花、開いた先に ⑨
そのラウンジには二人を含めた五組がテーブル席に着き、その他カウンターではグラスを傾けた数名が見える。時刻は七時を過ぎ、団体客たちが次々とチェックインのため受付前に訪れている。窓越しにそうした姿が目に入ると、香純は周囲を見渡して一息ついた。そしていよいよ本題を切り出そうと、前屈みに体をぐいと乗り出して美穂の方をちらりと見た。その時、ちょうど左側を店員が通ったのですぐに声を掛けた。追加のドリンクを二つ頼み、それから程なくしてそれぞれの手元に届くと、香純はそれをすぐに手に飲み干した。そしてグラスの下の方を指の間で挟み、するすると滑らせながら右端へ寄せた。するとそこへ美穂が不意に左手を伸ばしてきた。香純はそのグラスを掴むのだろうと思っていたのだが、そのまま右手の甲へ重ね合わせてきた。一瞬のことで驚いた香純は何も言わず、しばらくそのままじっと美穂の眼を見ていた。随分と長く感じた数秒後、今しかないと口を開いた。
「そう言えば、まだ返事してなかったね、それに優の件も」
すると美穂は咄嗟に手を引っ込め、両手を胸元に当てた。そして何度か深呼吸を繰り返した後、落ち着いてこう答えた。
「急にごめんなさい、お返事は嬉しいのですが、少し緊張します、それと優は正式に退職した後ですので、私からは特に申し上げることはありません」
「そっか、しかし驚いたよ、まさか就任早々にとはな、何か策があるんだろう、確かに辞めたけど、その理由は立場とか金銭のためではなかったということがわかったね、ま、これから大変だと思うけど、林松さんから詳しい話を聞いてみて、後はそれからだな、あ、それとさ、トクにこの間のこと伝えたんだ、あのパソコンの話」
その瞬間、美穂は少し両眉を持ち上げてぐっと表情を引き締めた。既に覚悟している。ただ、とてもゆっくり一度だけ頷き、その後に答えた。
「怒ってましたか」
「いや全然、やっぱりね、だって」
「帰国した際には一度、じっくりお話し出来ればと思うのですが」
「そうだね、俺から伝えとくよ、後、信じていると言っていたよ」
美穂は何も答えずに頷いていたところ、香純は話を続けた。
「それってそのままの意味で、もちろん俺と美穂ちゃんに何らやましいことはない、ただ、心から沸き起こる感情というのは、そう簡単に嘘は付けないわけ、それで美穂ちゃんのことも好きなんだと、その時の電話で伝えたんだ」
「え、どうして」
「どうしてって、人にはそう言っておいて、自分でそうしないのは妙な話だろう」
「それはまあ、で、これからどうなさるおつもりですか」
「別にどうもしないさ、向こうに帰ったらその続きを話すだけ、ま、きっと朝までかかるだろうけどね」
「はあ」
「これからも家族を守っていく、それが返事、その他に言う事はないよ」
美穂は静かにグラスを一口当てる一方、香純はハンカチを取り出そうと懸命にポケットへ片手を突っ込みながら探した。こうした瞬間はいつぶりだろう。そう思いながら、取り出したハンカチで額に溢れ出る汗をしきりに拭っていた。すると美穂が時計をちらりと見て、バッグから何かを取り出しながらこう言った。
「あの、これなんですけど、トクさんに渡していただけますか」
そう差し出してきたのは、白いA4サイズの封筒だった。香純は黙って受け取り、それを天井にあるライトへ向けて中身を透かして尋ねた。
「一日の業務記録と打ち合わせなどで入ったお店の領収書のコピー、それと私からのお手紙が入っています」
「そうなんだ、助かるよ、ありがとう」
「これ、お渡しするかちょっと迷ったのですが、安心してくれると良いなと思いまして」
「うん、何よりの証拠さ、ありがとね」
あと小一時間もすれば、二人は再び元の生活となる。そうした中にあっても今は一分一秒を大事にしたい。互いにそう思いながら、その後も食事を進めた。コース料理を堪能しながら心地良く会話を続けた。とても落ち着いた空間にいる。そうして全ての料理を食べ終えた頃、食後に届いたコーヒーを片手に香純が一言尋ねた。
「昔さ、林松さんとおかみさん、それにトクと一号店で飲んだ時、皆で住みたいと言ったことがあるんだけど、美穂ちゃんはその話を知っているんだっけ」
「いえ、知りません」
「そっか、あれから随分経った今、あの時と今とでは全く状況が違う、何せ林松さんが村を作っている最中、俺も皆と暮らしたいなと思えたんだ、早速、明日帰ったらトクや子どもたち、それに向こうの両親に話をしてみるつもり」
「そこに私もと言ったら、驚きますか」
「え、いや、別に」
「もしそうならいつでも会えますね、ただ、あまりに近すぎるのは辛いかもしれませんけど」
