本音 ④
「香純、既に連絡はしておいたが、向こうでは統括補佐としてやってもらう、主な業務は美穂に任せて、お前はこの二週間で全店舗からの意見を集約した上で、今後の対応に当たってもらいたい。仮に撤退を希望する店があっても、それはそれで致し方ない、だがいいか、相手はこちらのそうした動きを察知して動いてくるはずだ、前にも行ったように、今はまだそのタイミングを見ているのだろうと思う、証拠はなく俺の勘と経験からそう思うんだが、お前が赴任した頃には何らかの接触があるだろう、その対応はお前に任せる、ああ、それとな、重要事項の決定を下す代表権は美穂にはない、俺が最終的に決めるから報告は毎日してくれ、頼んだぞ」
出発日を迎えた当日の朝、家族がまだ寝静まる中でひっそりと起床した。洗面を済ませるとすぐに書斎へ向かい、昨夜に続いて今日の予定を見ておいた。約一時間程かけて頭に入れ、その後は畑に出かけた。ちょうどその頃にはトクも起きてきた。畑を一周して居間に戻った後、茶を飲みながらテーブルの上にカレンダーを拡げた。そして作業の内容をメモしておいた用紙を、その日付の上に一枚ずつ張りつけていった。野菜の成長具合をイメージしながら注意点も書き添え、全ての準備が終わった。きゅうり一本をかじりながら再び外へ行こうと席を立つと、タオルで顔を拭きながらトクがやってきた。
「早起きだね、今日、出発よね」
「ああ」
「これからご飯、用意するから」
「ああ」
返事した香純の横顔は、昔によく見た表情そのものだった。トクはそれ以上は何も言わず、静かに台所へ向かった。やがて子どもたちの声が聞こえてきた。いつものように騒がしくなるのかと思いきや、今日はやけに物静かだった。察した香純が歩いてきた二人が傍に来るなり、思い切り抱きしめながらこう言った。
「お父ちゃんも頑張ってくるから、真純、お母ちゃんとリンを頼んだぞ」
「リン、お母ちゃんとお兄ちゃんがいるし、おじいとおばあもいるから心配ないよ、お父ちゃんはすぐに帰ってくるから、良い子で待っててね」
その二、三日前のこと。善市からフクが自宅を出ることになったとの連絡があった。
「全く参っちゃうよ、フクのやつ、血相変えてそう言うんだもの、でもね香純くん、こっちのことは何も心配いらないよ、香純くんの留守中はフクが泊りに行くことになったから、これで俺もしばらくゆっくり羽を伸ばせるよ、あ、それとね、万が一を考えて、友人がやっている警備会社に連絡したんだ、畑と屋敷の警備を頼んでおいた、心配しないでしっかりやってきなさい」
その話を聞くと香純の胸は熱くなり、目元はうっすらと涙が浮かんで零れ落ちた。その声はいつになく優しさに溢れ、懐の深さを実感した。それほどに自分を信用してくれていると思うと、必ず成し遂げたいという強い力に変わっていく。もはや溢れ出す感情を止める必要はないと思いながら、力強く返事をした。
「お義父さん、何から何までありがとうございます、行ってきます」
朝食を終えた頃には義理の兄、純一が迎えに来た。純一は数年前に独立し、今は街中で建築事務所を開いている。玄関にある荷物を純一のワゴン車へ積み込んだ後、家族全員で車に乗り込んだ。久々に会った純一を見て、香純は善市にとても良く似ていると思った。懐かしい会話が弾んでいたが、途中で子供たちをトクの実家に預けた。子どもたちは二人とも泣いていた。香純は再び抱きしめ、しばしの間の別れを伝えた。どうしても一緒に行くと言って聞かないリンを真純がなだめていると、家の中からフクが大声で二人の名を呼んだ。ケーキがあると聞いた二人は、その後は渋々ながらも中へ入っていた。その直後、善市が窓辺に立ち、親指を立てながら微笑む姿を目にした。香純は軽く会釈し、同じように笑顔で応えた。その一方で、フクはその後も現れることはなかった。そのためトクは一旦、家の中に入った。その後は数分程で戻ってきて再び乗り込んだ後、純一は車をゆっくりと動かした。善市の隣では子どもたちが手を振っていた。しかしフクの姿は今も見えない。香純も手を振り返していると、やがて敷地を抜けて行った。隣にいるトクの表情を見ては大方の察しがついたので、香純は何も尋ねずに純一との話しを進めた。しばらく走り、やがて空港へ到着した。香純が荷物を降ろしていると、後ろから純一が声を掛けてきた。
