プロローグ
「あの、すみません」
蝉の声がうるさくなってきた夏のある日、実家である笹川神社の掃除をしていると、懐かしい声がした。
私の古い記憶に刻まれている彼の声は、まだ幼く甲高いものだった。
したがって、今の彼の声を聞いたのは初めてである。それなのに、すぐに彼だとわかった。
離れたところから一人の若い男性がこちらへと向かってくる。十メートル、五メートル。距離が近づくにつれ、懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
「朱莉さん。笹川朱莉さんですよね」
彼の言葉に、黙って頷く。どうやら日本語能力は当時のままのようだ。
「エリック・マクシームです。マクシームではなく、森川と言った方がいいですね。僕のこと、覚えてますか」
「はい、覚えています。お久しぶりです、エリックさん」
「よかった」
エリックがほっと胸をなでおろす。
顔から緊張の色が消え、笑顔になった。笑う時に目を閉じる癖は変わらない。
「久しぶり、エリック。元気だった?」
改めてエリックに声をかけると、彼は両手を使って私の右手を取った。
二十年前は私より小さかった男の子の手が、いつのまにか遥かに大きくなって、今は私の手を包み込んでいる。
「朱莉ちゃん、久しぶり。また会えてよかった。今日は君に会いにきた」
エリックは感動を噛みしめるように、ゆっくりとそう言った。
エリックは日本人の父と外国人の母との間に誕生し、三歳の時に母親と一緒に初めて笹川神社を訪れた。
親同士が何か難しい話をしている間に一緒に雪遊びをして仲良くなり、その日以降、彼は毎日のように神社にやってくるようになった。
私は、年の離れた兄よりも二つ年下のエリックに親しみを感じ、弟のように可愛がった。
一緒に境内を駆け回り、砂の上に木の棒で絵を描いたり、どちらが早く階段を上り切れるか競い合ったりした。神社の裏にある長い階段は幼い私たちには長すぎて、勝負はいつも引き分けに終わった。
「この神社は二十年前と変わらないね。さっき僕がくぐってきた鳥居も、そこの自動販売機も、あそこのおみくじも。それに、階段の上の高台だって相変わらずみたいだ」
「ええ、最近は殺人階段なんていう物騒な名前で呼ばれてるわ。実際、上り切るのはかなり大変だもの」
「今なら一番上まで上り切れるのになぁ」
エリックはそう言って、少し悲しみを含んだような笑みを浮かべた。
「どうして、戻ってきたの?」
「母が死んだ。本当は四年前に日本に戻っていて、母と二人で東京に住んでいたんだ。日本の医療技術はすごいからね。治療に専念して欲しくて、久しぶりに二人で日本に来た」
「そう、それは大変だったわね。あなたのお母さんはいつも優しくて、子供の私にも構ってくれて、大好きだった」
「逆だよ。母はいつも笹川神社の皆さんに感謝してた。父と結婚してから僕と二人で国に戻るまでの五年間、この神社だけが母の心の支えだったと聞いてるよ。本当はもっと早く神社に来て朱莉ちゃんにあいさつしたかったんだけど、勇気が出なかった。この紫水町に引っ越してきたのも実は二年くらい前なんだ」
「勇気?」
「忘れられてたらどうしようって」
「忘れるわけないじゃない」
私がそう言うと、エリックはほっとした様子で、
「ありがとう」
と言って、笑顔になった。
二人で並んで境内を歩く。夏の日差しから逃げるように休憩所に入り、腰をかけた。
「朱莉ちゃんはこの二十年間、どんな生活をしてた?」
「私はずっとこの町にいるわ。今までも、これからもね。最近は跡取り問題とかでちょっとゴタゴタしてるけど、概ね楽しい人生よ」
「朱莉ちゃんならみんなに慕われる立派な跡取りになれそうだ」
「本当にそう思う? 私は、あの日の約束をまだ忘れていないけど」
私がそう言うと、エリックは少し考えてから答えた。
「朱莉ちゃんが立派な跡取りになりそうだっていうのは本当。でも、僕だって昔のことを忘れたわけじゃないよ」
二十年前の夏祭りの日、エリックと私は結婚の約束をした。それは少女漫画などによくある幼い子供同士のたわいもない決め事だった。
普通であれば成長するにつれ徐々に記憶から消え落ちて、大人になる頃には思い出すこともなくなるであろう、小さな小さな約束。そのはずだった。
約束をした次の日、エリックは国へと帰っていった。お母さんに連れられて神社までお別れのあいさつに来てくれたけれど、約束をしたばかりなのに裏切られたと思った私は、自室に引きこもって会うことを拒絶した。
結局、夏祭りの日が私たちにとって最後の日となった。
人は別れ際の顔を覚えているものだと、亡くなった祖母がよく言っていた。
私の脳裏には今でも、エリックが指切りをしながら見せた天使のような笑顔が刻まれている。
「ねぇエリック、あなた言っていたでしょう。高台に上って花火の前で愛を誓えば永遠に結ばれるって。私たちが結婚しようって約束した日、二人で手をつないで長い階段に挑戦したあの日、一緒に高台まで登り切っていれば未来は変わっていたかもしれない。今でも時々、そんな風に思うことがあるわ」
「それは迷信だろう」
エリックが笑う。
「私、ずっとこの神社にいるのよ。高台で花火を前に愛を誓ったカップルが幸せになる姿を何組も見てきたわ」
「たしかに僕もそういう話を聞いたことがある。でも、やっぱり偶然じゃないかな」
「そう……」
私が元気のない声で返事をすると、少し気まずそうな空気を察したのか、エリックが時計を確認した。
「朱莉ちゃんが見てきた人たちの話、よかったら聞かせて欲しいな」
「ええ。私も、あなたのお話をもっと聞きたいわ」
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