第一章 第十話
「桃花ちゃん」
「ねぇ。桃花ちゃんってば」
自分の名前を呼ぶ声で我に返ると、いつの間にか目の前にお姉ちゃんがいた。
薄いピンク色をしたワンピースを着て、手にはいつもの掃除道具を持っている。
「集中してるところごめんね。でも、もう帰った方がいいんじゃないかしら。ご家族が心配するわ」
お姉ちゃんがそう言って、自動販売機の横にある時計を見た。
「あ、もうこんな時間。全然気づかなかった」
「桃花ちゃん、最近ずっとここで練習してるわね。何かあった?」
お姉ちゃんが心配そうに尋ねてくる。
「ううん。勝手に場所使ってごめんね」
「いいえ。笹川神社の境内は、誰でも自由に使っていいのよ。もちろん常識の範囲内でっていう前提はあるけれど、高校生が真剣に剣道の練習をしていることを嫌がる人なんて、ここには一人もいないわ」
「ありがとう」
お姉ちゃんに礼を言いながら、竹刀を片付ける。
最近は日が暮れるのが早くなり、連動して学校が閉まる時間も早くなった。
家に帰ってもすることがないので、毎日一人でここにきて、練習を続けている。
少しでも暇ができると、人間は余計なことを考えてしまう。それは今、最も避けたいことだった。
路地裏でオリビアさんと初めて会話をした日のことは、心の奥の引き出しに収納し、鍵をかけた。
お兄ちゃんからの連絡には「私は大丈夫」と一度返信しただけだ。
最近は家まで朝起こしに行くこともないし、一緒にコーヒーを飲むこともない。
凛子もあの日以来、全くお兄ちゃんやオリビアさんの話をしなくなった。
「拓斗くんと何かあった?」
横を歩くお姉ちゃんが核心に迫る問いをする。彼女の優しい声に、私は黙って小さく頷いた。
「そう。実はね、この前拓斗くんと会ったのよ。駅前の書店で偶然ね」
「お兄ちゃんと?」
「ええ。資料集めや新刊チェックだって言ってたわ。最近は自分の足で調べるようにしてるんですって」
お姉ちゃんは、お兄ちゃんが小説家になったことを知っている数少ない人物の一人だ。
私が黙っていると、お姉ちゃんが話を続けた。
「拓斗くん、お仕事のことで悩んでるみたいだった。だから私、桃花ちゃんに相談してみたらどうかって言ったのよ。もちろん私にできることはするとも言ったんだけど、私よりも桃花ちゃんの方が拓斗くんのことをわかってると思うから」
「全然、全然わからないの」
消えそうな声で呟く。
それでも、静かな夜の神社では十分すぎるくらいはっきりとお姉ちゃんの耳に届いたのだろう。
真剣な、それでいて優しい顔がこちらを見つめている。
お姉ちゃんは両手で私の手を取って、
「さっきは早く帰れって言ったけど、やっぱり少し休んでいかない?」
と、言った。
既に施錠済みだった休憩室の鍵を再び開けてくれ、促されるまま古い木製の椅子に座る。
「桃花ちゃんがここに来るの、いつ以来かしらね。神社自体には来ることがあっても、わざわざこんな汚いところで休まないでしょう?」
お姉ちゃんが笑いながら、机の腐食した部分を指でなぞった。
「この机、私が子供の頃からあるよね」
「ええ。桃花ちゃんどころか、私が物心ついた時には既にあったわ。手入れはしっかりしてるつもりなんだけど、不特定多数の人が使うものだし、さすがに何十年も経つと、ね」
「私たちもそうなのかな」
「桃花ちゃんたちも?」
「最近、お兄ちゃんとの関係が変わっていくのが怖いの」
私がそう言うと、お姉ちゃんが手を握る力を少し強めてくれた。
「私とお兄ちゃんは子供の頃からいつも一緒だった。一緒に学校に行って、一緒に遊んで。お姉ちゃんのお母さんがやってる書道教室に一緒に通ったこともあったわ。それで一緒に進学して、一緒に卒業して、それで、それで」
「うん」
「いつの間にかお兄ちゃんと妹から彼氏と彼女になって、夫と妻になって、お父さんとお母さんになって、おじいちゃんとおばあちゃんになって」
