第一章 第六話
「おはよう、お兄ちゃん。起きてる? 最近学校行ってないんだって?」
お兄ちゃんが一人暮らしをしているアパートのチャイムを鳴らして声をかける。それと同時に、カバンから合い鍵を取り出した。
「もしもーし、入るわよ」
改めてチャイムを鳴らし、さっきよりも大きな声をかけた。
今度は返事を待たずに中に入ると、お兄ちゃんがソファの上で寝ている姿があった。
机の上ではカレー味のカップラーメンがすっかり冷え切っていて、数時間前まで食べ物だったとは思えない姿に変わり果てている。
その隣には旧式のノートパソコンが置いてあり、私がマウスを少し動かすと、画面には書きかけの小説と思しき文章が映し出された。
「窓、開けるわよ。空気入れ替えなきゃ」
一応お兄ちゃんに断りを入れてみたものの、当然返事はない。
「もっとちゃんとした生活してよね。若いうちからこんなものばっかり食べてたら早死にしちゃう」
そんな愚痴をこぼしながら、カップラーメンのごみを処分する。
その時、キッチンの流しが汚れていることに気づいてしまった。
気付いたからには掃除しないとなんだか気持ちが悪い。
自分は朝早くから何をやっているのだろうと思いながら、三角コーナーのネットを取り換え、使い捨てのスポンジで周囲の汚れをこすった。
スポンジ自体が汚れきっていたので、次に来る時に買ってくる必要がある。
屋上でお兄ちゃんとオリビアさんの姿を見た日から、約三週間の時が流れた。
お兄ちゃんは、私があの日屋上の扉の向こうにいたことを今も知らない。
私の中であの日の出来事をなかったことにすることはできなかったけれど、できるだけ今まで通り普通に接してきたつもりだ。
凛子には諦めたらダメだと言われたけれど、そういう問題ではなかった。
諦めるとか諦めないとか以前に、私は別にどうしてもお兄ちゃんと付き合いたいわけではないのかもしれない。
今まで通りの幸せな毎日がこれからも続いて欲しい。
部活の朝練がない日は一緒に登校し、たまに会ったら仲良く話したい。
お兄ちゃんにとって自分だけが特別な存在でいたい。
そんな日々がいつまでも続くわけではないことを、幼馴染はいずれ離れ離れになっていくということを、ドラマなどで見た知識としては知っていたけれど、信じたくはなかった。少なくとも自暴自棄になって自ら今の関係を破壊することだけは避けたかった。
「ああ、桃花。来てたのか」
掃除機の音でさすがに目が覚めたお兄ちゃんが、ゆっくりと起き上がる。
「うん、おはよう。久しぶりね」
「桃花、お前学校行かなくていいのかよ。遅れるぞ」
「あの、お兄ちゃんも同じ学校に通ってるはずなんですけど」
あえてよそよそしい口調で答えると、お兄ちゃんは、
「俺はいいの」
と言いながらパソコンの前に座った。少し跳ねた髪を手で押さえつけていたが、手を離すとすぐにまた元通りになった。
「最近、仕事忙しいの?」
「ああ。どうにも納得のいく文章が書けないんだよな」
「そっか」
お兄ちゃんがスランプに陥るのはこれが初めてではない。半年くらい前にも綺麗な文章が書けないとぼやいていた。
でも、お兄ちゃんに対して「スランプ」が禁句であることを、私は既に知っていた。
「言っとくけど、スランプじゃないからな。ただの実力不足だ。小説家に調子や偶然の閃きなんていう曖昧なものは存在しない。俺に能力が足りてないから、自分が書きたいものをうまく文章にできない。それだけが唯一の原因なんだ」
「私、まだ何も言ってないじゃない」
「顔に書いてあるんだよ」
お兄ちゃんから理不尽な叱責を受ける。
寝起きはたいてい機嫌が悪い。仕事がうまくいっていないというのであればなおさらだろう。
「お兄ちゃんが頑張って小説家になったの、私は知ってるよ。学校から帰ってきてから毎日最低四時間、ずっと小説を書き続けていたのを見てたんだから。忘れるわけないじゃない」
私がそう言うと、お兄ちゃんは少し落ち着いたのか、
「そうか。悪かったな」
と言って、私が差し出したコーヒーを口に含んだ。
タイミングを合わせるように、私も自分のコーヒーを飲む。
ファンからもらったというお兄ちゃんの家のコーヒーメーカーは、それまでコーラばかり飲んでいた彼をコーヒー党にするには十分すぎるくらい立派なものだった。
そして、お兄ちゃんの家に来た時に一緒にコーヒーを飲むこの時間が、私は大好きだった。
「新作、急いで書かないといけないの?」
「ああ。俺みたいな新人は編集者に嫌われたらおしまいだからな。なんとか来週中くらいには大筋を完成させておく必要がある」
「高校の出席日数は足りてるの?」
「まだ大丈夫、心配すんなって」
お兄ちゃんはそう言って笑顔を作った。しかし、すぐに真面目な顔になり、
