14.現上司は元上司
「えっ?」「えっ?」「えっ?」
ヒヨクに腕を掴まれたまま歩かれて、訳も分からず部屋を出ると、サイ族の上司のサイモンが立っていた。
「そうだね、ナナミーくん。辞めた職場で仕事が進まないなら、連れ戻されるべきだよね。待遇を上げてもらって、もう少し頑張ってごらん。また仕事を辞めたらここにおいで」
「サイモン様――!!!」
この世の中は力が全てだ。
「強い者には巻かれろ」と昔の人も言っている。
サイ族の上司サイモンは、ヒヨクの強さを認めて、アッサリとナナミーの上司の座を辞してしまった。
「ナナミーくん、はいこれ餞別」と、キャロー社の有機栽培ニンジンを一本、ナナミーに手渡してくれた。
ニンジンに貼られたキャロー社ロゴのシールが、キラリと光っている。
「荷物は後で送ってあげるよ」と微笑むサイモンに、「うっ……うっ……お世話になりました〜」とお礼を告げて、ナナミーはヒヨクに腕を引かれてつがい認定協会を後にした。
全体重をヒヨクに預けると、「歩きづれえな」と腕を掴み直されて、体の向きが地面から空に変わった。
真っ青に晴れた空を見ながらナナミーは引きずられていく。
視線を落とすと、自分の靴が地面に線を描いていた。
「私、もう住む家もないのにな……」と線を見ながらポツリと呟くと、機嫌が良さそうにヒヨクが答えた。
「待遇上げてやるから安心しろ。三食オヤツ付きの住む場所を用意してやる。家賃なし、光熱費なし、会社での残業もなしだ。通勤も歩かなくてもよくしてやるよ」
「え……!ホワイト企業――!!」
どうやら鬼畜だった上司は、ホワイトな上司に生まれ変わったようだ。
ヒヨクは運命のつがいと出会って、心に余裕が出来たのかもしれない。
ナナミーの腕を引くヒヨクの顔は見えないが、聞こえる声はどこか弾んでいた。
『つまんないの……』とまた視線を落とすと、手に握っているニンジンが見えた。
元上司となったサイモンが餞別にくれた、キャロー社の有機栽培ニンジンだ。
ナナミーはニンジンに貼られた、明るい日の光の下でキラキラと光っているブランドロゴシールを剥がして、ペタリとヒヨクの服に貼ってやる。
そしてガブリとニンジンを齧ってやった。
『甘い――!!!』
さすがだ。
さすがニンジン界の最高ブランドだ。皮も甘くて柔らかい。
ポリ……ポリ……ポリ……と夢中になって食べていたら、お腹がふくれて眠たくなってきた。
いつもだったらお昼ご飯を食べ終えて、お昼寝をしている頃だろう。
ズルズルと引きずられているが、大きな手でしっかりと掴まれている腕は痛くない。
地面に描く足元の線を見ると、ナナミーの足に当たらないように、大きな石などがある所は避けてくれている。
やっぱり、鬼畜なオレ様だったヒヨクは人の心を取り戻したようだ。
『私のつがい様もこんな人だったら、すぐに名乗り出るのにな……』と、少し寂しいような気持ちになった。
手に持つ食べかけのニンジンをぎゅっと握る。
目もぎゅうっとつぶると、お昼のポカポカ陽気の中、ナナミーはすぐに眠りに落ちていった。
あの時の私に、ひと言物申したい。
「お前正気か?!何を血迷った事を言っている。つがいがヒヨク様みたいな人だったら、つがいを名乗り出るなど愚かさの極みだ。
眠くなってる場合じゃないぞ、大きく目を開け。
どこに人の心を取り戻した者がいる?どこにホワイトな上司がいるというのだ?
お前の腕を引く者は、鬼畜な上司、それ以外の何者でもない」
――そう言ってやりたかった。
あの日目が覚めると、見覚えのある部屋の中だった。
ヒヨクが約束してくれた三食オヤツ付きの家とは、ヒヨクの屋敷の事だったのだ。
家賃なし、光熱費なし、でいいらしい。
確かに朝の出勤はヒヨクが引きずってくれるから、通勤時に歩く必要はない。
会社での残業なし、も本当だった。
ただし。
会社では残業なし、だった。
定時と共に「ナナミー、帰っていいぞ」と言ってくれるが、「帰ったら、これ片付けておけ。明日の朝期限だぞ」と分厚い書類を渡してくる。
「ベアゴー、悪いがこの書類持って、ナナミーを屋敷まで送ってくれ。お前の仕事も残ってるんだ。急いで送って、急いで戻って来いよ」と、ベアゴーをパシらせる。
ナナミーは会社ではなく、屋敷で残業する日々を送っていた。
相変わらず上司ヒヨクは鬼畜だったし、ナナミーは哀れな社畜だった。
せめてヒヨクの運命のつがいが見つかっていれば、「つがい様に悪いですから」と、屋敷を出る事ができるが、ヒヨクは運命のつがいを見つけられなかったようだ。
「あの占い師、当たらねえな」とヒヨクは話していた。
ナナミーは思う。
もしも、だが。
もしもナナミーの持つアザが、チーター模様でもピューマ模様でもなく、ヒヨクのヒョウ模様のアザだったとしたら。
やっぱりナナミーの運命のつがいがヒヨクだったなら。
『お前が鬼畜上司である限り、どれだけ占い師を頼っても、つがいが見つかる事などないだろうよ』
――そんな風に思うのだ。
今日も終業時間にたくさんの書類を渡された。
だけど屋敷に戻ってオヤツを食べたら、ついうっかり眠ってしまった。
今日のオヤツはセロ社のオーガニック栽培セロリだったのだ。セロリに貼られた、セロ社のブランドロゴシールからして、普通のセロリとは違っていた。
大事に大事に、いつもよりゆっくりとパリ……パリ……と堪能しながら食べていたら、幸せすぎて眠たくなってしまった。
食べかけのセロリを握って眠るナナミーを、優しい使用人のお姉さんが、優しく起こしてくれたみたいだが、起きる事が出来なかった。
ナナミーを起こしたのは、帰宅して地を這うような鬼畜上司の声だった。
「ナナミー、お前早くその書類片付けろや。付き合ってやってる俺も寝れねえだろうがよ」
ナナミーの部屋のソファーに座った鬼畜な上司が、ワイン片手にイライラと声をかけてくる。
『早くしろよ』と圧がすごい。
こんな鬼畜上司が、ホワイトな上司に生まれ変わるなんて、夢のまた夢の話だ。
こんな鬼畜上司に運命のつがいが名乗り出るなんて奇跡は、一生ないに決まってる。
「私が運命のつがいだったとしても、決っして!絶対に!つがいだなんて名乗り出てやったりしない。こんな鬼畜上司に、一生占いが当たる日は来ないだろう」
ナナミーは今夜も鬼畜な上司に、心の中で予言を告げてやる。




