第一章 第二話
笹川神社の入り口、大きな鳥居の前に到着すると、神主の娘である笹川朱莉が巫女姿に古い竹ぼうきで落ち葉を掃いていた。
「お姉ちゃん、こんばんは」
夏の空はまだ少し明るかったけれど、夜のあいさつをした。
紫水町の住人は概ねみんな、笹川神社と縁がある。私にとっても子供の頃からよく遊びに来ているなじみ深い場所だった。
特に朱莉にはよく遊び相手になってもらい、今でも「お姉ちゃん」と呼んで慕っている。
「あら、桃花ちゃん。いらっしゃい。浴衣姿を見るのは久しぶりかしら。中はもう盛り上がってるわよ」
お姉ちゃんの視線の先から、夏の風に乗って屋台のいい香りが運ばれてきた。久しぶりの夏祭りに胸が高鳴る。
「掃除、手伝おっか?」
私がそう声をかけると、お姉ちゃんは、
「いいのいいの。私は主催者側なんだから気にしないで。花火は二十時からだから、それまでゆっくり屋台やステージを楽しんでね」
と、言った。
「あ、そうそう。拓斗くんと凛子ちゃんはもう着いてるわよ。凛子ちゃんはお友達と一緒のように見えたけど、拓斗くんとは中で合流する予定なのかしら?」
お姉ちゃんが心配そうに尋ねてくる。
「うん、まぁ、そんな感じ」
中途半端に少しだけ振り返り答えると、お姉ちゃんは、
「そう。ごゆっくり」
と、優しい声で言って、再び落ち葉を掃き始めた。
不自然に思われただろうか。子供の頃からお姉ちゃんに隠し事が通用したためしがないし、そもそも隠すようなことではないのだけれど、お兄ちゃんと二人で夏祭りに参加することを知られるのは、なぜか少し恥ずかしかった。
凛子に勧められるがまま自分から誘ってみたものの、まさかお兄ちゃんがあっさり承諾してくれるとは思っていなかったのだ。
約束をしてから約一週間、具体的なプランは何も決めていないまま、あっという間に当日になってしまった。
お兄ちゃんはどういう想いでこの誘いに乗ってくれたのだろう。彼は私のことをどう思っているのだろうか。
「遅い」
聞き慣れた声の方へ顔を向けると、そこにはお兄ちゃんが立っていた。
薄い水色のシャツに紺のパンツ姿のお兄ちゃんの両手は、二つの綿あめでふさがっている。
「お兄ちゃん? なんでそんなもの持ってるのよ」
「桃花、綿あめ好きだっただろ。買っておいてやったぞ。ほら、桃花のはこっち」
お兄ちゃんはぶっきらぼうにそう言って、猫のキャラクターの袋に入った綿あめを一つを差し出した。
お兄ちゃんの手に残ったもう一つは、無色透明なビニール袋に包まれている。
「それは子供の時の話でしょ。私、もう十六歳なのよ」
「そうか」
私が反論すると、お兄ちゃんが笑いながら綿あめを食べ始めた。私も袋を開けて、白く柔らかいそれを少し口に含む。
「待たせてごめんね。準備に手間取っちゃって」
「わざわざそんなもの着なくても、いつもの恰好で来たらいいのに」
そんなものって……という言葉を飲み込み、顔を上げる。
「ね。私もそう思ったんだけど、凛子が着て行けってうるさくってさ。まぁ二年くらい前に買ってから一度も着たことがなかったから、ちょうどいいかなって」
「そういえば凛子はどうしたんだ? 一緒に来るのかと思ってたけど、さっきすれ違った時は友達と一緒みたいだったぞ」
この男は何を言っているんだろう。ちゃんと「二人で行こう」と誘ったのを忘れたのか。という言葉も心の中に片付けた。
「今年は友達と遊ぶんだってさ。だから私だけで来ちゃったけど、やっぱり私と二人なんて嫌だよね」
「べつに、嫌じゃないけど」
私の言葉を、お兄ちゃんが食い気味に否定した。
「そっか。よかった。じゃあどうしよっか」
食べかけの綿あめの袋を閉じ、周囲を見渡した。普段はあまり人の多くない笹川神社が、今日は大混雑だった。
「はぐれないように手でも繋いでやろうか?」
お兄ちゃんが冗談っぽく言って、左手を差し出した。