「桃花にこうやって話すのはちょっと恥ずかしいんだけど、正直、今すごく迷ってる」
と、言った。
「迷ってる?」
「俺が書きたい小説と、今の俺の能力で書ける小説と、岡口さんが求めてる小説が全て違うんだ。俺の能力不足の部分については、俺が頑張って何とかするしかないってわかってる。でも岡口さんが求めてるものと乖離があるってのはどうしたらいいのかなって最近考えてる」
「編集者に嫌われたらおしまいだってさっき自分でも言ってたじゃない。それって、締め切りの話だけじゃなくて、小説の中身についてもなんじゃないの?」
「やっぱりそうだよな」
「岡口さんは敏腕編集者って呼ばれてるんでしょ。その岡口さんが求めてる小説ってことは、世間一般から需要があるってことじゃないの?」
「そうなんだよ。『あのアメ』だって、公募時点の内容から実際に書籍化されるまでに結構加筆修正があったしな。岡口さんがいなかったら俺の小説家としてのキャリアはとっくに終わっていたと思う。っていうか始まってすらいない」
「前もそう言ってたね」
お兄ちゃんの言葉に相槌を打つ。
『あのアメ』こと『あの日のアメジスト』はお兄ちゃんのデビュー作で、出版社の公募に応募して新人賞を受賞し、それからしばらくして岡口さんのもとで書籍化された作品だ。
教科書と漫画以外の本をほとんど読んだことがなかった私が初めて読んだ長編小説でもある。
「あとこれは本当に偶然というか、他意はないんだけど、事実だから伝えるけどさ」
お兄ちゃんが少し回りくどい言い方をする。
「どうしたの?」
「俺が小説家だってことが、オリビアにバレた。あ、オリビアってのは例の転校生ね。夏祭りの日に俺を牧師と間違えたっていう」
ふいに登場したオリビアさんの名前に、心臓がドクンと強い脈を打つ。
「どうして?」
「あいつ、日本に来る前に俺の作品を読んで、ファンになったらしい。それで日本での居住地に紫水町を選んだんだとよ」
「『あのアメ』を読んで気に入って、わざわざ引っ越してきたってこと?」
「そうだ。あの作品は紫水町が舞台だからな。まぁ先に日本に引っ越すことが決まって、どうせなら紫水町にしようってくらいの温度感だったのだろうとは思うけど」
「そっか。でも、それとお兄ちゃんが『あのアメ』の作者だってバレることとは直接関係ないと思うわ。っていうか世間では神原友のことを女流作家だと思ってる人の方が多いんじゃない?」
「その辺はなんていうか俺が迂闊だったのもあるんだが、オリビアが勝手に屋上にきて、岡口さんと電話してるところを聞かれた」
屋上、オリビア、という単語から、嫌でもあの日のことが頭をよぎった。
それとも、あの日以外にも二人は屋上で会っているのだろうか。
「そっか。まぁお兄ちゃんがバレてもいいなら私は構わないけど」
顔を隠すように、既に空になったコーヒーカップを口元へと運んだ。
作家・神原友の正体が杉原拓斗であることを隠したいと言い出したのはお兄ちゃんの方だ。
デビューから一年以上がたった今でも、出版社の人を除くと私たち姉妹とお姉ちゃん、あとは担任など一部の教師たちにしか知らされていない。
恋愛小説の作者が男性だと知られるのはプロモーション的に問題があるだとか、同級生にバレると色々と聞かれて面倒だからとか、理由はいろいろあった気がするけれど、あまり覚えていなかった。
「それでさ。オリビアは編集者なんて気にせず俺が書きたいものを書けって言うんだよな。まぁそんな感じでちょっと迷ってるってわけ」
「お兄ちゃんが書きたいものって何よ」
「それをうまく説明出来たら、もう書いてるよ」
お兄ちゃんは自嘲気味に笑いながらそう言って、立ち上がった。
空になった二人分のコーヒーカップを手に取って、キッチンへと向かう。
「いつも来てくれてありがとな。桃花がいなかったら俺は今の生活を続けられていなかったと思う」
「ううん。私が好きでやってることだもん」
「俺は大丈夫だから、桃花はもう学校に行けよ。遅刻するぞ」
お兄ちゃんの言葉に、慌ててスマートフォンを取り出して時刻を見る。
「ヤバい。私はもう行くね。お兄ちゃんも頑張って。仕事が大事なのはわかるけど、出席日数と中間テストも同じくらい大事なんだからね」
そう言うと同時に、立ち上がる。
ローファーを履きながら、できるだけ自然な流れを装って、ずっと聞きたかったことを聞いた。
「ねぇ。お兄ちゃんは、オリビアさんのことが好き?」
「そうかもな」
午前八時十九分。今から集中して走れば、ギリギリ始業時刻に間に合うだろう。
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既に最後まで書き終わっているので、できるだけ速やかに全話投稿していきます。