第一章 第五話
紫水学園の校舎は、四階に一年生、三階に二年生、二階に三年生、そして一階に職員室や保健室が配置されている。
エレベーターは備え付けられていないので、一年生が一番しんどく、学年が上がるにつれ比較的楽になっていく仕組みだ。
正直、一年生のころは毎日辛かった。
中等部の三年生だったときは二階に教室があったので、高等部に進学し再び四階になる、このギャップに慣れるのに時間がかかった。
昼休み、今朝お兄ちゃんに渡し忘れたお弁当を片手に、屋上へと続く階段を上っていく。ここに立ち寄るのは数か月ぶりだ。
お兄ちゃんが頻繁に屋上で昼食を食べていることは知っているが、本来は立ち入り禁止の場所である。
普段ならば自分まで禁忌を犯す必要はないと思っているし、本当はお兄ちゃんの校則違反を見て見ぬふりしているだけでも少し心が痛んでいる。
自分でも馬鹿らしいとは思うけれど、そういう性格なのだ。
階段を上り切り屋上へと繋がるドアノブに手をかけると、ドアの向こうから聞き慣れた声が聞こえてきた。
「そもそもここは立ち入り禁止だぞ」
「拓斗が言っても説得力ないわね」
扉を少し開けて、外の様子を伺う。
堀が深く大人びた横顔と不釣り合いな学生服、地毛でなければ校則違反で一発アウトだと思われる長い金髪、すらっとした細身の身体から長く伸びた白い手足。
お兄ちゃんと話している相手がオリビアさんであることは瞬時にわかった。
思わずドアを閉め、その場に立ちすくむ。
ガチャっというドアが閉まる音で気づかれてしまっただろうか。
いや、そもそも気づかれることに何の問題があるのだろう。
私はお兄ちゃんにお弁当を届けに来ただけなのだし、堂々と入っていけばいいだけだ。
緊張する理由はない。遠慮する理由もない。
そんなことを考えながら、ふと冷静になった。
オリビアさんはなぜ屋上にいるのだろう。
いくらお兄ちゃんとクラスメイトとはいえ、屋上までついてくるのはおかしい。
そもそもお兄ちゃんは、小説のアイディアを考えるため一人になりたいからという理由で屋上に入り浸っていたはずだ。
そのお兄ちゃんが自らオリビアさんを招いたとは考えづらい。
再びドアノブに手を伸ばし、今度は音を立てないようにそっとドアを開いた。
重い鉄の扉を五センチくらい開けて外の様子を見ようとした刹那、オリビアさんと目が合った気がした。
お兄ちゃんの後姿の奥から、青く透き通った大きな目がこちらをじっと見つめている。
客観的に見ればおそらく一瞬の出来事だったのだろうけれど、私の心から勇気と覚悟を吸い取るには十分すぎるくらい、長い時間だった。
次の瞬間の出来事だ。
オリビアさんがそっとお兄ちゃんの腰に手を回し、自らの顔をお兄ちゃんのそれに近づけた。
二人の距離が急速に縮まる。
二人で一つになった身体がくるっと九十度回転し、二人の横顔がハッキリと見えた。
「なんだ、やっぱりそうだったんだ」
小さなため息とともに、そっとドアを閉める。
今度は見間違いでも人違いでもない。お兄ちゃんとオリビアさんが、本来ならお兄ちゃんしかいないはずの校舎の屋上で、見つめ合いながらキスをしている場面を、私は今たしかに見た。
「別に隠さなくてもいいのにな。私、そんなに不機嫌そうだったかな」
自分でも不思議なほど落ち着いていた。
むしろ来た時よりも軽いくらいの足取りで、階段を下りる。
いつの間にかスマートフォンに凛子からのメッセージが届いていることに気が付いた。
『そっか、よかったね。ぶっちゃけ私、たっくんもお姉ちゃんのこと好きだと思うよ。っていうか絶対にそう。気づいてないのはお姉ちゃんだけだよ』
今朝の出来事を報告したことに対する返答だ。
凛子の通う中等部は、高等部よりも校内での携帯電話の使用に厳しい。
昼休みにようやく私が今朝送ったメッセージを見て、返信してきたということだろう。
『ごめん、やっぱり二人は付き合ってるみたい』
『え? どういうこと?』
今度はすぐに返信が返ってきた。ウサギのキャラクターが両手をあげて大げさに驚いているスタンプもセットで届いている。
『私は大丈夫だから心配しないで。帰ったら詳しく話すね』
そう返信して十秒も経たないうちに、凛子から電話がかかってきた。
そっと拒否ボタンを押して、スマートフォンをポケットにしまう。
その後もたびたびバイブの振動を感じたけれど、もう取り出すことはしなかった。
一年三組の教室に戻ると、クラスメイト達が声をかけてくれた。
私の事情は知らないはずだけれど、昼休みに突然いなくなったので心配したのだろう。
凛子の気遣いとクラスメイトの優しさが嬉しくて、思わず泣き出しそうになってしまったが、なんとか耐えた。
放課後の剣道部の練習が終わると、神社の境内に場所を移して一人で練習を続けた。
お兄ちゃんに渡すはずだった分のお弁当は、この時に一人で食べた。
落とした米粒に鳩が五、六羽ほど寄ってきたので、竹刀で追い払って、一粒残らずティッシュで拾い上げる。
「鳩にエサをあげないでください」という立て看板に書かれていることをここまで律儀に守っている人は、おそらく私だけだろう。
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