「自分がそうしたいならそれも良いよ、それが本音ならね」
「ええ、私はもうこのまま先へ突き進みます、こちらの引継ぎが終わり次第、ご自宅へ伺おうと思っています」
「そっか、わかった、待っているよ」
「ありがとうございます」
目を輝かせながらそう言った後、美穂は急に席を立った。
「本当はお見送りをしたいのですが、お先に失礼します」
「わかった、また連絡してね」
「はい、しかし他の方と、このままお会いにならずよろしいのですか」
「ああ、見送りなんかいらないよ、今やそれどころではないからね、さっき交わした挨拶で十分、皆によろしく、あ、それとマイケルさんもね」
「わかりました、それでは失礼します」
美穂はそう言うと椅子の横に立って一礼し、すぐさま出口の方へと向かった。会計を済ませた後、一度こちらを振り向いた。その瞬間、かつて見たこともないとびっきりの笑顔で手を振る姿が目に入った。そして香純も右手を大きく上げ、それに応えて左右へ振った。他からの視線などには目もくれず、大きな声で感謝を伝えた。美穂がそれを見て、何度か目元を拭っていたように香純には映った。それから外で待つタクシーに乗り込み、美穂はホテルを後にした。
その車内に座ると膝元に抱えていたバッグの隙間へ顔を埋め、しばらくそのまま俯いていた。運転手が時々はルームミラー越しにちらりと見ている視線を感じながら、行き先だけを伝えた。そうしていると十分程で自宅前へ到着し、運賃を支払った後は足取り重く最初の片足を地面へ降ろした。礼を言って車から降り、入り口にある自動ドアの前に立ち空を見上げた。本音で生きると決めたが、今すぐ一緒に帰りたいとまでは言えなかった。どう考えてもこの状況でそう出来るはずもない。仕方なくオートロックを解除して建物の中へ入り、エレベーターに乗ると自宅階のボタンを静かに押した。
翌朝、香純は早々に帰国した。待ち合わせ場所の一階へ降りようとエスカレーターに乗った。次第に階下が見えてくると、遠目にトクと子どもたちの姿があった。その姿をほぼ同時に真純が見つけた途端、リンの手を引いてはしゃぎながら駆け寄ってきた。香純もキャリーバッグを引きながら小走りで近寄り、腰を下ろして両手を広げた。
「お父ちゃん、お父ちゃん」
そう言って駆け寄った二人を両手で思い切り抱きしめた。
「お父ちゃん、おかえりなさい」
「おかえり」
たった二週間ではあったが、久しぶりに見る二人は以前より成長している。
「ただいま」
そう感じながら二人を両手で抱き上げた。
「お、重くなったな、ご飯、しっかり食べているな」
「うん、今日もたくさん食べたよ」
「リンもだよ」
「偉いなあ、あ、お母ちゃんも来たな」
遅れてトクが静かに微笑を浮かべ、こちらへゆっくりと歩いてきた。
「おかえりなさい、お疲れ様でした」
「ただいま、迎えありがとう、お兄さん、車にいるのかい」
「うん、今駐車場にいるの、連絡するね」
「ああ、よろしく」
それから純一とも再開し、車でトクの実家へ向かった。例の話があっても、義理の兄である純一は今日も変わらない笑顔で迎えた。一頻り会話し終えた後、トクが義母フクについてこう漏らした。
「お母さん、やっぱり物忘れが多くてさ、しかも少し怒りっぽくなったのかも、歳だから仕方ないけど、ちょっと心配でさ」
「そう言えば前にも言ってたね、大丈夫なのかい」
「一緒に生活して今のところは問題ないけど、ちょっと頻度が増えてきて、うっかりすることが多いの」
「一度、受診してみるとか」
「うん、お父さんとも少し話はしたんだけど、でもお兄ちゃんがさ」
純一はルームミラーで、後ろの座席にいる二人をちらりと見てこう言った。
「歳相応って言われるだけだよ、生活に支障があるわけでもないし、今は様子見で良いんじゃないか」
それに香純も頷きながら隣にいる真純の頭をそっと優しく撫でた。リンはチャイルドシートに座り、うつらうつらと舟を漕ぎ出していた。
「お義父さんは何て言っているの」
「お母さん次第だって」
「そうなんだ、俺はまだ会っていないから何とも言えないけど、例の話もあったからどうかと思って、怒っているのかな」
「怒ってはいないけど、あれからあまりテレビを見なくなったわ」
「それ、やっぱり怒っているだろう」
すると純一は笑い出し、カーブを曲がるためハンドルを左へ切った。体がゆっくり右側へ傾いた後、再び直線となると元の位置へ戻った。リンはいつしか眠り始め、その頭も同じような軌道を描いた。そうこうしているとやがて実家へ到着した。純一は現場に戻るというので、香純が礼を伝えるとそれからすぐに走り去った。
結局、自分はどうしたいのか。次回、雲間に見える空へ ①




