王
未だかつて力に魅入られなかった王はいるだろうか。もちろん、いるはずもない。力は万物の始祖であり、この世の中で最も美しいものだ。そして、諸悪の根源であり、狂気の沸き立つ場所である。空の玉座など腐ったチーズひとかけら程の価値もないのだ。奪え、争え、簒奪しろ。我が手こそが海、我が足こそが大地なのだ。何人たりとも逃れることはできまい。パンドラの箱は既に開かれたのだ。
ああ、不幸な王。哀れな王。かつてあんなにも純粋無垢だった少年の影はもう失われてしまった。眼前に映るのは、精神を病んだ、疑心暗鬼の影。ガラスに反射した光が、部屋をキラキラと照らす。色とりどりの宮殿の花は陽光に照らされ、風に吹かれて揺られている。しかし、彼の眼には何も移らない。灰色の眼は色という色が逃げ出してしまったように思えた。禁足地の緑色の池の底から引きずり出したとしても直ぐに腐ってしまう手足。虚空を見つめ、うわ言をぶつぶつと呟く。
「カビにパンが欠けている。キノコが行方をくらませたら明日になっても東は南。首。首。首。そこら中で花瓶が割れている。湧いてりゃリボンが儲けもの」
いたたまれなくなって私は声をかける。
「陛下、陛下。お加減はいかがでしょうか」
私のことに気づいていないのか、なおも変わらない様子で
「、、、肉がピアノを眠ったら、、、あ、あああああ」
と喚きだした。
私は、恐怖を感じた。この世のものとは思えない形相をしていたからだ。しかし、これ以上彼を放っておくわけにもいくまい。彼の様子に怯みつつも再び声をかける。
「陛下。大丈夫ですか」
彼はようやく私に気づいたのか、ぐりんと目の焦点をこちらに合わせると、人が変わったみたいに平静さを取り戻したように見えた。悪魔が床に落ちたのかと思える程だった。
「ああ。ちょっとぼーっとしてしまってね。何かあったのか」
彼は何事もなかったかのように答える。
「お加減が優れないように見えましたもので」
彼のこの発作のようなものは何も今日が初めてではない。王に即位してからずっとなのだ。国で一番の医者に見せても完全にお手上げだった。私は、先の見えない状況に参ってしまっていた。これは、何かの悪い夢だ。そう、きっと何かのワルイユメ。そう呟くと、私の視線は彼の眼に置かれた。彼の黒い眼が見える。黒い眼に何かが写っている。これは、私の眼か。灰色の。灰色の。そんなはずはない。ありえない。なぜなら私の眼は。私は壊れたばねのように向きを変えると、茫然とする彼を尻目に鏡へすっ飛んでいった。鏡に移る眼を見た。そこに写るのは。
「あ、あああああ」
私は眼を抉り出すようにかきむしりながら、叫び声をあげていたことに気づいた。彼は困惑しつつも私の表情につられたかのように微笑を浮かべつつ、例の何も写らない瞳で窓を眺めていた。




