな気持ちでウトウトと眠たくなる。
「あなたがナナミーさんね」
ウト……とした時、声をかけられてハッと目が覚めた。
初めて聞く声に、シール帳から顔を上げると、目の前に小柄な一人の女性が立っていた。
初めて会う人だが、ナナミーは小柄な女性が誰だかを知っている。
つぶらな瞳でナナミーを見つめる彼女は、おそらくコアラ族のヒヨクの母親だ。この屋敷から少し離れた場所にある、ヒヨクの父の屋敷に住んでいると聞いた事がある。
優しそうな人に見えるが、女性はヒヨクの父――ヒョウ族の男の運命のつがい様だ。弱小種族のコアラ族の女性とはいえ、彼女と対峙する事は、ヒョウ族の彼女の夫と対峙する事を意味する。
ナナミーは素早く自分の立場と、ヒヨクの母が自分に声をかけてきた目的を推理して答えを出した。
きっとヒヨクの母は、息子の屋敷に居候しているナナミーを不快に思って、「出て行きなさい」と忠告しに来たに違いない。
――そもそもアザ持ちの男の家に、つがいと認められていない女が居候している事自体がおかしいのだ。
そう言われても仕方がない。
だったら今すべき事は、出来るだけ従順な姿を見せて、波風立てず大人しく屋敷を出て行って、穏便に事をやり過ごすべきだ。
「強い者には巻かれろ」――昔の人も言っているように、弱小種族として当然の姿を見せる時だろう。
ナナミーは素早く立ち上がり、「こんにちは。はい、私はヒヨク様の部下で、この屋敷に居候させていただいているナナミーです」とキビキビと挨拶をして頭を下げた。
「私はヒヨクの母のコフィよ。あなたの事は話に聞いてるわ。ナナミーさん、ついていらっしゃい」
おっとりとかけられた言葉―――「ついてこい」。
それは危険な言葉だ。
つぶらな瞳のヒヨクの母コフィは、ナナミーに弱小種族を怯えさせる言葉を告げてきた。
こういう時に取る弱小種族の態度は一つ。
――「はい」と返事をして大人しく付いていく事だ。
ナナミーは「はい」と素直に返事して、大人しくコフィの後に続いた。コアラ族のゆっくりペースの歩きに、ナマケモノ族のゆっくりペースで付いていく。
のんびりと歩く速さが同じで、恐怖の呼び出しのはずなのに、ナナミーは散歩気分になった。
「フッフ〜ン、な〜まけっもの〜♪」
「ラ〜ララ、コッア、ラッララ〜♪」
思わずナナミーが機嫌よく鼻歌を歌うと、コフィの鼻歌とダブってしまい、ナナミーはコフィと顔を見合わせた。
そして――――友達になった。
弱小種族は敵意にも敏感だが、波長が合う者にも敏感なのだ。
「え〜そうなんですか?」
「そうなのよ〜。昔仕事をしていた時の先輩がね、本当に鬼畜な野郎だったの。私より一年先輩なだけなのに、強い種族だからって何かと偉そうに仕事を言い付けてきたのよ。
毎日残業続きだったし、休みの前なんて「明日休みたかったら、しっかりやれよ」って山ほどの書類を渡してくるのよ。
私ずっと「あんな鬼畜な先輩なんて、一生独身で孤独な生活を送ればいいのに!」って思ってたのよ」
「わ〜なんか分かります。うちの会社にも、同じような鬼畜野郎がいるんです。休み時間だって、パシリ野郎を使って呼び出してくるんですよ」
「最悪ね〜」
いつの時代にも、会社には鬼畜な野郎がいるようだ。
「私も昔、事務の仕事をしててね、」とおしゃべりを始めたコフィの話が、他人事とは思えずとても気の毒だった。
昔、相当に辛い思いをしたのだろう。
話し出すと当時の怒りが蘇ったのか、つぶらな瞳をキッと吊り上げている。
コフィの社畜だった過去話に、鬼畜上司を思い出して、ナナミーもタレた目をキッと釣り上げた。