01.運命のつがい
「ナナミー、お前帰る前にこれも訳しといてくれ」
終業時間15分前に、机の上に書類の束を置かれて、ナナミーは今日もブチ切れそうになる。
書類の束が、今日も残業確定だと物語っていた。
今日書く日記の内容も決まった。
〈今日の上司もクソだった〉
――この一言に尽きるだろう。
「やりたくない!もう帰る!」と言ってやりたい。
「こんな仕事、今日限りで辞めてやる!」と辞表を叩きつけてやりたい。
だけどごねたところで倍になって仕事を積み上げられるだけだという事は、経験上分かっている。
ナナミーの上司は、種族としても上位階級にあるヒョウ族だ。
弱小種族のナマケモノ族であるナナミーが、太刀打ち出来る相手ではない。
こういう時はナマケモノ族としての誇りを思い出すのだ。
ここで怒って、相手を逆ギレさせてはいけない。
目をつけられないように、目立たず空気のように周りに溶け込んでおくべきなのだ。
ギリッと奥歯を噛み締めながら、「すぐに片付けますね〜」と笑顔を見せてやった。
しょせんナナミーは、鬼畜な上司の元で働く、しがない社畜に過ぎない。諦めの境地に入って、カリカリとペンを動かす事にした。
ペンを動かしながら、今日も固く誓う。
「絶対に!永遠に!あんな野郎の運命のつがいだって名乗り出てやるものか!あんな鬼畜上司は、生涯孤独な人生を送ればいい!」
声に出せず、心の中で激しく上司を罵ってやった。
ナナミーは、鬼畜上司ヒヨクの運命のつがいだ。
「つがいの証」を持っている。
強い種族の中でも、種族の血を色濃く引き継ぐ者に表れるという、種族を表す模様のアザ。
ヒョウ族のヒヨクは左頬に、走るヒョウの形をしたアザを持つ。
ヒヨクのように種族を表すアザを持つ者には、「運命のつがい」が必ずいて、つがいは同じ模様のアザを体のどこかに持っている。
ナナミーは、ヒヨクと同じ模様の、走るヒョウの形をしたアザ―――「つがいの証となるアザ」を隠し持っていた。
ヒヨクはナナミーが、「運命のつがい」だという事に気がついていない。
だけどそれは当然だ。
相性100%の保証はあっても、強い種族の者はつがいに気づく事は出来ない。
「運命のつがい」ともなれば、どれだけつがいの証を隠そうとも、お互いに運命を感じて引き寄せられそうなものだが、現実はおとぎ話のように甘くはない。
世の中の力の均衡を保つためなのか、強い種族のつがいとなる者は、強い種族の能力の高さに反比例して弱い種族の者になる。
強い者ほど、相手が弱い。
弱すぎて存在感を消してしまうほどの者になる。
誰もが目をとめるような美貌を持つ訳でも、抜きん出た才能を持つ訳でも、相手にとっての好ましい香りを強く放つ訳でもなく、身を潜めるように周りに溶け込んでしまっている。
アザが運命の相手の体の目立つところにない限り、―――そして「私がつがいです」と相手が名乗り出ない限り、見つける事は不可能に近い。
体にアザを持つ者は、つがい以外の相手を選ぶ事はないので、つがいが名乗り出なければ、いつまでも相手を待つ事になる。
鬼畜な上司、ヒョウ族のヒヨクのように。
もちろんナナミーだって、つがい以外の者を選ぶ事は出来ないので、ヒヨクのつがいだと名乗り出なければ、ナナミーも生涯独り身だ。
だけどそこは問題ない。
ナマケモノ族としての誇りを持つナナミーは、一生独身で、孤独で怠けた生涯を送るとしても、人生に悔いを残す事などないのだ。
カリカリとペンを動かしながらナナミーは、かつての自分を思い出す。
ナナミーだって、つがいの存在を夢見た事はある。
アザの模様は、強者に立つ側の種族を表すものだ。圧倒的に強いつがいが、自分だけを愛してくれるなんて、女子ならば一度は憧れるものだろう。
ヒョウ族のヒヨクの左頬に、走るヒョウの形をしたアザ―――つがい持ちの印が表れたと噂になった時、当時森の奥に住んでいたナナミーだって、ヒヨクのつがいとなる人が羨ましいと思っていた。
偶然にもナナミーが、ヒヨクの部下として配属された時も、胸が高鳴った。
手が届く事などない人だが、誰もが憧れるヒヨクの部下になれた事だけでも嬉しかったのだ。
………鬼畜な上司ぶりに秒で幻滅して、「こんな鬼畜野郎のつがい様が可哀想」と考え直したものだが。
そしてその可哀想なつがいは、ナナミーだった。
いつアザが表れたのかは分からない。
ある日お風呂で鏡を見る時まで、気が付かなかったアザだった。
人にぶつかられて、激しく尻餅をついたある日。
その日の夜にお風呂で、「お尻が腫れちゃったんじゃない?」と痛むお尻を鏡に映すと、左のお尻に走るヒョウ模様のアザを見つけた。
「………いやいやいや。見間違いだ。今日もあの鬼畜上司のせいで、遅くまで残業したから疲れているだけだ」と、その日は見なかった事にして眠ったものだが、次の日もその次の日もアザはしっかりと左のお尻に表れていた。
―――もし。
もしヒヨクに憧れていた時のナナミーならば、すぐに「つがい認定協会」に走ったに違いない。
つがい認定協会の検査を受けて、認定後に発行される「つがい証」を得て、堂々とヒヨクのつがいを名乗り出ただろう。
しかし今は状況も気持ちも変わったのだ。
ナナミーは、鬼畜上司の元で働く社畜と化し、常に「いつかこんな仕事辞めて、森に帰って怠惰な生活を送ってやる」と誓う日々を送っていた。
昔を思い出していたら、いつの間にか手が止まっていたようだ。
「ナナミー、寝てんじゃねえぞ。その書類、明日の朝イチで使う資料だ。それを訳すまで帰れると思うなよ」
鬼畜な上司が、今日も鬼畜な言葉をかけてきた。
「………すみませーん。少し難しいところがありまして」と、うふふと笑ってやる。
そして思う。
『お前が謙虚な心を持たない限り、永遠につがいは見つけられないだろうよ』、と。
だけどナナミーだって鬼ではない。
もしヒヨクが、「つがいを大切にするから、俺と同じ模様を持つ者はどうか名乗り出てほしい」―――そんな風に殊勝な態度で謙虚にアピールするならば、ナナミーだってたとえ鬼畜上司でも「名乗り出てみようかな?」と少しは心動かされると思う。
なのにどうだ。
この鬼畜上司は、ただの鬼畜でしかない。
つがいとしてはもちろん、上司としての魅力もゼロだ。
こんな優しさや気遣いのカケラすらない男に、誰が惹かれるというのだ。つがいなんて断固拒否だ。
『つがいの証が表れた事は、墓場まで持って行こう』
今日もナナミーは、心の中で固く自分に誓っていた。