「帰りはまた迎えに来るから、連絡してよ」
「ありがとうございます、本当に大助かりです、お忙しいのに申し訳ありません」
「いいんだよ、事情は聞いているからさ、あっ、それとこれ、モモから預かってきたんだ」
純一がそう言って掌を拡げると、そこには真新しいペンライトが一つあった。
「うわ、懐かしいな」
香純はそう言って受け取ると、先端を捻り、灯りを着けてトクの方へ向けた。やがて思い出したのか、トクは少しだけ微笑んだ。
「香純、これ」
その後にトクが手渡してきたのは、あの山で撮った一枚の写真だった。ソフトクリームを落として泣いているリンを、真純がその横から優しく頭を撫でている。その様子を見て、朗らかに笑っている香純を映したものだった。
「私、待っているから、美穂ちゃんのことも」
香純はそう言った意味を噛み締めながら、静かにこう告げた。
「大丈夫だよ、何も心配いらないよ」
「うん」
二人が手を振りながら見送る中、香純は何度か振り向き応えながらロビーを目指した。手続きを済ませた後、飛行機で大空高く飛び立った。
無事に到着し、空港内にあるカフェへ立ち寄ることにした。迎えに来てくれるとは林松から聞いていたが、まだ時間がある。軽く食事でもして、少し休もうと思いながら注文した。するとその直後、背後から女性の声が聞こえてきた。
「あの」
日本語だと思い、咄嗟にくるりと振り返った。その顔を見て、まさかと驚いた。
「美穂ちゃん」
「あ、やっぱり香純さんだあ、きゃあ」
と言うなり、美穂は人目も構わず抱き着いてきた。
「うわ、ちょ、ちょっと」
そんなことはお構いなく、その背にしばらく頬を埋めた。
「ありがとう、来てくれて」
しかしそう言う横顔は、まさに窮地だったとの様相を呈しているように見えた。香純は咄嗟にそう感じ、すぐさまこう言った。
「準備してきたから、もう大丈夫だよ、頑張ったね」
その二人から少し離れたところには優がいて、今もこちらの様子を静かに眺めていた。こうして香純がやって来たのは、きっと会社のことだけではないだろう。優は薄々ながら、そう勘づいていた。
「香純さん」
そうしている二人の後ろから優が声を掛けると、香純は美穂に離れるようにと伝えた。そしてさらに覗き込むような姿勢で
「おお、優」
と返事した。優は軽く笑みを見せたものの、その心中は穏やかではなさそうに見えた。香純は美穂の肩を軽く押したところ、ようやく離れた後にこう言った。
「野菜、採れたんだってな」
「ええ、少しだけですが、それにしてもなぜ、こちらへいらしたのですか」
その問いに香純は少し押し黙った。すると美穂がそれを遮るかのようにして
「なぜって、この現状を見ればわかるでしょう」
と、珍しく声を強めて言った。そのため振り返る人も数名いた。しかし美穂は再び笑顔で変わらず、こう続けた。
「香純さん、来てくれて本当にありがとう、今日の夕食は既に予約してありますので、私がご案内しますね」
そう言った後、すぐに付き添いの社員へ小声で何かを伝えた。するとその社員は頷き、小走りで立ち去った。その後、香純を一階のエントランスに案内しようとしたが、注文した品が届いた。そのため香純は食事を済ませるので待って欲しいと伝えた。美穂は快諾し、先に階下へ降りると告げた。十分程で済ませ、支払いをした後に階下へ降りていった。すると一台の白いバスが止まっていて、その隣では手を振っている美穂と再び合流した。
「さあ、中へどうぞ」
美穂がそう言うので車内へ入ると、一斉にパアンと音が鳴り響いた。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
クラッカーの音と共に大きな声があり、十名程の制服を着た人達が笑顔で迎えた。香純は意外に思いながら答えた。
「ありがとうございます、しかし、お祭りのようだね」
「今日はお疲れでしょう、楽しんでくださいね」
美穂もそう答えて微笑んだ。
香純は少しだけ頬が熱くなるような感覚を覚えながら、少し照れ臭く思った。その後にバスはゆっくりと走り出した。その間、優は一言も発することはなく、二人の姿をただ静かに眺めているのみだった。