「馬鹿、私はもう高校生だって言ったでしょ」
まだ何か言っているお兄ちゃんを無視して、あてもなく先に歩き出す。お兄ちゃんはすぐに駆け寄ってきて、隣を歩いてくれた。
私にとって三年ぶりとなる夏祭りは、以前と少しも変わらなかった。
射的ゲームは弾が景品に当たってもなかなか倒れないし、焼きそばは相変わらず超大盛りだ。
夢中になってすくいあげた金魚たちは、ちゃんと世話をできる自信がなかったので、全て店のおじさんに返した。
十二匹もすくえたのは剣道部で集中力と反射神経を鍛えた結果だろうか。
店のおじさんにも、隣で一匹もすくえなかったお兄ちゃんにも、苦笑いをされてしまった。
「花火、何時からだっけ?」
お兄ちゃんが尋ねてくる。
「八時」
「そうか。たしか高台だとよく見えるんだっけか」
「えっ、そうね。お兄ちゃん、なんで知ってるの?」
「この町の人なら誰でも知ってるだろ。夏祭りは毎年あるんだし」
「そうだけどお兄ちゃん、花火とか興味ないタイプだと思ってたから」
「まぁそれは否定しないけどさ。特に今年は桃花が何回も高台に行くと見やすいって言うから、さすがに覚えたぞ」
「そんなに言ってないもん」
否定はしてみたものの、言っていたと思う。お兄ちゃんを夏祭りに誘ってから今日まで、思い返せば会うたびに高台の話をしていた気がする。
「でも、階段上るの大変だよね。神社の裏の階段、高台まで三百八十二段もあって、殺人階段なんて呼ばれてるのよ。あれを上るだけで足が痛くなっちゃうし、わざわざ高台まで行く人なんてほとんどいないわ。花火なら別にこの辺でも見られるから私は……」
「見たいんだろ。いいから早く行こうぜ」
一人早口で喋り続けていたところ、お兄ちゃんの声で我に返る。三メートルくらい先のお兄ちゃんの元まで、慌てて駆け寄った。
「お前、この階段を上るつもりなのにその恰好で来たのかよ。歩きにくそうだが大丈夫か?」
階段の遥か上の方を見上げて、お兄ちゃんがため息をついた。
「ごめん。やっぱり嫌だよね。私は別に境内からでも」
「楽しみにしてたんだろ」
そう言って、お兄ちゃんが手を出した。
「うん、ありがとう」
はっきりとそう言って、今度はお兄ちゃんの細い手をしっかりと握りしめた。
「でも、さすがに早いよ。あと一時間以上あるじゃない」
あいている左手でスマートフォンの画面を開き、お兄ちゃんに時刻を見せる。
「そうか。じゃあもうちょっと屋台で遊ぶか」
お兄ちゃんはそう言って手を放し、くるっと百八十度方向を変えた。
「あっ……」
「どうした?」
「ううん、なんでもない。さっきよりもだいぶ人が増えてきてるわね。ステージも始まってるみたい」
私たちの視線の先、神社の中央部分に組み立てられた正方形のステージの上では、小さな子供たちが中学生くらいの女の子の誘導に合わせてダンスをしていて、カメラを持った大人たちがそれを取り囲んでいた。
「ねぇお兄ちゃん、覚えてる? 私たちも昔、あれをやったのよ。お姉ちゃんがガイドしてくれて」
「そんなこともあったか」
お兄ちゃんが少し恥ずかしそうに頭をかいた。
「うん。それで凛子が途中で転んで泣き出しちゃって」
「お前、今日はよくしゃべるなぁ。そんなに気になるなら今年も混ぜてもらってこいよ」
「あっ、また馬鹿にした」
「してねぇよ」
お兄ちゃんが優しくそう言って、二人で笑いあう。
勇気を出して彼を誘い、凛子にも手伝ってもらい準備をして、今日ここに来てよかった。心の底からそう思った。
「今年は踊らないわ。私はもう高校生だもん」
真面目な口調でそう言うと、お兄ちゃんは何を当たり前のことを言っているんだという風に、不思議そうな顔をしていた。
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