第四章 第三話
お正月の忙しい時期に、兄が突然帰ってきた。
約五年ぶりに会う兄は以前よりも痩せていて、服や靴も汚れが目立っており、生活に苦労しているのだろうということがすぐにわかった。
兄、笹川健吾は私よりも九歳年上で、笹川家唯一の男系男子だ。
子供の頃から将来は神主の地位を継ぐのが当然という教育を受け、大学で宗教に関する専門的な知識を学んだ後は嫌がるそぶりもなく笹川神社で働いていた。
それが五年前、三十歳の時に突如、恋人と一緒に蒸発した。後で聞いた話だけれど、神職と関係のない家柄の女性との結婚を、父が反対していたらしい。
「今さら戻ってきてどういうつもりだ。もうこの神社にお前の場所はない」
約五年ぶりに顔を見た兄に対し、父は苛立ちを隠さない。着席して早々に、正面に座った兄を強く睨みつけた。
「あなた、落ち着いて」
隣に座る母が、父をなだめる。
「健吾、どうして戻ってきてくれたの? あの女の子はどうしたの?」
「沙織は先月、病気で死んだ」
母の問いかけに、兄は短く答えた。
「そう。まだ若いのに、残念ね」
「子供がいるんだ。今三歳で、もうすぐ四歳になる」
兄の言葉に、空気が一気にピリついた。父は引き続き黙って兄を睨みつけ、さっきまでは穏やかな表情をしていた母ですら、顔の筋肉が引きつっていた。
「もしかして、連れてきてるの?」
母がおそるおそる尋ねる。
「いや、今日はここに来る前に沙織のご両親に預けてきた」
「沙織さんのご両親はなんて言ってるの?」
「俺たちが駆け落ちしてからしばらくは連絡を取ってなかったんだが、一昨年に沙織から連絡を取って、和解してる。もしかしたら今でも俺のことは内心よく思ってないのかもしれないけど、息子の翔太のこともあるし、少なくとも表面上は仲良くしてくれてる。おそらく、俺が入院している沙織の世話をしっかりやってたことも関係してると思う」
「そう、それならいいけど……」
母がそう言うと、次は父が質問攻めにする番だった。
「お前、今どこに住んでるんだ? 仕事はちゃんとしてるのか?」
父の言葉に、兄が頷く。
「隣町にマンションを借りて住んでる。沙織の実家の近くだ。出て行った当初は東京に住んでたが、沙織の実家と和解してから、子育てや看病のこともあって引っ越したんだ」
「仕事は?」
「不動産屋で働いてる。三十歳まで神社の仕事以外したことがなかったから、大したことはできないけどな。転職エージェントの人とかの世話になって、なんとか雇ってもらうことができた」
「子供、ちゃんと育てられるんだろうな」
父がそう聞くと、兄が姿勢を正した。
「そこでお願いに来た。俺と翔太をこの神社において欲しい。仕事はこれからも続けるつもりだが、託児所だけでは育児との両立が難しい場合があるんだ」
「また、ここで暮らしたいっていうこと?」
母の言葉に兄が黙って頷く。母は少しほっとしたような表情を見せた。
「私たちに勝手に作った孫の世話をしろっていうのか」
父が大きな声を出した。
「ごめん。もちろん神社の手伝いだってする。何でもする。本当に他に頼れるところがないんだ」
「今さら神社の仕事を任せられるか。一度出て行った人間が戻ってきているということが公になるだけでも世間体が悪いのに」
父はまだ何か言いたそうだったけれど、母がそれを手で制止する。
私が横から見ていても、兄が真剣であることは十分に伝わった。
それに、このまま兄を見放すと、無事に生きていけるかすらわからない。彼はそれくらい焦燥していた。
「とりあえず、今日はもう遅いから帰りなさい。長時間沙織さんのご両親に迷惑をかけてもいけないし、また今度話しましょう。私は、今でも健吾のことを心配してるから」
母がそう言うと、兄がそっと名刺を差し出した。赤いロゴマークの横に、『大久保不動産 営業一課 笹川健吾』と書かれている。
「これが今の連絡先。プライベートの電話番号は裏に書いておいた」
両親に名刺を渡した後、兄は私の方を向いて、
「朱莉にも迷惑かけて悪かったな。これ、受け取ってくれるか」
と、言った。
両手で丁寧に差し出す兄と異なり、会社員経験のない私には名刺の正式な受け取り方がわからない。とりあえず母の行動をできるだけ真似するようにして受け取り、すぐにポケットにしまった。
母と二人で兄を鳥居のところまで見送ることにした。歩いていると、兄がふいに、
「この神社の跡取り問題、どうなってる?」
と、聞いてきた。
「それは……」
歯切れの悪い母にかわり、
「私が婿養子を取ることになってるの。とっても優しい方よ」
と、答えた。
「そうか。朱莉に一番迷惑をかけてるな」
「ううん、私は全然嫌じゃないわ。幸平さんっていう神社の三男なんだけど、とてもまじめで優しい方なの」
「本当にもう俺の居場所はないんだな」
兄は少し寂しそうな顔をしたけれど、すぐに、
「なんて、俺が言えた義理じゃないよな。自分の意志で勝手に出て行ったんだし」
と、言った。
「跡取りの件については何とも言えないけど、私は兄さんが帰ってきてくれると嬉しいわ。お母さんもそうよね?」
私が声をかけても、母は終始深刻そうな顔をして言葉が耳に入っていない様子だった。
「お母さん?」
「ああ、そうね。私も健吾や子供のことが心配だけど、お父さんがなんて言うかしら」
「とりあえず、当面は託児所や沙織のご両親にも助けてもらいながら、なんとかやっていく。今は国や自治体からの補助もあるし大丈夫だと思う」
兄はそう言ったけれど、その表情や声からは、あまり大丈夫そうには思えなかった。
「私からもお父さんに頼んでみる。お父さんだって本当は心配してるはずよ」
私がそう言うと兄は、
「ありがとう」
と言って去っていった。
すっかり小さくなった兄の背中を見つめていると、なんだか泣きたくなってきた。
兄とはそんなに仲がいいというわけではなかったけれど、今の私なら跡継ぎのプレッシャーがいかに重いものか理解できる。
幸平との話が出てきてから、兄が黙って家を出ていく前に味方をしてあげられなかったことを後悔しない日はなかった。
結局誰か一人が家を継ぐことにはなるのだけれど、だからと言ってその一人に全てを押し付けていいわけではない。
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