話しながら、自然と涙が溢れてきた。
お姉ちゃんに悟られないように下を向いたけれど、余計に雫が垂れ落ちて、逆効果だった。それ以前に、声が大きく震えていることが自分でもわかった。
「大丈夫よ、ゆっくりでいいわ」
お姉ちゃんが背中をさすってくれる。
「もう、昔みたいな関係には戻れないのかな、このまま徐々に終わっていくことを受け入れるしかないのかな。それが大人になるっていうことなのかな。今の私の気持ちは、後から振り返るとどうでもいい些細な思い出なのかな」
「大丈夫、大丈夫だから」
「あのね。お兄ちゃんのクラスに転校生が来たの。オリビアさんっていう留学生。すごく綺麗で、頭が良くて、お兄ちゃんとも仲がいいみたい。その人に言われちゃった。私は甘えてるんだって。自分では何もしないで、他人の助けを待ってるんだって。それから、凛子が私のせいで泣いてるって」
「そうかなぁ。オリビアさんはどうしてそう思ったのかしら」
「全部オリビアさんの言う通りなの。夏祭りの時は凛子が準備を手伝ってくれたし、帰ってきた後は励ましてくれた。後で知ったんだけど、凛子も夏祭りの日に失恋したんだって。なのに私全然そんなこと気づかなかった。一方的に凛子に気をつかわせて、迷惑かけちゃった」
感情がこみ上げ、涙が古い机に染みこんでいく。
「あの時だって凛子が必死で私をかばってくれた。私の方がお姉ちゃんなのに何もできないで守られてただけなの」
早口で喋ったからか、涙のせいか、喉が詰まってしまった。咳こみながら水筒の水を飲む。
「桃花ちゃん」
私の呼吸が落ち着いたころを見計らい、お姉ちゃんが落ち着いた口調で話を始めた。
「私思うんだけどね。この世にあるほとんどのものは変わっていくわ。目に見えるものもそうだし、目に見えないものだってそう。人の気持ちなんて特に変わりやすいものよ。サロンを出た直後には可愛いと思っていたネイルを次の日に見ると、なんでこんな色にしちゃったんだろうって思ったりね。でも、だからこそ、今という瞬間を大切にする必要があるんだと私は思うのよね」
「今という瞬間……」
「そう。確かに拓斗くんと桃花ちゃんの関係は変わっていくのかもしれない。いつか離れ離れになる日が来るかもしれない。それは仕方のないことだわ。でもだからって、今、桃花ちゃんが考えていることや感じてること全てが無駄でどうでもいいというわけではないわ。そして、伝えたいこともね」
「私が、伝えたいこと」
お姉ちゃんの言葉を繰り返すと、彼女は、
「ええ」
と、言ってにっこり笑った。
「それからね。凛子ちゃんは気にしてないと思うわよ。彼女、昔からあなたのことが大好きだもの。きっと桃花ちゃんが気づいていないだけで、桃花ちゃんが凛子ちゃんの支えになってることもあると思うし、凛子ちゃんはそれを理解しているわ」
「お姉ちゃんありがとう。私もうちょっと頑張ってみる。夜遅くまでごめんね」
「気にしないで。私はずっとこの神社にいるから、またいつでもいらっしゃい。今日だって、まだ話し足りないことがあるなら聞くわよ」
「ううん、大丈夫」
力強くそう言って、席を立つ。振り返ると、後ろのテーブルの隅に小さなシールが二枚横並びで貼ってあるのが目に入った。
すっかり色が落ち何の絵が描かれていたのかもわからなくなったシールをそっと指でなぞる。
「桃花ちゃん覚えてる? それ、小さい頃に」
「私とお兄ちゃんが貼ったものよね」
私が言葉を引き継ぐと、お姉ちゃんは黙って頷いてくれた。
【応援よろしくお願いいたします】
「面白かった!」「続きを読みたい!」
と思ってくださった方は、下にある☆☆☆☆☆から、作品への応援お願いいたします。
もちろん、あまり満足ができなかった方は☆1つや2つでも構いません。
また、ブックマークや感想コメントもいただけると本当に嬉しく思います。
既に最後まで書き終わっているので、できるだけ速やかに全話投稿していきます。